(No.97の続き)
十戒が現在も有効か無効かは、それほど問題ではないと考える人も多いかも知れません。クリスチャンを自認する人にとっては、十戒の条項は、当然と思える内容であり、守ることがそれほど困難とは思えないからです。とは言え、一つだけ疑問となる条項があります。それは第四項の「安息日を覚えて、これを聖とせよ。」と言うものです。
十戒が現在も有効であるとするなら、七日目の土曜日を安息日として守ることが必要となります。ところがキリスト教の主流である、カトリックやプロテスタントは古くから一日目の日曜日を礼拝の日として守ってきました。この点で、土曜日こそ本来の安息日であるとするグループとは対立関係にあります。そうしたグループや教派は、当然ながら、十戒が現在も有効であると強く主張しています。
ところが、興味深いことに、神の国と永遠の命への道を説いたイエスの教えの中には、週の特定の日に集まるようにとか、今日、種々の教会で行われているような「礼拝」を行うようにと言った指示は有りません。ですから、日曜日に「礼拝」を行っているグループも、土曜日に行っているグループも共に、聖書的な根拠の無いことを行っているのです。
とは言え、聖書が「礼拝」に関して何も述べていないわけではありません。下記はサマリヤの女とイエスの会話です。
わたしたちの先祖は、この山で礼拝をしたのですが、あなたがたは礼拝すべき場所は、エルサレムにあると言っています」。イエスは女に言われた、「女よ、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。(中略)まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。(ヨハネ4:20-23)
ユダヤ人も、対立するサマリヤ人も、「礼拝」のための特定の場所を定めていたのですが、イエスはそれら特定の場所での礼拝を否定されました。ですから、イエスの父が求めておられる真の「礼拝」とは、特定の場所で行なうものではないのです。この点で、日曜日であれ土曜日であれ、あるいはそれ以外の日であれ、特定の場所で行われている「礼拝」は、神が求めておられる真の礼拝ではないのです。
聖書には礼拝の内容についても明確な指示がありますが、それは、プロテスタントやカトリックの教会で行われているように、賛美の歌や祈りや、説教で構成されるようなものとは大きく異なります。
では、イエスが述べておられる「霊とまこととをもって父を礼拝する」、真に霊的な礼拝とはどのようなものなのでしょうか。
兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。 (ローマ12:1)
これこそクリスチャンがなすべき真の礼拝です。これは特定の場所や特定の時間だけ行うようなものではありません。何時でも何処でも行うべきであり、また行えるものです。またこれは、心や思い、感情などで完結するものでもありません。捧げるべきは私たちの体であり、それも生きた体です。それは行動を意味しており、神に喜ばれる行動、行いのことです。