さて、長編「カラマーゾフの兄弟」の一つの核心は、「大審問官」(第二部第五篇五)と題された挿話にあるだろうか!
ここで、「ドストエフスキー全集 第10巻」に添付されている「月報」から、「イワンの思想」(白井健三郎)の叙述を引用してみたい!
・・・ドストエフスキーの小説中の人間像のうちで、現代人にことさら関心をもたせるのは、多くの場合、スタヴローギン的人間である。『罪と罰』のラスコーリニコフ、『悪霊』のスタヴローギン、『カラマーゾフの兄弟』のイワン、『地下生活者の手記』の主人公、かれらはいずれも或る共通した特徴を具えた人物であって、ふしぎとわれわれ現代人の意識に密着してくる具体性をもって迫ってくる。それは何かということをあえて一言にして言えば、かれらがすべて近代的倦怠感に苦悩し、そのかれらの苦悩が現代的苦悩にきわめて切実に呼応するからなのだ。かれらの苦悩はまことに近代的観念性であるにもかかわらず、その苦悩そのものを現実的実在性をもってえがいたところに、ドストエフスキーの作家的天才があるのだが、しかもドストエフスキーの偉大な批判精神は、これらの人間像のもつ苦悩の観念性を徹底的・根源的に露呈せしめているところにあると思う。・・・(p.4)
さらに続けて、
・・・かれらと対立している人間が、ドストエフスキーの小説にかならず登場しているが、それはその対立を人間としての根源的存在性において顕著にさせるためであり、これらの人物の観念性に現実的な運動をひきおこす人間としてである。スタヴローギンの苦悩に実在性をひきおp.4こしたのは、マトリョーシャの絶望の苦悩であり、ラスコーリニコフの苦悩を実在かしたのはソーニャの愛であった。しかもこれらの人物は、けっして救われることのない人間なのである。『罪と罰』において、ラスコーリニコフがソーニャの前にひざまずく終末はたしかに感動的であり、結末的な解決のように見える。しかしはたして、ラスコーリニコフの生はよみがえされたのであろうか。むしろそれは、ラスコーリニコフの真の絶望をあらわにするものではないか。スタヴローギンは自殺をし、イワンはついに発狂してしまう。これらの悲劇的人物は、われわれ現代人にきわめて親密でありながら、しかも作者ドストエフスキーによって、未解決の矛盾の深淵に突き落とされたままにされるのは、なぜか。・・・(p.4)
ドストエフスキーの小説の登場人物の性格づけについての叙述から、イワンのイメージをくみ取ってみれば、「大審問官」におけるイワンの言葉の理解の手助けになるだろうか。。。
この深遠な部分で、アレッと思ったのは、些末事であるのは重々承知の上で、「ねばねばした若葉」という訳語である。
・・・「もしも僕が実際ねばねばした若葉に心を惹かれるとしたら、それを愛していけるのはお前を思い出すことによってのみなんだよ。(以下略)」・・・(小沼訳 p.293)
・・・「もしほんとうにぼくに粘っこい若葉を愛するだけの力があるとしても、おまえを思い出すことによってだけ、ぼくはその愛を持ちつづけていけるんだ。(以下略)」・・・(江川訳 p.338)
因みに、同じ昭和戦後に翻訳された新潮文庫版では、
・・・「もし本当に俺が粘っこい若葉に心ひかれることがあるとしたら、俺はお前のことだけを思いだしながら、若葉を愛することだろうよ。(以下略)」・・・(原訳 p.665)
アリョーシャに向かってイワンが語る一節である。
(なお、この二人の会話で、先にアリョーシャがイワンに語る台詞の中にも、この表現が出てきているので、謂わば、常套表現かなとも思うけど。)
この部分だけをとってみても、訳者による違いがいろいろと読み取れるかも。。。
「ねばねばした若葉」であれ、「粘っこい若葉」であれ、イマイチどんな若葉かイメージが浮かばないのだわ!
つまり、ここで言いたいのは、どんな訳書で読んだのかによって、読者のもつ作品のイメージが微妙に異なるということだ。しかも、たった二行ほどの訳文を読み較べてみて、いかに違うかということに気づかれたことかと思うのだけど。同じ原文を日本人訳者がこんなにも違った日本語で提供しているのだ!
「若葉」(ねばねばした、或いは粘っこい)というイメージは、この三つの訳文を合わせ読んでみても何の暗喩・換喩なのか、しかとは分かりにくい。こんな些末事に拘ることが実のあることとは思えないけど、どんな翻訳書を選択するのかという問題提起にもなろうか?
さらに、最も古い翻訳と最も新しい翻訳も読み較べてみると、
・・・「もしほんとうに粘っこい若葉を愛するだけの力が僕にあるとしたら、それはお前を思い起こすことによって、はじめて出来ることなのだ。・・・(米山訳 p.109)
・・・「じっさい、このおれにねばねばした若葉を愛する力があるとしてもだ。おれが若葉を愛せるのは、おまえを思い出すときだけなんだ。・・・(亀山訳 p.299)
昭和から平成までの代表的な五つの翻訳を読み較べてみても、「ねばねばした若葉」か「粘っこい若葉」のいずれかである。
この意味合いはすんなりと落ちてこない恨みが募るなあ。。。
なぜ、「ねばねばした(粘っこい)若葉」を愛することが、イワンとアリョーシャとの愛や思い出に結びつくのだろうか??
該当部分の原文は、
клейкие листочки (「ドストエフスキー全集 第14巻」 1976 p.240)
訳語は、「粘着性の葉」ということになる(これ以外には考えられない)。
欲を言えば、なんらかの訳注をつけてもらったら、私のような詮索好き読者には有難いかな(^^)
・・・「粘っこい若葉」はプーシキンの『野に吹く風はいまだ冷たく(Ещё дуют холодные ветры )』という詩の引用です。この詩には、桜桃という語も出てきます。・・・
プーシキンの詩の引用だという説もあるらしいけど、しかとは判明せず。
そこでは、「ねばつく若芽」いう訳語が使われている。。。
プーシキンの詩でも使用されているので、ロシアでは決まり文句のような語彙であって、日本人の眼からみると不思議なイメージでしっくりこない感があれど、特段の意味はないのかも知れぬ。


