需要と供給 2 | 芸能の世界とマネジメント

芸能の世界とマネジメント

芸能界、芸能人のために論じます。

前稿において、まずはこれまでのシリーズを一新し、さらにタイトルまで変え、需要と供給の両方について同時に議論していこうとする旨を論じてまいりました。需要と供給は需給曲線を知っている人であればある程度のイメージをすることは可能であると思われます。しかしながら、現実のマーケットはそれほどまで甘くはなく、供給が需要を生むような社会にあっては、供給者の失敗はそのまま企業の業績に跳ね返り、それ故に怖くて積極的にマーケとへ出ていくことができない企業も多いのではないでしょうか。

 

例えば、ネットの動画配信が儲かるからといって、今の時代からネットの動画が配信者になったところで非常に厳しい現実が待っているのは目に見えております。なぜなら、競争者が多いからです。これこそ供給過多となっており、「有名になるには?」をいくら考えたところで、最終的には資金力がモノをいう世界であることに気づき、ではどのようにして現金を手にすればよいのかについてを考えているうちに旬を逃す人がほとんどであります。しかもネットの情報配信の弱点は何といっても閲覧したい人しか閲覧しないことです。全世界は広すぎるとして、少なくとも日本国内にて有名になろうとするとき、やはり不特定多数の人に目にしてもらうことは非常に重要なことであると思っております。いきなりネットの動画配信から行うと、どれほど再生回数が上がろうとも、その動画を知っている人や検索で見つけた人以外の人の目に触れることは難しく、この点において、やはりテレビの役割は不特定多数の人に自分自身を見てもらうには非常に有益な手段であるかと考えております。

 

これはネットが正しいのか、ないしテレビが正しいのかなる議論ではなく、どちらも必要であるかと私は思っております。不特定多数向けのテレビにて情報を拡散させ、その後に専門的にネットにて接触を試みていゆくことが大切なのではないでしょうか。

 

ところで、需要と供給とのバランスを決めてゆく場所が存在します。それがマーケットであります。これは前稿においても既に述べておりますが、マーケットを市場(しじょう)と読む場合、そして市場(いちば)と読む場合があり、これはこの漢字を見る人の布置によるものが考えられます。厳密なる意味を求めるのであれば「しじょう」と「いちば」には大きな差があるように定義することは可能ですが、心理学者からすると本稿において「しじょう」であれ「いちば」であれ、それは誤差の範囲内であると考えております。なぜなら、人間は間違う動物であるからです。

 

この人間は間違う動物なる性質を利用することにより、逆に間違えを減らすように努力をしてみようと思い、私は本稿においては市場のことをマーケットと表現することにしました。

 

例えば、「しじょう」と読むと一般的にどのように感じられるかについてを想定してみますと、「経済学用語」ではないでしょうか。「いちば」と読んだ場合は近所の公設市場や中央卸売市場ではないでしょうか。マーケットとまでいくと「フリーマーケット」ですよね?経済学者は「しじょう」をマーケットとイメージする人がほとんどであるかと思いますが、一般の人からするとフリーマーケットであるように思われます。むしろそうあってほしいですね。言葉のイメージは重要であると思っておりまして、マーケット≒フリーマーケットと思うことで学問に対する垣根が低くなるように思っておりまして、しかもフリーマーケットそのものは売りたい人と買いたい人とが非常にダイレクトに感情のぶつけあいをする場所であり、そこには金融機関の介入があるからその商品を2万個ください!なる考え方は存在しにくい状況であり、需要とは何か、さらには供給とは何かを考えていくにはわかりやすい媒体であり、需給関係という対立する概念が見事にマッチしてゆくパラドックスを目の当たりにするには非常に良いかと思い、マーケットという言葉をもって市場を考えていこうとするものであります。

 

今回はこれにて筆を置きます。ご高覧、ありがとうございました。