ご訪問くださいまして、

有り難うございます。

 

れっつごうです(^^)

 

D・カーネギーさんの古典的名著、

 

人を動かす

 

 

から、

私の印象に残った箇所を、

紹介・解説しています。

 

この本では、

「人を動かす三原則」は、

 

 

1 盗人にも五分の理を認める

 

2 重要感を持たせる

 

3 人の立場に身を置く

 

 

だと述べられているのですが、

今回は、

 

 

2 重要感を持たせる

 

 

を紹介・解説させていただきます。

 

個人的には、

3つの中で、

これが最も大切なのではないかと

考えます。

 

 

人を動かす秘訣は、

まちがいなく、

ひとつしかないのである。

 

すなわち、

みずから動きたくなる気持ちを

起こさせること—

 

 

「みずから動きたくなる

気持ちを起こさせる」

 

そうですね。

無理矢理にやらせたとしても、

それは短絡的ですし、

いずれ反動がきたりしますので(^^;

 

 

人を動かすには、

相手のほしがっているものを

与えるのが、

唯一の方法である。

 

人は、

何を欲しがっているか?

 

 

欲しがっているものとは何か?

 

・・・それが、

「自己重要感」だといいます。

 

 

「自己の重要感」

がそれで、

 

フロイトのいう

「偉くなりたいという願望」

であり、

デューイの

「重要人物たらんという欲求」

である。

 

 

「自己重要感」

 

これは、

マズローの欲求5段階説でいえば、

 

「承認欲求」ともいえますね。

 

「承認欲求」は

精神的欲求ではありますが、

欠乏欲求であり、

 

成長欲求である、

「自己実現欲求」

に比べると、

低次元の欲求ではありますが(^^;

 

たしかに、

衣食住がある程度満たされた場合の

現代社会においては、

 

この、

「承認欲求」

すなわち

「自己重要感」

が、最も求められるものかもしれません。

 

(一般的には、

それがある程度満たされてから、

自己実現への道を歩むのだと思います)

 

ちなみに、

私自身は・・・

 

若い頃に比べると

薄まってはきましたが、

 

やっぱり、今でも、

「自己重要感」を求める欲求は、

あるわけで(^^;

 

たとえば、

丁寧な接客をされれば

単純に嬉しいですし、

 

たまには、グリーン車に乗りたいと

思いますし(^^;

(これは単に快適さがほしいだけ?)

 

「自己重要感」

は偉くなったり、

VIP待遇を受けたりすることでも

満たされますが、

 

やはり、身近なところでは、

「ほめられる」

ことで得られると思います。

 

ただし、

「ほめる」ことは、

「お世辞」とは違うと

本書は戒めています。

 

 

結局のところ、

お世辞というものは、

利益よりもむしろ

害をもたらすものだ。

 

お世辞は、

偽物である。

 

偽金と同様、

通用させようとすると、

いずれは、

やっかいな目にあわされる。

 

 

そうですね。

「お世辞」こそが、

まさに「操作主義」。

 

人をコントロールして動かそう

ということになるのかもしれません。

 

だいいち、

「お世辞」をいわれると、

何となく感覚で分かりますよね。

 

「こいつ、何か下心があるに違いない」

と(^^;

 

 

(中略)

 

深い思いやりから出る

感謝のことばを

ふりまきながら

日々をすごす—

 

これが、

友をつくり、

人を動かす秘訣である。

 

 

「ほめる」

ということの根底には、

「感謝」の気持ちがないと、

操作主義的になってしまうのかも

しれませんね。

 

こんなふうにも、

述べられています。

 

 

他人の長所を

考えてみることにしては

どうだろう。

 

他人の長所がわかれば、

見えすいた

安っぽいお世辞などは

使わなくても

すむようになるはずだ。

 

 

そうですね。

 

「美点凝視」などともいいますが、

相手の優れた部分や長所を

意識的に見つけて、

それを魅力として伝えること。

 

長所って、意識すると

けっこう見つかるものです(^^)

 

逆にいえば、

意識しないと、

なかなか見つからない。

 

相手の欠点のほうが

見えてしまうという人間の性(^^;

 

「具体性を持ってほめる」

ことも大切だといいます。

 

 

だれでも

ほめてもらうことはうれしい。

 

だが、

そのことばが

具体性を持っていて

はじめて誠意のこもったことば、

 

つまり、

ただ相手を喜ばせるための

口先だけのものではないことば、

として

相手の気持ちを

じかにゆさぶるのである。

 

 

「具体的にほめる」

ためには、

相手をよく

「観察」していなければ

できませんし、

 

何より

「あなたのことを気にかけている」

ということが

伝わるのかもしれませんね。

 

 

われわれには、

他人から評価され、

認められたい願望があり、

 

そのためには

どんなことでもする。

 

だが、

心のこもらない

うわべだけのお世辞には、

反発を覚える。

 

重ねていう。

本書の原則は、

それが心の底から

出る場合にかぎって

効果をあげる。

 

小手先の社交術を

説いているのではない。

 

新しい人生のあり方を

述べているのである。

 

 

「心の底から出る」

ここがポイントですね。

 

小手先の社交術ではなく、

「人生のあり方」であると。

 

 

他人の長所を

考えようではないか。

 

そうすれば、

お世辞などは

まったく無用になる。

 

うそでない

心からの賞賛を与えよう。

 

「心から賛成し、

惜しみなく賛辞を与え」

よう。

 

相手は、

それを、心の奥深くしまいこんで、

終生忘れないだろう—

 

与えた本人が忘れても、

受けた相手は、

いつまでも忘れないで

いつくしむだろう。

 

 

たしかに、

そうですね。

 

私たちは、

子どもの頃に、

自分の長所を見出してもらい

ほめられたことって、

 

ささいなことでも、

意外と忘れていないものです。

 

それが自信につながったりもします。

 

ちなみに、私自身、

子どもの頃から

度の強いメガネをかけていて、

時には、からかわれたりもしましたが、

 

ちょっとしたことで、

小学校の先生から、

「物知り博士ですね~」

とほめられて、

その気になったことを

今でも覚えています(^^)

 

いや、

子供だけでなく、

大人も同じですよね。

老若男女問わず。

 

私は、それほど、

人をほめることが

得意なほうではないのですが(^^;

 

相手の長所や

いいところを見出す、

自己重要感を与えられる人に

なりたいです😊

 

 

 

********************************

 

 

今回も最後までお読みくださいまして

有り難うございました(^^)

 

次回もこの本の紹介を続ける予定です。

 

 

********************************

 

 

追伸

 

いきつけの散髪屋のオヤジさん、

何故か、若者に人気の音楽や映画に詳しいので、

(お嬢さんの影響か?)

よくおすすめの作品を教えてもらうのですが、

 

 

アマゾンプライムで無料で観れるというので、

さっそく観てみたら、とてもよかったです。

 

「ルックバック」

1時間くらいのアニメ映画、

心を揺さぶられますよ!

 

 

 

 

遅ればせながら、

今年もよろしくお願いします😸

(by宮音)

 

 

 

ご訪問くださいまして、

有り難うございます。

 

れっつごうです(^^)

 

今年も皆さまにとって、

素晴らしい年でありますように、

心より願っています😊

 

で、新年一発目に紹介させていただく本は、

D・カーネギーさんの古典的名著、

 

人を動かす

 

(これは旧版です。

今は文庫や新装改訂版が出ています!)

 

「人を動かす」

というと、

何だか、上から目線で

人をテクニックで操るといった

操作主義的な香りが

プンプンしますが、

 

いやいや、内容的には、

そんなことはなく(^^;

 

久しぶりに読み返してみても、

けっこう人情の機微に

通じているといいますか、

 

「知識」というよりも

「智恵」が語られており、

 

心理学的見地からも

本質を突いている内容だと思います。

 

この本がさまざまな自己啓発書の

元ネタになっているというのも、

うなずけます。

 

タイトルは、

内容を表すという意味では、

「よりより人間関係を築くための原則」

というほうがしっくりくるかもしれません。

(そして、その結果、

人が自ら動くようになるということです)

 

本書は、

人間関係をよりよくするための、

いくつかの原則が

紹介されているのですが、

 

はじめに紹介されている、

「人を動かす三原則」は、

 

 

1 盗人にも五分の理を認める

 

2 重要感を持たせる

 

3 人の立場に身を置く

 

 

なるほどと思いますが、

トップに、

「盗人にも五分の理を認める」

がくるのがちょっと意外な気がします。

 

「盗人にも五分の理を認める」

とは、

いったいどういうことなのか?

 

暗黒街の王者アル・カポネ

などの例のあとに、

著者はこう述べます。

 

 

わたしは、

シンシン刑務所から

興味のある話を聞かされた。

 

およそ受刑者で

自分自身のことを

悪人だと考えているものは、

ほとんどいないそうだ。

 

自分は一般の善良な市民と

少しも変わらないと

思っており、

 

あくまで自分の行為を

正しいと信じている。

 

なぜ金庫破りを

しなければならなかったのか、

あるいは、

ピストルの引き金を

引かねばならなかったのか、

 

そのわけを

実にうまく説明する。

 

犯罪者は、たいてい、

自分の悪事に

もっともらしい理屈をつけて

正当化し、

 

刑務所に入れられているのは

不当だと思い込んでいる

ものなのである。

 

 

なるほど・・・

 

この本で紹介されている

エピソードは、

戦前のアメリカが舞台のものが

多いのですが、

 

アメリカに限らず、古今東西、

これが現実なのかもしれません。

 

もちろん、

犯罪者は、罪を犯したわけであって、

法の裁きをうけなければならないのは

いうまでもありませんが、

 

自己正当化したくなる気持ちは

わからなくもない気がします。

 

 

極悪人たちでさえも、

自分が正しいと

思い込んでいるとすれば、

 

彼らほどの悪人でない

一般の人間は、

 

自分のことを、

いったいどう

思っているのだろうか。

 

(中略)

 

私は、残念ながら、

四十歳近くなってやっと、

 

人間はたとえ

自分がどんなに間違っていても

 

決して自分が悪いとは

思いたがらないものだと

いうことが、

わかりかけてきた。

 

 

「自分がどんなに

間違っていても

決して自分が悪いとは

思いたがらないもの」

 

たしかに、

それが人間というものですね(^^;

 

私は五十歳を過ぎてから、

ようやく分かりかけてきましたが、

 

妻とケンカをしたあとには、

強くそう思います(^^;

 

妻は、

決して自分が悪いとは

認めませんので・・・

 

・・・あっ、

 

お互いさまか?(笑)

 

 

他人のあら探しは、

なんの役にも立たない。

 

相手は、

すぐさま防御態勢をしいて、

なんとか自分を正当化しようと

するだろう。

 

それに、

自尊心を傷付けられた相手は、

結局、反抗心を

おこすことになり、

まことに危険である。

 

 

そうですね。

どんな人にも

「自尊心」がありますので、

 

それを傷付けられれば、

たとえ、理詰めで説得したり、

権力で抑えつけたとしても、

 

それは面従腹背にすぎず、

見えないところで

反発するような気がします。

 

 

リンカーンのエピソードが

紹介されています。

(この本はリンカーンがよく登場します)

 

南北戦争で、

ある将軍に攻撃命令をしたのですが、

その将軍は何故か命令を拒否して、

好機を逸してしまったのですね。

 

怒り狂ったリンカーンは、

将軍宛てに、

一筆書きました。

 

言葉は柔らかいですが、

どこか詰問するような、

責める内容の手紙です。

 

これを読んだ将軍は・・・

 

いや、

実は読んでないんですね。

 

なぜなら、

その手紙は、

リンカーンの死後、

彼の書類の間から

発見されたからです(^^;

 

リンカーンは、

なぜ投函しなかったのか?

 

カーネギーはこう推測します。

 

 

「待てよ、これは、

あまり急がないほうが

いいかも知れない。

 

こうして、

静かなホワイト・ハウスの

奥にすわったまま、

ミード将軍に

攻撃命令をくだすことは、

いともたやすいが、

 

もしもわたしが

ゲティズバーグの戦線にいて、

この一週間

ミード将軍が見ただけの

流血を目のあたりに

見ていたとしたら、

(中略)

たぶん、わたしも、

攻撃を続行する気が

しなくなったことだろう。

 

もしわたしが、

ミードのように

生まれつき

気が小さかったとしたら、

 

おそらく、

わたしも、

彼と同じことを

やったにちがいない。

 

それに、

もう万事手遅れだ。

 

なるほど、

この手紙を出せば、

わたしの気持ちは

おさまるかもしれない。

 

だが、ミードは、

どうするだろうか?

 

自分を正当化して、

逆にこちらを恨むだろう。

 

そして、

私に対する反感から、

今後は司令官としても

役に立たなくなり、

 

結局は、

軍を去らねば

ならなくなるだろう。」

 

 

もっとも、リンカーンも、

若い頃は、

手厳しい非難や詰問を、

バンバンおこなっていた

ようですが(^^;

 

いくつかの手痛い経験をすることで、

自ら学んだようです。

 

そこがただものではない、

偉大なところですね(^^)

 

「手紙」のエピソードを紹介しましたが、

今の時代だと、メールでしょうか。

 

相手に非があると思ったときには、

メールで伝えたくなりますよね。

 

面と向かって言うのは角が立つし、

文章にしたほうが

正確に伝わるような気もするし・・・

 

ただ、

このメールというのが曲者なんです(^^;

 

言葉を柔らかくしたつもりでも、

結局は相手を責めるような調子に

なってしまいがちです。

 

文章だと微妙なニュアンスや

本意が伝わらないこともある。

 

リンカーンのいうように、

自分の気持ちはおさまるかもしれませんが、

 

はたして、

受け取った相手はどう思うだろう・・・

 

したがって、

私は、メールで、

相手を非難するようなことは

なるべく、しないようにしています。

 

もし、書いたとしても・・・

 

リンカーンを見習って、

そのまま眠らせてしまうか、

 

少なくとも、

すぐに送信せずに、

何日か寝かしてみて見直しをするのが、

いいような気がします(^^)

 

あっこれは、

ラブレターも

一緒かもしれませんが(^^;

 

 

人を非難するかわりに、

相手を理解するように

努めようではないか。

 

どういうわけで、

相手がそんなことを

しでかすに至ったか、

よく考えてみようではないか。

 

そのほうがよほど

得策でもあり、

また、おもしろくもある。

 

そうすれば、

同情、寛容、好意も、

おのずと生まれ出てくる。

 

 

相手を理解するということは、

なかなか大変なことですが、

 

何でそんなことをしたのか、

ちょっとでもいいから、

相手の身になって考えてみる。

 

それだけでも違いますし、

もしかしたら

責める気持ちが収まってくるかも

しれません。

 

そうすることが、何より、

自分にとって「有益」ですから😊

 

 

 

************************************

 

 

 

今回も最後までお読みくださいまして、

有り難うございました(^^)

 

次回は、

2 重要感を持たせる

を紹介、解説させていただきます(^^;

 

 

 

***********************************

 

 

 

おまけ写真集(^^;

 

新年、初山歩きは、

相模湖近くの石老山。

 

 

途中にある、顕鏡寺。

途中に巨石や巨木があります!

 

 

 

巨石の上に、

木が生えています😲

 

 

 

石老山、

山頂着きました!

 

 

 

おお、

富士山も少し見えました!

 

 

 

相模湖を見下ろしながら・・・

 

下山後、

「さがみ湖温泉うるり」

に寄りました。

 

ほっこり♨

 

明日から仕事です。

 

9連休後なので、

エンジンがちゃんとかかるか

心配ですが(^^;

 

頑張ります!

 

 

 

ご訪問くださいまして、

有り難うございます。

 

れっつごうです(^^)

 

評論家、翻訳家、劇作家でもある

福田恆存(ふくだつねあり)さんの著作、

 

人間・この劇的なるもの

 

 

を読んでみて、

私の印象に残ったところを、

紹介・解説しています。

 

この本の冒頭で、

 

 

愛もまた創造である。

意識してつくられるものである。

 

 

という印象深い文章があります。

 

今回は、この

「愛もまた創造である」

という言葉を

掘り下げていきたいと思います(^^;

 

 

「神との対話」シリーズに、

"Tommorow's God"(明日の神

という本があります。

 

「神との対話」というと、

ちょっと怪しげな感じがしますが(^^;

 

内容は正統派スピリチュアル

といった感じの本質的なもので、

自己啓発書としても有益な本だと思います。

 

過去ブログでも紹介しました。

 

(よかったらご参照ください)

 

私の敬愛する心理学博士、

カウンセラーの古宮昇先生が

"Tommorow's God"(明日の神

から翻訳された

人間関係についてのメッセージがあります。

 

 

自分がどういう人になるか、

どういう人でいるか、

それを決めるのが人生です。

 

そして、

前の自分よりも

さらに大きな自分になること、

 

さらに進化した自分になること、

 

そこに肉体をもって

生まれてきた目的があります。

 

 

そうですね。

 

私も、生まれてきた目的というのは

「どういう人であるか」

を決めて、

「魂が成長するため」

ではないかと考えています。

 

 

そしてあなたがたが、

 

どういう人になるか、

どういう人でいるか、

 

を決めるには

人間関係が必要です。

 

他の人が存在しなければ、

あなたという人は

意味ある存在では

なくなってしまいます。

 

 

たしかに、

他人がいてはじめて、

 

その人に対して、

どういう人になるか、

どういう人でいるか、

 

自分の振る舞い方を、

決めることができるわけです。

 

 

だから、

すべての人間関係は

聖なる関係性です。

 

あなたが

「良い」とか「ポジティブ」だと

レッテルを貼っている

人間関係も、

「悪い」とか「ネガティブ」だと

レッテルを貼っている

人間関係も、

 

すべて、あなたが

どういう人になるか、

どういう人でいるか、

それを決めるために

欠かせないものであり、

 

それゆえ同じだけ

聖なる関係性なのです。

 

 

そうですね・・・

 

人間関係の「良い」「悪い」

というのは、

 

ある意味、

私たちが勝手に決めつけている

「レッテル」であって、

 

見る角度や立場によって

変わってくるものですが、

(渦中にいると、

なかなかそうは思えませんが(^^;)

 

たとえ、

「悪い」と思える人間関係の中でも、

 

その中で、

自分がどういう人でいるかは、

自分で決めることができるわけです。

 

ある意味、

チャンスともいえる。

 

 

多くの人たちが、

恋愛や結婚によって

幸せを「探し」、

幸せを「見つけよう」とします。

 

しかし

恋愛や結婚の真の目的は

「見つける」ことではありません。

 

その真の目的は

幸せを「創る」ことです。

 

「見つけること・探すこと」と

「創ること」

の違いは大きいです。

 

 

恋愛や結婚の目的は、

幸せを

「探し」「見つける」ことではなく、

「創ること」である・・・

 

 

見つけよう、探そう、

とするとき、

 

あなたはそれが

自分にはないと信じています。

 

だからその

信念通りの結果になり、

幸せではなくなります。

 

それに対して

「創ろう」とするとき、

 

あなたは

自分のもっているものを

その関係性に持ち込もうとします。

 

つまり

自分にすでにあるものを

使おうとしているのです。

 

 

なるほど、

ここはポイントですね。

 

元々、幸せの元になるものは、

「自分にはない」から、

「見つけよう」「探そう」

とする。

 

一方で、

「創ろう」ということは、

元々、幸せの元になるものは、

「自分の中にある」から、

 

そのあるものを使って、

人間関係で、

幸せを「創り出す」。

 

 

また、別の本になりますが、

遠藤周作氏の小説

 

女の一生 2部 サチ子の場合

 

 

の一節を想起します。

 

 

「ここに愛がないのなら・・・」

 

と神父は

かすれた声で言った。

 

「我々が愛をつくらねば」

 

 

「我々が愛をつくらねば・・・」

 

これは、小説に登場する、

「コルベ神父」

に遠藤周作さんが語らせた言葉です。

 

この小説(の2部)は、

第二次大戦下の長崎が

中心に描かれているのですが、

 

並行する形で、

アウシュビッツ強制収容所も、

描かれています。

 

アウシュビッツは、

言わずもがな、

大量虐殺の場。

 

人間はこうも

非人道的な行為ができるのかと、

戦慄を覚えるほどですが、

 

そういう意味で、

アウシュビッツは、

最も愛が欠如した場所と、

いえるかもしれません。

 

愛を探しても、

どこにも見つからない世界。

 

その中で、

コルベ神父は、実際に、

「愛を創造」した。

(史実です)

 

有名な話なので、

ご存知の方も多いと思います。

 

今回はネタバレになるので

あえて割愛しますが、

 

過去ブログには掲載しました(^^;

 

(かなり初期のブログです)

 

この小説で印象的なのは、

コルベ神父が実践した、

「愛の創造」が、

影響の輪を広げていく場面です。

 

 

西のほうの地平線が

今日も薔薇色にそまった。

 

「作業終了」

の笛があちこちで鳴り、

 

囚人たちは

自分たちの掘った穴から這いあがり、

点呼を受けるため整列した。

 

彼等の前面には燃え上がる空と、

夕日を受けた城のような

雲が拡がっていた。

 

囚人たちが番号を叫んでいる間、

うるんだ硝子玉のような夕陽が

少しずつ落ちていった。

 

「ああ・・・」

 

と一人の囚人がつぶやいた。

 

「なんて、この世界は

・・・美しいんだ」

 

みんな黙っていた。

ああ、

なんてこの世界は美しいのだろう。

 

昨日までこの世界は

愛もなく喜びもなかった。

 

ただ恐怖と悲惨と拷問と

死しかない世界だった。

 

それが今日、

この世界はなんて美しいのだろう。

 

彼らはその世界を

かえてくれたものがわかっていた。

 

愛のない世界に

愛を作ったものを・・・。

 

それから長い間――、

 

収容所のなかで

ヘンリックの記憶の底から、

 

あのこわれた丸い眼鏡をかけた

コルベ神父の顔が

たびたび浮かび上がった。

 

 

ヘンリック(創作上の人物)は、

自分だけは何とか生き延びようとする

エゴの塊のような人間

なのですが、

(こんな状況化では無理もないですが)

 

やがて、

ヘンリックは・・・

 

 

・・・

そんな頃、

彼と寝台を共にしている男が

目立って衰えてきた。

 

顔に白い粉のようなものが

吹き出て、

 

皮膚がカサカサになり、

腹だけが奇妙にふくらんでくる。

 

栄養失調で

死ぬ一歩手前であることは、

もうヘンリックたちに

わかっていた。

 

・・・

 

(あの男に、

君のパンをやってくれないか)

 

この時、突然、

彼の耳に思いがけぬ

ひとつの声がきこえた。

 

ひくい囁くようなその声は

聞きおぼえがあった。

 

コルベ神父の声だった。

 

(あの男は死ぬかもしれん。

君のパンをやってくれないか)

 

ヘンリックは首を振った。

今日あてがわれた

たった一つのパンを他人にやれば、

倒れるのは自分だった。

 

(俺はいやだ)

 

(あの男は死ぬかもしれぬ。

だから死ぬ前にあの男が

せめて愛を知って

死んでほしいのだ)

 

哀願するような

コルベ神父の声。

 

ヘンリックはその時、

八月の夕暮、

身代わりになるために

列外にのろのろと進み出た

神父の猫背を思い出した。

 

ヘンリックはパンを

その男にやった。

 

男は眼にいっぱい泪をためて

「ああ、信じられない」

とつぶやいた。

 

ヘンリックができた愛の行為は

これだけだった。

 

それでもヘンリックは

愛を行った。

 

 

コルベ神父が

「愛を創造」したことが、

ヘンリックに影響を及ぼし、

 

ヘンリックの中に

眠っていた愛を呼び起こして、

 

彼は、ちょっとした愛を実践、

(この状況下では

すごいことだと思いますが)

すなわち、

「愛を創り出した」のですね。

 

愛とは、

元々、私たちの中に

備わっているものだと考えます。

 

ただ、それは、

普段は眠っていて、

 

具体的に表現しないと、

なかなか表面には現れない。

 

もともとあるものを、

体現化すること。

 

それが、

「愛を創造する」

ということなのかと思います。

 

もっとも、

コルベ神父の愛の創造は、

究極の愛の行為であり、

 

私には到底できるレベルでは

ありませんが(^^;

 

まずは、

ヘンリックの愛の創造を目標に、

人生を歩んでいきたいと思っています。

 

 

ちなみに・・・

「愛」について

いろいろと考察されたい方には、

 

飯田史彦氏の、

愛の論理

 

 

という本があります。

 

この本は、

スピリチュアルというよりも、

さまざまな「愛」が

論理的かつレベル別に

紹介されており、

 

自分のレベルに応じて、

目指すべき「愛」がわかるという

大変有益な本です(^^)

 

いつかこのブログでも

紹介させていただこうと思いますが、

よかったらお読みください。

 

 

 

***********************************

 

 

 

以上、

福田恆存(ふくだつねあり)さんの著作、

 

人間・この劇的なるもの

 

 

からは、

かなり脱線してしまいましたが(^^;

 

今回は、

「愛もまた創造である」

という言葉をテーマに

考察をさせていただきました。

 

自分のできるレベルに応じて、

まずは、身近なところで、

「愛を創造」していきたいものですね😊

 

 

 

追伸

この本を読んで、

浮かんできた曲がありましたので、

紹介します(^^)

 

尾崎豊さんの

「町の風景」

 

 

(CDアルバムの「街の風景」とは、

アレンジと歌詞の一部が違いますが、

これはこれで素敵なバージョンです)

 

「~人生は時を演じる舞台さ♪」

 

高校生の時に創った曲だそうです。

やっぱり彼は天才ですね!

 

 

 

 

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今回も最後までお読みくださいまして、

有り難うございました。

 

また、今年一年間、

大変お世話になりました。

 

何とかブログを続けることが

できているもの、

読んでくださる皆さまのおかげです。

 

有り難うございます。

感謝申し上げます。

 

来年も皆さまにとって、

素晴らしい年でありますように😊

 

よいお年をお迎えください!

 

 

 

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おまけ写真集(^^;

 

丹沢の三ノ塔に登りました!

 

 

ヤマトタケルの足跡を越えて・・・

 

 

 

おお、今日は富士山ばっちりか!

 

二ノ塔を越えて、

 

 

 

この上が三ノ塔・・・

 

 

 

着きました!

富士山絶景・・・

 

 

 

こっちは、大山。

 

 

 

江ノ島が見えますね!

 

 

 

もう少し先まで行きます。

 

 

 

秦野、小田原方面をのぞむ。

 

 

 

行者岳。

 

日が短いので、

今日はここで折り返します。

 

 

 

吸い込まれそうな景色・・・

 

 

 

三ノ塔に戻りました。

 

 

 

富士山アップ!

ああ、美しい・・・

(これ年賀状の写真にしました)

 

 

 

下山します。

 

 

 

蓑毛大日堂に立ち寄り。

 

 

 

平安時代の素朴な仏像が、

安置されています。

(隙間から覗けます)

 

 

 

隣の寳蓮寺、

まだ紅葉がきれいでした!

 

では、

皆さま、よいお年をお迎えください😊

 

 

ご訪問くださいまして、

有り難うございます。

 

れっつごうです(^^)

 

前回から、

評論家、翻訳家、劇作家でもある

福田恆存(ふくだつねあり)さんの著作、

 

人間・この劇的なるもの

 

 

から、

私の印象に残った箇所を、

紹介・解説しています(^^)

 

前回、

人生を舞台、演劇に例えるとすれば、

大事なのは、

登場人物の「役割」であり、

ストーリーの「必然性」である。

 

そして、

 

 

生きがいとは、

必然性のうちに生きているという

実感から生じる。

 

 

という、

興味深い文章を、

引用させていただきましたが、

 

では、

この「必然性」というのは、

どう考えればいいのか・・・

 

著者はこう述べます。

 

 

劇の進行とともに

堆積されてきた現在は、

それ自身を完全燃焼

させなければならないのだ。

 

そのための必然性は

固く守られなければならない。

 

現在は偶然の帰結であり、

偶然の可能性をはらみながら、

しかも、

幕切れにおいては、

すべてが強度の必然性をもって

甦る。

 

 

ちょっと難解な文章ですが(^^;

 

つまり、

劇の途中では、

単なる偶然の出来事だと

思われていたことも、

 

最後の幕切れの段階では、

 

「ああっ、あの出来事は、

起こるべくして起きたんだ。

 

「あの出来事は、

必然だったんだ・・・」

 

と腑に落ちるようになる、

ということでしょうか。

 

 

「必然性」

をもう少し突っ込んで考察してみます。

 

白石一文氏の小説、

 

この胸に深々と突き刺さる矢を抜け

(私が人生で大きな影響を受けた

小説のひとつ、おすすめです!)

 

(これは単行本の下巻、文庫も出てます)

 

は、この「必然」というのが、

小説のテーマのひとつになっています。

 

小説の中で、

ガンに侵されて余命宣告を受けている、

辣腕編集長がこう述べます。

 

 

「・・・

これは無理だなって

思うことでも、

それが自分にとって

必然であれば

きっと実現するんだ。

 

人の力や、

まして神様の力なんて

借りずに、

 

僕はそうやって

自分がそうなって

しまうだろう人生を

しっかりと生きたい。

 

すでに決まっていることを

自分で決めるんだよ。

 

必ず過去になってしまう未来を、

過去にはせずに、

現在という一瞬一瞬で

完全に食らい尽くす。

 

言ってみればそういう人生かな。

 

過去がなくなれば

当然未来もないだろ。

 

そうなれば

人生には現在しかないって

いうことになる。

 

そうやって現在しかない人生を

送るというのが、

必然を生きる

ということでもある」

 

・・・

 

「もっと嚙み砕いて言えば、

何かをするたびに

 

『自分がこれをやっていると

いうことは、

すでに決まっていた

ことなんだろうか?』

 

と自分に尋ねるんだ。

 

そして、

 

『いや、これは行き当たり

ばったりでやっているだけだ』

 

と気づいたら、

そんなことすぐに止めちまう。

 

そういうことだよ」

 

 

人は、死を意識すると、

ほんとうに大切なものが見えてくる

といいます。

 

一瞬一瞬を大切に、

「今ここを生きる」ようになる。

 

それが、

「必然を生きる」

ということなのかと思います。

 

私は、正直、

まだ本気で、

死を意識することはできませんが(^^;

 

「自分にとって、ほんとうに大切なこと」

すなわち、

「自分の価値観」

というものは

明確にしておきたいと思っています。

 

人生の最期で、

「ああ、私の人生は必然だったんだ」

と思えるように・・・

 

 

人間・この劇的なるもの

に戻りますね(^^;

 

引用します。

 

 

私たちは、

自分の生が

必然のうちにあることを

欲している。

 

自分の必然性にそって

生きたいと欲し、

その鉱脈を掘り当てたいと

願っている。

 

劇的に生きたいというのは、

自分の生涯を、

あるいは、その一定の期間を、

一個の芸術作品に仕たてあげたいと

いうことにほかならぬ。

 

この欲望がなければ、

芸術などというものは

存在しなかったであろう。

 

役者ばかりではない。

人間存在そのものが、

すでに二重性をもっているのだ。

 

人間はただ生きることを

欲しているのではない。

 

生の豊かさを

欲しているのでもない。

 

ひとは生きる。

同時に、

それを味わうこと、

それを欲している。

 

現実の生活とはべつの次元に、

意識の生活があるのだ。

 

それに関わらずには、

いかなる人生論も

幸福論もなりたたぬ。

 

 

現実の生活とはべつの次元に、

意識の生活がある・・・

 

作家の遠藤周作氏は、

「生活」と「人生」

の2つがあるといいましたが、

 

人は、生きていくために、

「生活」から逃れるわけにはいかない。

 

炊事、洗濯といった、

日々の雑務もこなさなければならないし、

何より、

食べていくための収入が必要です。

 

ただ、

「現実の生活」だけの生き方は

いかにも味気ない。

 

「意識の生活」

すなわち、

「人生」を感じるもの、

 

たとえば、

文学や映画、絵画、演劇といった

芸術作品に触れることは、

日々の生活に彩を添えますし、

 

時には、自ら、

「特権的状態」を味わうことで、

人生の「意味」を感じられる。

 

だから、

生きていくうえでは、

「生活」と「人生」

の両方が必要である。

 

遠藤周作氏が、

素人劇団「樹座(きざ)」

を主宰したのも、

こういうことかと思います。

 

 

前回、

この本の冒頭で述べられている、

 

 

愛もまた創造である。

意識してつくられるものである。

 

 

という文章を

引用させていただきましたが、

 

人生を意味のあるものにするためには、

 

やっぱり

「愛を創造する」

ことなのだと思います(^^)

(ちょっと大きく

出てしまいましたが😅)

 

では、

「愛を創造する」とは?

 

・・・次回に続きますね(^^;

 

 

 

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今回も最後までお読みくださいまして、

有り難うございました。

 

次回もこの本を題材にします(^^;

 

 

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おまけ写真集(^^;

 

 

大山を右手に眺めながら、山歩き・・・

 

 

 

経石。

 

巨大な岩の裏に穴が空いています。

そこに弘法大師が経文を納めたという伝説が・・・

 

 

 

経ヶ岳着きました!

 

標高は633mですが、

なかなか眺めがいいです。

 

 

 

2種類の別の木が混じり合っている?ので、

「異種格闘木」

と書いてあります(^^;

 

 

 

華厳山。

 

「西山」(この一帯の山)

を守る会の方たちの、

手作りグッズが無人販売されていました。

 

「アクリルエコたわし」を買いました!

 

 

 

紅葉がまだ残っていました(^^)

 

 

 

高取山。

 

 

 

その先の発句石から。

ここ絶景スポット!

 

 

 

ちょっと拡大しましたが、

遠くに、横浜みなとみらいのランドマークタワー。

(たぶん)

 

 

こちらの先は、おそらく東京のビル群。

(たぶん)

 

 

 

湘南、伊豆方面を臨む。

 

 

 

帰り道、ごそごそすると思ったら、

遠くに猿の群れが!

 

小さな赤ちゃんをおんぶしていました😊

(ピンぼけ拡大写真で見えにくいですが)

 

 

 

やっぱり自然はいいな!

おかげさまでリフレッシュできました。

 

 

 

愛川町の勝楽寺。

立派な山門です!

 

 

ご訪問くださいまして、

有り難うございます。

 

れっつごうです(^^)

 

ここ数日で、

ぐっと冷え込んでまいりましたね。

 

朝の着替えの時の寒さが、

耐えがたく感じる今日この頃です(^^;

 

 

 

私が通勤で使っている駅前では、

まだ街の本屋さんが健在です。

天一書房さん感謝です!)

 

仕事帰り、早く帰宅できる日には、

そこでよく本を物色するのですが、

 

先日、

新潮文庫の棚を眺めていたら、

この本の背表紙のタイトルが目を引きました。

 

 

人間・この劇的なるもの

 

著者は、

評論家、翻訳家、劇作家でもある

福田恆存(ふくだつねあり)さん。

 

おそらく著作をちゃんと読んだことはなく、

いつか読んでみたいと

思っていたお方なのですが、

 

冒頭ちらっと立ち読みしたら、

こんなことが書かれていました。

 

 

愛は自然にまかせて

内側から生まれて

くるものではない。

 

ただそれだけではない。

 

愛もまた創造である。

 

意識して

つくられるものである。

 

女はそうおもう。

自分はいつでも

そうしてきた。

 

だが、

男にはそれがわからない。

 

かれは自然にまかせ、

自然のうちに埋没している。

 

愛はみずから

自分を完成するものだ、

そう思っている

 

だから、

男は手を貸そうとしない。

 

女は疲れてくる。

 

すべては

ひとりずもうだったとおもう。

 

もうこれ以上、

がまんはできない。

 

別れるときがきたのだ。

 

女はものうげに

別れ話をもちだす。

 

男にはまだわからない。

 

女は説明しようとする。

「完璧な瞬間」

というものについて、

 

その実現を用意する

「特権的状態」

について。

 

 

どきっ、

何だこれは!

 

男には、

わからない?

 

「完璧な瞬間」とは何ぞや?

「特権的状態」?

 

気になるので、

思わず購入して、

家に帰って読んでみたところ・・・

 

けっこう難解でした(^^;

 

 

「特権的状態」

というのは、

 

「完璧な瞬間」

を実現するのに

つごうのいい条件を具備した、

とくに恵まれた状況

のことである。

 

が、それは、

かならずしも

歓喜へと道を通じてはいない。

 

 

よくわからない感じですが(^^;

たとえば、

「死」の場面が、

「特権的状態」

のひとつであるといいます。

 

 

出生においては

たんなる物体にすぎず、

その端役さえ務められなかった

私たちも、

 

死にさいしては、

瞬間、主役になりうるのである。

 

芝居がかった人間なら、

深刻な、あるいは軽妙な

せりふの一つも

吐くことができよう。

 

そうでなくとも、

臨終のことばは、

周囲のひとびとによって、

意味ありげに受けとられ

がちなものだ。

 

それが意味ありげにひびく

土壌が用意されているからである。

 

その用意された土壌が、

女のいう

「特権的状態」

なのだ。

 

 

なるほど・・・

 

たとえば、

臨終の場面のような

「意味ありげにひびく土壌」

のことが

「特権的状態」

なんですね。

 

「意味」

を感じられること。

 

人生で、

臨終のような劇的な場面というのは、

限られていますが、

 

たとえば、

女性は一般的に男性よりも、

クリスマスやハロウィン、

誕生日といった、

年中行事や記念日、イベントなどを

重視する傾向があるように思います。

 

それも、

日々の暮らしに

「特権的状態」

すなわち「意味」を感じたいという

ことなのでしょうか(^^;

 

 

自然のままに生きるという。

 

だが、

これほど誤解されたことばもない。

 

もともと人間は

自然のままに生きることを

欲していないし、

それに耐えられもしないのである。

 

程度の差こそあれ、

だれでもが、

なにかの役割を演じたがっている。

また演じてもいる。

 

ただそれを

意識していないだけだ。

 

 

なるほど・・・

 

たしかに、

夫や妻、父親、母親、

会社員、主婦、学生・・・

 

人は何らかの役割を演じることで、

安定するというのはあると思います。

 

仮に役割が何もなければ、

その存在に耐えられないかもしれない。

 

 

舞台をつくるためには、

私たちは多少とも

自己を偽らなければ

ならぬのである。

 

耐えがたいことだ、

と青年はいう。

 

自己の自然のままにふるまい、

個性を伸長せしめること、

それが大事だという。

 

が、かれらは

めいめいの個性を

自然のままに生かしているの

だろうか。

 

かれらはたんに、

「青春の個性」という

ありきたりの役割を

演じているのではないか。

 

私にはそれだけのこととしか

おもえない。

 

 

舞台をつくるためには、

私たちは多少とも

自己を偽らなければならぬ、

 

そうですね・・・

 

たしかに、

日常生活において、

たとえば、私の場合は、

 

会社では中間管理職、

家庭では夫、

友人の前では同じく友人、

プライベートでは、

さえない中年のおっさん(^^;

 

といったように

舞台が変わるごとに、

様々な役割を演じているわけで、

 

いつも自然のまま、

個性的なままでいるわけには

いかない(^^;

 

 

ひとはよく

自由について語る。

 

そこでもひとびとは

まちがっている。

 

私たちが真に求めているものは

自由ではない。

 

私たちが欲するのは、

事が起こるべくして

起こっているということだ。

 

そして、

そのなかに登場して

一定の役割をつとめ、

 

なさねばならぬことを

しているという実感だ。

 

なにをしてもよく、

なんでもできる状態など、

私たちは欲してはいない。

 

ある役を演じなければならず、

その役を投げれば、

他に支障が生じ、

時間が停滞する―

 

ほしいのは、

そういう実感だ。

 

私たちが

自由を求めているという錯覚は、

自然のままに生きるという

リアリズムと無関係ではあるまい。

 

 

福田氏は、

そもそも「自由」に関しては懐疑的で、

 

自由を追求すると、

結局は欲にまみれ、

やがては権力闘争になってしまう。

 

欲に捉われ、のし上がろうとする

いわば「奴隷」

のようになってしまうといいます。

 

たしかに、それは、

古今東西、世界の歴史が

証明しているかもしれません。

 

 

他人に必要なのは、

そして舞台のうえで

快感を与えるのは、

 

個性でなく役割であり、

自由ではなくて

必然性であるのだから。

 

生きがいとは、

必然性のうちに

生きているという実感から生じる。

 

その必然性を味わうこと、

それが生きがいだ。

 

 

人生を舞台、

演劇に例えるとすれば、

 

たしかに、

大事なのは、

登場人物の「役割」であり、

ストーリーの「必然性」

であるといえますね。

 

「生きがいとは、

必然性のうちに生きているという

実感から生じる」

 

では、この

「必然性」というのは、

どう考えればいいのか・・・

 

次回に続きますね(^^;

 

 

 

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今回も最後までお読みくださいまして、

有り難うございました😊

 

次回もこの本の紹介・解説を続けます(^^;

 

 

 

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おまけ写真集(^^;

 

 

もう2週間前ですが(^^;

神宮外苑のイチョウ並木。

 

 

 

イチョウのアーチ、

きれいでした!

 

 

 

毎年の恒例行事!

 

ラグビー早明戦を、

学生時代のサークル仲間と

国立競技場で観戦。

 

今回が記念すべき100回目。

母校は負けましたが、

とてもいい試合でした!

 

これもある意味、

「特権的状態」でしょうか(^^;

 

 

 

宮音(みやお)くん、

 

男の子ですが、

最近、妻にピンクのハートを

付けられています😸

 

 

 

おい、無防備すぎだろ(笑)