ご訪問くださいまして、

有り難うございます。

 

れっつごうです(^^)

 

評論家、翻訳家、劇作家でもある

福田恆存(ふくだつねあり)さんの著作、

 

人間・この劇的なるもの

 

 

を読んでみて、

私の印象に残ったところを、

紹介・解説しています。

 

この本の冒頭で、

 

 

愛もまた創造である。

意識してつくられるものである。

 

 

という印象深い文章があります。

 

今回は、この

「愛もまた創造である」

という言葉を

掘り下げていきたいと思います(^^;

 

 

「神との対話」シリーズに、

"Tommorow's God"(明日の神

という本があります。

 

「神との対話」というと、

ちょっと怪しげな感じがしますが(^^;

 

内容は正統派スピリチュアル

といった感じの本質的なもので、

自己啓発書としても有益な本だと思います。

 

過去ブログでも紹介しました。

 

(よかったらご参照ください)

 

私の敬愛する心理学博士、

カウンセラーの古宮昇先生が

"Tommorow's God"(明日の神

から翻訳された

人間関係についてのメッセージがあります。

 

 

自分がどういう人になるか、

どういう人でいるか、

それを決めるのが人生です。

 

そして、

前の自分よりも

さらに大きな自分になること、

 

さらに進化した自分になること、

 

そこに肉体をもって

生まれてきた目的があります。

 

 

そうですね。

 

私も、生まれてきた目的というのは

「どういう人であるか」

を決めて、

「魂が成長するため」

ではないかと考えています。

 

 

そしてあなたがたが、

 

どういう人になるか、

どういう人でいるか、

 

を決めるには

人間関係が必要です。

 

他の人が存在しなければ、

あなたという人は

意味ある存在では

なくなってしまいます。

 

 

たしかに、

他人がいてはじめて、

 

その人に対して、

どういう人になるか、

どういう人でいるか、

 

自分の振る舞い方を、

決めることができるわけです。

 

 

だから、

すべての人間関係は

聖なる関係性です。

 

あなたが

「良い」とか「ポジティブ」だと

レッテルを貼っている

人間関係も、

「悪い」とか「ネガティブ」だと

レッテルを貼っている

人間関係も、

 

すべて、あなたが

どういう人になるか、

どういう人でいるか、

それを決めるために

欠かせないものであり、

 

それゆえ同じだけ

聖なる関係性なのです。

 

 

そうですね・・・

 

人間関係の「良い」「悪い」

というのは、

 

ある意味、

私たちが勝手に決めつけている

「レッテル」であって、

 

見る角度や立場によって

変わってくるものですが、

(渦中にいると、

なかなかそうは思えませんが(^^;)

 

たとえ、

「悪い」と思える人間関係の中でも、

 

その中で、

自分がどういう人でいるかは、

自分で決めることができるわけです。

 

ある意味、

チャンスともいえる。

 

 

多くの人たちが、

恋愛や結婚によって

幸せを「探し」、

幸せを「見つけよう」とします。

 

しかし

恋愛や結婚の真の目的は

「見つける」ことではありません。

 

その真の目的は

幸せを「創る」ことです。

 

「見つけること・探すこと」と

「創ること」

の違いは大きいです。

 

 

恋愛や結婚の目的は、

幸せを

「探し」「見つける」ことではなく、

「創ること」である・・・

 

 

見つけよう、探そう、

とするとき、

 

あなたはそれが

自分にはないと信じています。

 

だからその

信念通りの結果になり、

幸せではなくなります。

 

それに対して

「創ろう」とするとき、

 

あなたは

自分のもっているものを

その関係性に持ち込もうとします。

 

つまり

自分にすでにあるものを

使おうとしているのです。

 

 

なるほど、

ここはポイントですね。

 

元々、幸せの元になるものは、

「自分にはない」から、

「見つけよう」「探そう」

とする。

 

一方で、

「創ろう」ということは、

元々、幸せの元になるものは、

「自分の中にある」から、

 

そのあるものを使って、

人間関係で、

幸せを「創り出す」。

 

 

また、別の本になりますが、

遠藤周作氏の小説

 

女の一生 2部 サチ子の場合

 

 

の一節を想起します。

 

 

「ここに愛がないのなら・・・」

 

と神父は

かすれた声で言った。

 

「我々が愛をつくらねば」

 

 

「我々が愛をつくらねば・・・」

 

これは、小説に登場する、

「コルベ神父」

に遠藤周作さんが語らせた言葉です。

 

この小説(の2部)は、

第二次大戦下の長崎が

中心に描かれているのですが、

 

並行する形で、

アウシュビッツ強制収容所も、

描かれています。

 

アウシュビッツは、

言わずもがな、

大量虐殺の場。

 

人間はこうも

非人道的な行為ができるのかと、

戦慄を覚えるほどですが、

 

そういう意味で、

アウシュビッツは、

最も愛が欠如した場所と、

いえるかもしれません。

 

愛を探しても、

どこにも見つからない世界。

 

その中で、

コルベ神父は、実際に、

「愛を創造」した。

(史実です)

 

有名な話なので、

ご存知の方も多いと思います。

 

今回はネタバレになるので

あえて割愛しますが、

 

過去ブログには掲載しました(^^;

 

(かなり初期のブログです)

 

この小説で印象的なのは、

コルベ神父が実践した、

「愛の創造」が、

影響の輪を広げていく場面です。

 

 

西のほうの地平線が

今日も薔薇色にそまった。

 

「作業終了」

の笛があちこちで鳴り、

 

囚人たちは

自分たちの掘った穴から這いあがり、

点呼を受けるため整列した。

 

彼等の前面には燃え上がる空と、

夕日を受けた城のような

雲が拡がっていた。

 

囚人たちが番号を叫んでいる間、

うるんだ硝子玉のような夕陽が

少しずつ落ちていった。

 

「ああ・・・」

 

と一人の囚人がつぶやいた。

 

「なんて、この世界は

・・・美しいんだ」

 

みんな黙っていた。

ああ、

なんてこの世界は美しいのだろう。

 

昨日までこの世界は

愛もなく喜びもなかった。

 

ただ恐怖と悲惨と拷問と

死しかない世界だった。

 

それが今日、

この世界はなんて美しいのだろう。

 

彼らはその世界を

かえてくれたものがわかっていた。

 

愛のない世界に

愛を作ったものを・・・。

 

それから長い間――、

 

収容所のなかで

ヘンリックの記憶の底から、

 

あのこわれた丸い眼鏡をかけた

コルベ神父の顔が

たびたび浮かび上がった。

 

 

ヘンリック(創作上の人物)は、

自分だけは何とか生き延びようとする

エゴの塊のような人間

なのですが、

(こんな状況化では無理もないですが)

 

やがて、

ヘンリックは・・・

 

 

・・・

そんな頃、

彼と寝台を共にしている男が

目立って衰えてきた。

 

顔に白い粉のようなものが

吹き出て、

 

皮膚がカサカサになり、

腹だけが奇妙にふくらんでくる。

 

栄養失調で

死ぬ一歩手前であることは、

もうヘンリックたちに

わかっていた。

 

・・・

 

(あの男に、

君のパンをやってくれないか)

 

この時、突然、

彼の耳に思いがけぬ

ひとつの声がきこえた。

 

ひくい囁くようなその声は

聞きおぼえがあった。

 

コルベ神父の声だった。

 

(あの男は死ぬかもしれん。

君のパンをやってくれないか)

 

ヘンリックは首を振った。

今日あてがわれた

たった一つのパンを他人にやれば、

倒れるのは自分だった。

 

(俺はいやだ)

 

(あの男は死ぬかもしれぬ。

だから死ぬ前にあの男が

せめて愛を知って

死んでほしいのだ)

 

哀願するような

コルベ神父の声。

 

ヘンリックはその時、

八月の夕暮、

身代わりになるために

列外にのろのろと進み出た

神父の猫背を思い出した。

 

ヘンリックはパンを

その男にやった。

 

男は眼にいっぱい泪をためて

「ああ、信じられない」

とつぶやいた。

 

ヘンリックができた愛の行為は

これだけだった。

 

それでもヘンリックは

愛を行った。

 

 

コルベ神父が

「愛を創造」したことが、

ヘンリックに影響を及ぼし、

 

ヘンリックの中に

眠っていた愛を呼び起こして、

 

彼は、ちょっとした愛を実践、

(この状況下では

すごいことだと思いますが)

すなわち、

「愛を創り出した」のですね。

 

愛とは、

元々、私たちの中に

備わっているものだと考えます。

 

ただ、それは、

普段は眠っていて、

 

具体的に表現しないと、

なかなか表面には現れない。

 

もともとあるものを、

体現化すること。

 

それが、

「愛を創造する」

ということなのかと思います。

 

もっとも、

コルベ神父の愛の創造は、

究極の愛の行為であり、

 

私には到底できるレベルでは

ありませんが(^^;

 

まずは、

ヘンリックの愛の創造を目標に、

人生を歩んでいきたいと思っています。

 

 

ちなみに・・・

「愛」について

いろいろと考察されたい方には、

 

飯田史彦氏の、

愛の論理

 

 

という本があります。

 

この本は、

スピリチュアルというよりも、

さまざまな「愛」が

論理的かつレベル別に

紹介されており、

 

自分のレベルに応じて、

目指すべき「愛」がわかるという

大変有益な本です(^^)

 

いつかこのブログでも

紹介させていただこうと思いますが、

よかったらお読みください。

 

 

 

***********************************

 

 

 

以上、

福田恆存(ふくだつねあり)さんの著作、

 

人間・この劇的なるもの

 

 

からは、

かなり脱線してしまいましたが(^^;

 

今回は、

「愛もまた創造である」

という言葉をテーマに

考察をさせていただきました。

 

自分のできるレベルに応じて、

まずは、身近なところで、

「愛を創造」していきたいものですね😊

 

 

 

追伸

この本を読んで、

浮かんできた曲がありましたので、

紹介します(^^)

 

尾崎豊さんの

「町の風景」

 

 

(CDアルバムの「街の風景」とは、

アレンジと歌詞の一部が違いますが、

これはこれで素敵なバージョンです)

 

「~人生は時を演じる舞台さ♪」

 

高校生の時に創った曲だそうです。

やっぱり彼は天才ですね!

 

 

 

 

**********************************

 

 

 

今回も最後までお読みくださいまして、

有り難うございました。

 

また、今年一年間、

大変お世話になりました。

 

何とかブログを続けることが

できているもの、

読んでくださる皆さまのおかげです。

 

有り難うございます。

感謝申し上げます。

 

来年も皆さまにとって、

素晴らしい年でありますように😊

 

よいお年をお迎えください!

 

 

 

********************************

 

 

 

おまけ写真集(^^;

 

丹沢の三ノ塔に登りました!

 

 

ヤマトタケルの足跡を越えて・・・

 

 

 

おお、今日は富士山ばっちりか!

 

二ノ塔を越えて、

 

 

 

この上が三ノ塔・・・

 

 

 

着きました!

富士山絶景・・・

 

 

 

こっちは、大山。

 

 

 

江ノ島が見えますね!

 

 

 

もう少し先まで行きます。

 

 

 

秦野、小田原方面をのぞむ。

 

 

 

行者岳。

 

日が短いので、

今日はここで折り返します。

 

 

 

吸い込まれそうな景色・・・

 

 

 

三ノ塔に戻りました。

 

 

 

富士山アップ!

ああ、美しい・・・

(これ年賀状の写真にしました)

 

 

 

下山します。

 

 

 

蓑毛大日堂に立ち寄り。

 

 

 

平安時代の素朴な仏像が、

安置されています。

(隙間から覗けます)

 

 

 

隣の寳蓮寺、

まだ紅葉がきれいでした!

 

では、

皆さま、よいお年をお迎えください😊

 

 

ご訪問くださいまして、

有り難うございます。

 

れっつごうです(^^)

 

前回から、

評論家、翻訳家、劇作家でもある

福田恆存(ふくだつねあり)さんの著作、

 

人間・この劇的なるもの

 

 

から、

私の印象に残った箇所を、

紹介・解説しています(^^)

 

前回、

人生を舞台、演劇に例えるとすれば、

大事なのは、

登場人物の「役割」であり、

ストーリーの「必然性」である。

 

そして、

 

 

生きがいとは、

必然性のうちに生きているという

実感から生じる。

 

 

という、

興味深い文章を、

引用させていただきましたが、

 

では、

この「必然性」というのは、

どう考えればいいのか・・・

 

著者はこう述べます。

 

 

劇の進行とともに

堆積されてきた現在は、

それ自身を完全燃焼

させなければならないのだ。

 

そのための必然性は

固く守られなければならない。

 

現在は偶然の帰結であり、

偶然の可能性をはらみながら、

しかも、

幕切れにおいては、

すべてが強度の必然性をもって

甦る。

 

 

ちょっと難解な文章ですが(^^;

 

つまり、

劇の途中では、

単なる偶然の出来事だと

思われていたことも、

 

最後の幕切れの段階では、

 

「ああっ、あの出来事は、

起こるべくして起きたんだ。

 

「あの出来事は、

必然だったんだ・・・」

 

と腑に落ちるようになる、

ということでしょうか。

 

 

「必然性」

をもう少し突っ込んで考察してみます。

 

白石一文氏の小説、

 

この胸に深々と突き刺さる矢を抜け

(私が人生で大きな影響を受けた

小説のひとつ、おすすめです!)

 

(これは単行本の下巻、文庫も出てます)

 

は、この「必然」というのが、

小説のテーマのひとつになっています。

 

小説の中で、

ガンに侵されて余命宣告を受けている、

辣腕編集長がこう述べます。

 

 

「・・・

これは無理だなって

思うことでも、

それが自分にとって

必然であれば

きっと実現するんだ。

 

人の力や、

まして神様の力なんて

借りずに、

 

僕はそうやって

自分がそうなって

しまうだろう人生を

しっかりと生きたい。

 

すでに決まっていることを

自分で決めるんだよ。

 

必ず過去になってしまう未来を、

過去にはせずに、

現在という一瞬一瞬で

完全に食らい尽くす。

 

言ってみればそういう人生かな。

 

過去がなくなれば

当然未来もないだろ。

 

そうなれば

人生には現在しかないって

いうことになる。

 

そうやって現在しかない人生を

送るというのが、

必然を生きる

ということでもある」

 

・・・

 

「もっと嚙み砕いて言えば、

何かをするたびに

 

『自分がこれをやっていると

いうことは、

すでに決まっていた

ことなんだろうか?』

 

と自分に尋ねるんだ。

 

そして、

 

『いや、これは行き当たり

ばったりでやっているだけだ』

 

と気づいたら、

そんなことすぐに止めちまう。

 

そういうことだよ」

 

 

人は、死を意識すると、

ほんとうに大切なものが見えてくる

といいます。

 

一瞬一瞬を大切に、

「今ここを生きる」ようになる。

 

それが、

「必然を生きる」

ということなのかと思います。

 

私は、正直、

まだ本気で、

死を意識することはできませんが(^^;

 

「自分にとって、ほんとうに大切なこと」

すなわち、

「自分の価値観」

というものは

明確にしておきたいと思っています。

 

人生の最期で、

「ああ、私の人生は必然だったんだ」

と思えるように・・・

 

 

人間・この劇的なるもの

に戻りますね(^^;

 

引用します。

 

 

私たちは、

自分の生が

必然のうちにあることを

欲している。

 

自分の必然性にそって

生きたいと欲し、

その鉱脈を掘り当てたいと

願っている。

 

劇的に生きたいというのは、

自分の生涯を、

あるいは、その一定の期間を、

一個の芸術作品に仕たてあげたいと

いうことにほかならぬ。

 

この欲望がなければ、

芸術などというものは

存在しなかったであろう。

 

役者ばかりではない。

人間存在そのものが、

すでに二重性をもっているのだ。

 

人間はただ生きることを

欲しているのではない。

 

生の豊かさを

欲しているのでもない。

 

ひとは生きる。

同時に、

それを味わうこと、

それを欲している。

 

現実の生活とはべつの次元に、

意識の生活があるのだ。

 

それに関わらずには、

いかなる人生論も

幸福論もなりたたぬ。

 

 

現実の生活とはべつの次元に、

意識の生活がある・・・

 

作家の遠藤周作氏は、

「生活」と「人生」

の2つがあるといいましたが、

 

人は、生きていくために、

「生活」から逃れるわけにはいかない。

 

炊事、洗濯といった、

日々の雑務もこなさなければならないし、

何より、

食べていくための収入が必要です。

 

ただ、

「現実の生活」だけの生き方は

いかにも味気ない。

 

「意識の生活」

すなわち、

「人生」を感じるもの、

 

たとえば、

文学や映画、絵画、演劇といった

芸術作品に触れることは、

日々の生活に彩を添えますし、

 

時には、自ら、

「特権的状態」を味わうことで、

人生の「意味」を感じられる。

 

だから、

生きていくうえでは、

「生活」と「人生」

の両方が必要である。

 

遠藤周作氏が、

素人劇団「樹座(きざ)」

を主宰したのも、

こういうことかと思います。

 

 

前回、

この本の冒頭で述べられている、

 

 

愛もまた創造である。

意識してつくられるものである。

 

 

という文章を

引用させていただきましたが、

 

人生を意味のあるものにするためには、

 

やっぱり

「愛を創造する」

ことなのだと思います(^^)

(ちょっと大きく

出てしまいましたが😅)

 

では、

「愛を創造する」とは?

 

・・・次回に続きますね(^^;

 

 

 

********************************

 

 

今回も最後までお読みくださいまして、

有り難うございました。

 

次回もこの本を題材にします(^^;

 

 

********************************

 

 

 

おまけ写真集(^^;

 

 

大山を右手に眺めながら、山歩き・・・

 

 

 

経石。

 

巨大な岩の裏に穴が空いています。

そこに弘法大師が経文を納めたという伝説が・・・

 

 

 

経ヶ岳着きました!

 

標高は633mですが、

なかなか眺めがいいです。

 

 

 

2種類の別の木が混じり合っている?ので、

「異種格闘木」

と書いてあります(^^;

 

 

 

華厳山。

 

「西山」(この一帯の山)

を守る会の方たちの、

手作りグッズが無人販売されていました。

 

「アクリルエコたわし」を買いました!

 

 

 

紅葉がまだ残っていました(^^)

 

 

 

高取山。

 

 

 

その先の発句石から。

ここ絶景スポット!

 

 

 

ちょっと拡大しましたが、

遠くに、横浜みなとみらいのランドマークタワー。

(たぶん)

 

 

こちらの先は、おそらく東京のビル群。

(たぶん)

 

 

 

湘南、伊豆方面を臨む。

 

 

 

帰り道、ごそごそすると思ったら、

遠くに猿の群れが!

 

小さな赤ちゃんをおんぶしていました😊

(ピンぼけ拡大写真で見えにくいですが)

 

 

 

やっぱり自然はいいな!

おかげさまでリフレッシュできました。

 

 

 

愛川町の勝楽寺。

立派な山門です!

 

 

ご訪問くださいまして、

有り難うございます。

 

れっつごうです(^^)

 

ここ数日で、

ぐっと冷え込んでまいりましたね。

 

朝の着替えの時の寒さが、

耐えがたく感じる今日この頃です(^^;

 

 

 

私が通勤で使っている駅前では、

まだ街の本屋さんが健在です。

天一書房さん感謝です!)

 

仕事帰り、早く帰宅できる日には、

そこでよく本を物色するのですが、

 

先日、

新潮文庫の棚を眺めていたら、

この本の背表紙のタイトルが目を引きました。

 

 

人間・この劇的なるもの

 

著者は、

評論家、翻訳家、劇作家でもある

福田恆存(ふくだつねあり)さん。

 

おそらく著作をちゃんと読んだことはなく、

いつか読んでみたいと

思っていたお方なのですが、

 

冒頭ちらっと立ち読みしたら、

こんなことが書かれていました。

 

 

愛は自然にまかせて

内側から生まれて

くるものではない。

 

ただそれだけではない。

 

愛もまた創造である。

 

意識して

つくられるものである。

 

女はそうおもう。

自分はいつでも

そうしてきた。

 

だが、

男にはそれがわからない。

 

かれは自然にまかせ、

自然のうちに埋没している。

 

愛はみずから

自分を完成するものだ、

そう思っている

 

だから、

男は手を貸そうとしない。

 

女は疲れてくる。

 

すべては

ひとりずもうだったとおもう。

 

もうこれ以上、

がまんはできない。

 

別れるときがきたのだ。

 

女はものうげに

別れ話をもちだす。

 

男にはまだわからない。

 

女は説明しようとする。

「完璧な瞬間」

というものについて、

 

その実現を用意する

「特権的状態」

について。

 

 

どきっ、

何だこれは!

 

男には、

わからない?

 

「完璧な瞬間」とは何ぞや?

「特権的状態」?

 

気になるので、

思わず購入して、

家に帰って読んでみたところ・・・

 

けっこう難解でした(^^;

 

 

「特権的状態」

というのは、

 

「完璧な瞬間」

を実現するのに

つごうのいい条件を具備した、

とくに恵まれた状況

のことである。

 

が、それは、

かならずしも

歓喜へと道を通じてはいない。

 

 

よくわからない感じですが(^^;

たとえば、

「死」の場面が、

「特権的状態」

のひとつであるといいます。

 

 

出生においては

たんなる物体にすぎず、

その端役さえ務められなかった

私たちも、

 

死にさいしては、

瞬間、主役になりうるのである。

 

芝居がかった人間なら、

深刻な、あるいは軽妙な

せりふの一つも

吐くことができよう。

 

そうでなくとも、

臨終のことばは、

周囲のひとびとによって、

意味ありげに受けとられ

がちなものだ。

 

それが意味ありげにひびく

土壌が用意されているからである。

 

その用意された土壌が、

女のいう

「特権的状態」

なのだ。

 

 

なるほど・・・

 

たとえば、

臨終の場面のような

「意味ありげにひびく土壌」

のことが

「特権的状態」

なんですね。

 

「意味」

を感じられること。

 

人生で、

臨終のような劇的な場面というのは、

限られていますが、

 

たとえば、

女性は一般的に男性よりも、

クリスマスやハロウィン、

誕生日といった、

年中行事や記念日、イベントなどを

重視する傾向があるように思います。

 

それも、

日々の暮らしに

「特権的状態」

すなわち「意味」を感じたいという

ことなのでしょうか(^^;

 

 

自然のままに生きるという。

 

だが、

これほど誤解されたことばもない。

 

もともと人間は

自然のままに生きることを

欲していないし、

それに耐えられもしないのである。

 

程度の差こそあれ、

だれでもが、

なにかの役割を演じたがっている。

また演じてもいる。

 

ただそれを

意識していないだけだ。

 

 

なるほど・・・

 

たしかに、

夫や妻、父親、母親、

会社員、主婦、学生・・・

 

人は何らかの役割を演じることで、

安定するというのはあると思います。

 

仮に役割が何もなければ、

その存在に耐えられないかもしれない。

 

 

舞台をつくるためには、

私たちは多少とも

自己を偽らなければ

ならぬのである。

 

耐えがたいことだ、

と青年はいう。

 

自己の自然のままにふるまい、

個性を伸長せしめること、

それが大事だという。

 

が、かれらは

めいめいの個性を

自然のままに生かしているの

だろうか。

 

かれらはたんに、

「青春の個性」という

ありきたりの役割を

演じているのではないか。

 

私にはそれだけのこととしか

おもえない。

 

 

舞台をつくるためには、

私たちは多少とも

自己を偽らなければならぬ、

 

そうですね・・・

 

たしかに、

日常生活において、

たとえば、私の場合は、

 

会社では中間管理職、

家庭では夫、

友人の前では同じく友人、

プライベートでは、

さえない中年のおっさん(^^;

 

といったように

舞台が変わるごとに、

様々な役割を演じているわけで、

 

いつも自然のまま、

個性的なままでいるわけには

いかない(^^;

 

 

ひとはよく

自由について語る。

 

そこでもひとびとは

まちがっている。

 

私たちが真に求めているものは

自由ではない。

 

私たちが欲するのは、

事が起こるべくして

起こっているということだ。

 

そして、

そのなかに登場して

一定の役割をつとめ、

 

なさねばならぬことを

しているという実感だ。

 

なにをしてもよく、

なんでもできる状態など、

私たちは欲してはいない。

 

ある役を演じなければならず、

その役を投げれば、

他に支障が生じ、

時間が停滞する―

 

ほしいのは、

そういう実感だ。

 

私たちが

自由を求めているという錯覚は、

自然のままに生きるという

リアリズムと無関係ではあるまい。

 

 

福田氏は、

そもそも「自由」に関しては懐疑的で、

 

自由を追求すると、

結局は欲にまみれ、

やがては権力闘争になってしまう。

 

欲に捉われ、のし上がろうとする

いわば「奴隷」

のようになってしまうといいます。

 

たしかに、それは、

古今東西、世界の歴史が

証明しているかもしれません。

 

 

他人に必要なのは、

そして舞台のうえで

快感を与えるのは、

 

個性でなく役割であり、

自由ではなくて

必然性であるのだから。

 

生きがいとは、

必然性のうちに

生きているという実感から生じる。

 

その必然性を味わうこと、

それが生きがいだ。

 

 

人生を舞台、

演劇に例えるとすれば、

 

たしかに、

大事なのは、

登場人物の「役割」であり、

ストーリーの「必然性」

であるといえますね。

 

「生きがいとは、

必然性のうちに生きているという

実感から生じる」

 

では、この

「必然性」というのは、

どう考えればいいのか・・・

 

次回に続きますね(^^;

 

 

 

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今回も最後までお読みくださいまして、

有り難うございました😊

 

次回もこの本の紹介・解説を続けます(^^;

 

 

 

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おまけ写真集(^^;

 

 

もう2週間前ですが(^^;

神宮外苑のイチョウ並木。

 

 

 

イチョウのアーチ、

きれいでした!

 

 

 

毎年の恒例行事!

 

ラグビー早明戦を、

学生時代のサークル仲間と

国立競技場で観戦。

 

今回が記念すべき100回目。

母校は負けましたが、

とてもいい試合でした!

 

これもある意味、

「特権的状態」でしょうか(^^;

 

 

 

宮音(みやお)くん、

 

男の子ですが、

最近、妻にピンクのハートを

付けられています😸

 

 

 

おい、無防備すぎだろ(笑)

 

 

 

ご訪問くださいまして、

有り難うございます。

 

れっつごうです(^^)

 

平野啓一郎さんの最新短編集、

 

富士山

 

 

を紹介しています。

 

今回が最終回です(^^;

 

私は、短編集の場合、

すべての作品を取り上げることは

あまりないのですが、

 

今回、5作品すべてが、

とても印象深かったこともあり、

ネタバレに注意しながらも

(ちょっとネタバレ気味ですが(^^;)

ひととおり紹介したいと思います。

 

で、今回は、

5作品のうちの、

後半2作品、

 

「手先が器用」

「ストレス・リレー」

 

 

「手先が器用」は、

ショートショートです。

 

子供のころ、

ある人に「手先が器用だね」

と言われたことが、

後の職業に繋がったという話。

 

 

「・・・ともちゃんは、

手先が器用だから。」

 

(中略)

 

実際に、わたしは特に、

「手先が器用」

な方でもなかったと思う。

 

祖母がわたしを観察していて、

本当にそう思っていたのか、

ただ、何の気なしに言ったのか、

さびしそうなわたしの自尊心を

満たそうとしてくれたのかは、

わからない。

 

ともかく、

私は祖母にとって

「手先が器用」

な子なのであり、

それからは、

針仕事で針穴に糸を通したり、

一緒にこよりを作ったりと、

祖母をよく手伝うようになった。

 

わたしは、

自分でもいつの間にか、

祖母の言葉を信じていた。

 

学校でも、

「手先が器用」

なことを求められる作業には、

率先して手を挙げた。

 

図工が楽しくなり、

クラスメイトからも、

「手先が器用」

と言われるようになった。

 

わたしが活発な性格になったのは、

その頃からのことだった。

 

今、アパレル企業で

パタンナーという仕事を

しているのも、

元を正せば、

この祖母の一言が

あったからだろう。

 

 

私事ですが、

小学生のころ、

学級新聞か何かに、

担任の先生が、

 

「れっつごうくんは、

物知り博士です」

 

と書いてくれたので、

 

その期待に応えようと、

ちょっと背伸びをして

子供向け百科事典の丸写しに

励んだ記憶がありますが(^^;

 

子供のころ、

大人から、

いいところを見出してもらえる体験は、

意外とその後の人生に

影響を及ぼすのかもしれません。

 

たとえ、何気ない、

ちょっとしたひと言だとしても(^^)

 

このショートショートでは、

そのプラスの連鎖が

代々引き継がれていくことになるのですが、

 

最後の作品、

「ストレス・リレー」はその逆。

 

負の連鎖が、

リレーのように引き継がれていくのです(^^;

 

その様が、

とてもリアリティに溢れていて

私は思わず、

「そりゃキレるわな!」

「これは私もやってしまうな~」

と自分の事のように感じたのですが、

 

ストレス・リレーは、

シアトルの空港から始まります。

 

 

大柄の白人の女性が、

彼を押しのけるように、

無言で割り込んできた。

 

突然のことに面喰って、

「すみません、並んでたんです。」

と後ろから声をかけた。

 

女は振り返らなかった。

 

もう一度、言ってみたが、

やはり無視された。

 

腹が立ったが、

ひょっとすると、

耳が不自由なのだろうかと、

前に回り込んで、

 

「すみません、

僕が並んでたんです。」

と身振りを交えて言った。

 

更に一つ前の男性が、

驚いて振り返ったが、

しかし、彼女は、

目を合わそうともしなかった。

 

こうなると、

成す術がなかった。

 

・・・

 

 

・・・これは、

頭にきますよね~

 

何とかその場は耐えた男性ですが、

この日は、ツイてない日だったらしく、

その後も、理不尽な目に何度か逢い、

ついにキレてしまいます!

 

そして、キレられた相手、

すなわち、ストレスをリレーされた相手は、

他の人にストレスをぶつけ、

その、ぶつけられた人も、

さらに他の人に・・・

 

まさに、ストレスの負の連鎖が

延々と続くような感じになってしまうのですが、

(ここの描写が、

さもありなんといった感じで面白いです)

 

これって、

コロナが感染していくのにも似ていますよね。

 

今の不機嫌が蔓延する時代を

象徴しているともいえるかもしれませんが(^^;

 

しかし、このストレス・リレーにも、

ついに終止符が打たれます。

 

アンカーが登場するのです!

 

 

ルーシーはアンカーであり、

小島和久が、

うっかりシアトルから持ち帰った

あのストレスは、

ようやく彼女の中で

死滅したのだった。

 

ルーシーは、だから、

さり気なくも、

社会を守った英雄である。

 

しかし、

彼女はそのことに気づいておらず、

周りの誰もそう思っていない。

 

つまり、彼女は、

文学の対象であり、

小説の主人公の資格を

立派に備えているのである。

 

 

作者の平野啓一郎さんは、

ユーモアを込めて

「英雄」と言っている

感じがしますが(^^;

 

でも、たしかに、

ある意味、英雄ですよね。

 

延々と続くストレスの連鎖を、

ストップさせたのですから、

 

世の中に対する

多大なる貢献をしたルーシー。

 

いったい、

実際どんな人物だったのか?

 

何故、ストップさせることが、

できたのでしょうか?

 

・・・それは読んでみての

お楽しみということで(^^;

 

ちなみに、私は、

ストレスをリレーさせないためには、

 

人を決めつけないこと、

不機嫌な人には、

何かもっともな事情があるのかもしれないと

留保すること、

 

この人も、他人から、

ひどいストレスをうつされたのではないかと、

推察してみること、

 

それから、やっぱり、

一人でゆったりとした時間を持つこと、

 

そんなことが大切ではないかと。

 

もらったストレスは決してリレーせずに

自分で終わらせる!

 

・・・といっても、

実際は、

なかなか難しいですが(^^;

 

 

 

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以上、

3回にわたって、

 

平野啓一郎さんの最新短編集、

 

富士山

 

 

を紹介・解説させていただきました。

 

現実として、

人生は、偶然に左右されることが多いと

実感させられると同時に、

 

一方で、

人生、捨てたもんじゃない、

ちょっとしたことで

変えることもできる!

 

読了後、

そんな気持ちにさせてくれる

短編集でした(^^)

 

ご一読をおすすめします!

 

 

 

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今回も最後までお読みくださいまして、

有り難うございました😊

 

次回は別の本を紹介する予定です。

 

 

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おまけ写真集(^^;

 

 

スカイツリーの近く、

 

 

 

職場で防災の担当になったので、

講習を受けに行きました。

 

 

 

昼休みに亀戸天神に。

 

 

 

太鼓橋から!

 

 

 

スカイツリーをバックに。

 

 

 

夕方、間近まで行きましたが、

やはり大迫力!

 

色が変化してキレイでした(^^)

 

 

 

吾妻橋から、

スカイツリーとう〇こビル。

 

 

 

浅草寺まで歩きました。

 

 

 

ライトアップされて美しかった!

 

 

 

平日の夜なのにすごい人!

インバウンド多し。

 

 

 

夜の浅草寺も

なかなかいいもんですね(^^)

 

 

ご訪問くださいまして、

有り難うございます。

 

れっつごうです(^^)

 

平野啓一郎さんの最新短編集、

 

富士山

 

 

を紹介しています。

 

この短編集のテーマは、

「あり得たかもしれない人生の中で、
なぜ、この人生だったのか」

という、いわゆる、

「たられば」の話です。

 

前回は、

表題作の「富士山」

を取り上げましたが、

他の作品もとても魅力的ですので、

今回は、

 

「息吹」

「鏡と自画像」

 

という2つの作品から引用しながら、

私の感じたことを

述べさせていただきます(^^;

 

まず、

「息吹」

 

中年男性の斎藤息吹は、

猛暑の中、息子を迎えに行った際に、

たまたま、かき氷屋の席が満員だったため、

マクドナルドで、

アイスコーヒーを飲みました。

 

そこで、たまたま、

大腸内視鏡検査の世間話を耳にして、

その後、検査を受けたところ、

ガンの早期発見ができて命拾いする、

はずなのですが・・・

 

息吹と妻の会話です。

 

 

「怖いよ。だって、

検査を受けたのは、

本当にたまたまだったんだから。

 

悠馬を迎えに行って、

最初のかき氷屋が満席で、

マックに行く羽目に

なっていなかったら、

検査の話だって

耳にしてなかったし。

 

―ていうか、

そもそも、

あの日は間違えて早く迎えに

行っちゃったんだよ。

 

だけど、

それのお陰で

ガンが見つかって。」

 

「運が良かったね。」

 

「運っていうか、

・・・運なのかな、これって?」

 

「運じゃない?

ラッキーよ、とにかく。」

 

「まあ、そうだけど、

・・・あの日、

検査の話を

小耳に挟まなかったら、

絶対、あと数年は

大腸内視鏡検査なんて

受けなかったよ。

 

そしたら、

もう手遅れだったと思う。

 

かき氷屋が満席だったか

どうかで、

生きるか死ぬかが決まる人生って、

何なんだろう?

 

そういうものなんだろうか?

 

人の一生って、

そういう偶然の積み重ねなの?」

 

(中略)

 

「偶然だけじゃないでしょ、

それは?

 

わたしたちの生活も、

別に偶然のお陰じゃなくて、

一生懸命働いて

手に入れたんだから。

 

ただ、

偶然もあるってだけじゃない、

人生には?」

 

「けど、偶然の比重が

大きすぎるよ、

いくら何でも。

 

あの日、かき氷屋に

たった一つ空席があっただけで、

俺は死んでたかも

しれないんだよ。」

 

 

・・・考えて見ると、

たしかに、人生は、

偶然の比重が大きいような気がします。

 

もちろん、

目標を持って

それを目指して努力するということは、

生きていくうえで

とても大切なことですし、

 

人生というのは、

自分の意志で

創り上げていくものだと思います。

 

しかし、

自分自身を振り返って見ても、

人生の分岐点は、

「ちょっとしたこと」

「たまたま」

に左右されていることが意外と多い。

 

私の場合、妻と交際するきっかけも

そうでしたし(^^;

 

現実的には、

「たまたま」に左右されることの多い人生。

 

だからこそ、

「たまたま」うまくいっている時には、

謙虚さを忘れないようにしたいし、

 

「たまたま」うまくいっていない時には、

あまり自分を責めないようにしたい。

 

「たまたま」うまくいっていない人のことも、

自業自得だと責めるようなことはしない。

 

平野啓一郎さんは、

自己責任論に反対の立場を取られていますが、

 

私も、この短編集を読むと、

そんな気持ちが強くなってきました。

 

で、話は戻りますが、

この「息吹」という短編は、

その後、映画マトリックスのような

感じになって・・・

 

・・・っと

ネタバレになりますので、

その後は読んでみての

お楽しみということで(^^;

 

 

次の作品、

「鏡と自画像」は、

冒頭にこんな文章が

引用されています。

 

 

凶悪事件を起こした

犯人に注目し、

その家庭環境、職歴、

友人関係、経済状態などの

分析を通じて、

どうすれば止められたのかを

議論するよりも、

 

実際に犯行に

及ぶことがなかった人たちに、

なぜ踏み止まることが出来たのかを

聞き取り調査する方が、

犯罪抑止の観点からは

有意義ではないかと、

 

 

たしかに、そうですね。

実際に踏みとどまれている訳ですから。

 

この、

「なぜ踏み止まれたか」

が説得力を持って語られているのが、

この短篇「鏡と自画像」なのですが、

 

その理由は、

やはり、ちょっとした出来事、

たまたま、見たり、

声をかけられたりしたことなんですね。

 

具体的には、

本編をお読みいただければと思いますが、

 

実際に私たちが、

気が付かないだけで、

「たまたま」

「ちょっとしたこと」が

大きなものから小さなものまで

犯罪の抑止力になっていることは、

多いと思います。

 

世知辛く、

先の見えない世の中ではありますが、

 

そんな時代だからこそ、

人にささやかな関心を持つことだったり、

ちょっとした思いやりを示すことだったり、

 

そんな小さなことの積み重ねが、

世の中を円滑に回す力になっているし、

 

意外と大切なんだと思います(^^)

 

 

 

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次回もこの本の紹介を続けます(^^;

 

今回も最後までお読みくださいまして、

有り難うございました😊

 

 

 

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おまけ写真集(^^;

 

 

 

山歩きの帰り道・・・

癒されます😊

 

 

 

寝るネコは育つ😸