ご訪問くださいまして、
有り難うございます。
れっつごうです(^^)
ここ数日で、
ぐっと冷え込んでまいりましたね。
朝の着替えの時の寒さが、
耐えがたく感じる今日この頃です(^^;
私が通勤で使っている駅前では、
まだ街の本屋さんが健在です。
(天一書房さん感謝です!)
仕事帰り、早く帰宅できる日には、
そこでよく本を物色するのですが、
先日、
新潮文庫の棚を眺めていたら、
この本の背表紙のタイトルが目を引きました。
著者は、
評論家、翻訳家、劇作家でもある
福田恆存(ふくだつねあり)さん。
おそらく著作をちゃんと読んだことはなく、
いつか読んでみたいと
思っていたお方なのですが、
冒頭ちらっと立ち読みしたら、
こんなことが書かれていました。
愛は自然にまかせて
内側から生まれて
くるものではない。
ただそれだけではない。
愛もまた創造である。
意識して
つくられるものである。
女はそうおもう。
自分はいつでも
そうしてきた。
だが、
男にはそれがわからない。
かれは自然にまかせ、
自然のうちに埋没している。
愛はみずから
自分を完成するものだ、
そう思っている
だから、
男は手を貸そうとしない。
女は疲れてくる。
すべては
ひとりずもうだったとおもう。
もうこれ以上、
がまんはできない。
別れるときがきたのだ。
女はものうげに
別れ話をもちだす。
男にはまだわからない。
女は説明しようとする。
「完璧な瞬間」
というものについて、
その実現を用意する
「特権的状態」
について。
どきっ、
何だこれは!
男には、
わからない?
「完璧な瞬間」とは何ぞや?
「特権的状態」?
気になるので、
思わず購入して、
家に帰って読んでみたところ・・・
けっこう難解でした(^^;
「特権的状態」
というのは、
「完璧な瞬間」
を実現するのに
つごうのいい条件を具備した、
とくに恵まれた状況
のことである。
が、それは、
かならずしも
歓喜へと道を通じてはいない。
よくわからない感じですが(^^;
たとえば、
「死」の場面が、
「特権的状態」
のひとつであるといいます。
出生においては
たんなる物体にすぎず、
その端役さえ務められなかった
私たちも、
死にさいしては、
瞬間、主役になりうるのである。
芝居がかった人間なら、
深刻な、あるいは軽妙な
せりふの一つも
吐くことができよう。
そうでなくとも、
臨終のことばは、
周囲のひとびとによって、
意味ありげに受けとられ
がちなものだ。
それが意味ありげにひびく
土壌が用意されているからである。
その用意された土壌が、
女のいう
「特権的状態」
なのだ。
なるほど・・・
たとえば、
臨終の場面のような
「意味ありげにひびく土壌」
のことが
「特権的状態」
なんですね。
「意味」
を感じられること。
人生で、
臨終のような劇的な場面というのは、
限られていますが、
たとえば、
女性は一般的に男性よりも、
クリスマスやハロウィン、
誕生日といった、
年中行事や記念日、イベントなどを
重視する傾向があるように思います。
それも、
日々の暮らしに
「特権的状態」
すなわち「意味」を感じたいという
ことなのでしょうか(^^;
自然のままに生きるという。
だが、
これほど誤解されたことばもない。
もともと人間は
自然のままに生きることを
欲していないし、
それに耐えられもしないのである。
程度の差こそあれ、
だれでもが、
なにかの役割を演じたがっている。
また演じてもいる。
ただそれを
意識していないだけだ。
なるほど・・・
たしかに、
夫や妻、父親、母親、
会社員、主婦、学生・・・
人は何らかの役割を演じることで、
安定するというのはあると思います。
仮に役割が何もなければ、
その存在に耐えられないかもしれない。
舞台をつくるためには、
私たちは多少とも
自己を偽らなければ
ならぬのである。
耐えがたいことだ、
と青年はいう。
自己の自然のままにふるまい、
個性を伸長せしめること、
それが大事だという。
が、かれらは
めいめいの個性を
自然のままに生かしているの
だろうか。
かれらはたんに、
「青春の個性」という
ありきたりの役割を
演じているのではないか。
私にはそれだけのこととしか
おもえない。
舞台をつくるためには、
私たちは多少とも
自己を偽らなければならぬ、
そうですね・・・
たしかに、
日常生活において、
たとえば、私の場合は、
会社では中間管理職、
家庭では夫、
友人の前では同じく友人、
プライベートでは、
さえない中年のおっさん(^^;
といったように
舞台が変わるごとに、
様々な役割を演じているわけで、
いつも自然のまま、
個性的なままでいるわけには
いかない(^^;
ひとはよく
自由について語る。
そこでもひとびとは
まちがっている。
私たちが真に求めているものは
自由ではない。
私たちが欲するのは、
事が起こるべくして
起こっているということだ。
そして、
そのなかに登場して
一定の役割をつとめ、
なさねばならぬことを
しているという実感だ。
なにをしてもよく、
なんでもできる状態など、
私たちは欲してはいない。
ある役を演じなければならず、
その役を投げれば、
他に支障が生じ、
時間が停滞する―
ほしいのは、
そういう実感だ。
私たちが
自由を求めているという錯覚は、
自然のままに生きるという
リアリズムと無関係ではあるまい。
福田氏は、
そもそも「自由」に関しては懐疑的で、
自由を追求すると、
結局は欲にまみれ、
やがては権力闘争になってしまう。
欲に捉われ、のし上がろうとする
いわば「奴隷」
のようになってしまうといいます。
たしかに、それは、
古今東西、世界の歴史が
証明しているかもしれません。
他人に必要なのは、
そして舞台のうえで
快感を与えるのは、
個性でなく役割であり、
自由ではなくて
必然性であるのだから。
生きがいとは、
必然性のうちに
生きているという実感から生じる。
その必然性を味わうこと、
それが生きがいだ。
人生を舞台、
演劇に例えるとすれば、
たしかに、
大事なのは、
登場人物の「役割」であり、
ストーリーの「必然性」
であるといえますね。
「生きがいとは、
必然性のうちに生きているという
実感から生じる」
では、この
「必然性」というのは、
どう考えればいいのか・・・
次回に続きますね(^^;
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今回も最後までお読みくださいまして、
有り難うございました😊
次回もこの本の紹介・解説を続けます(^^;
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おまけ写真集(^^;
もう2週間前ですが(^^;
神宮外苑のイチョウ並木。
イチョウのアーチ、
きれいでした!
毎年の恒例行事!
ラグビー早明戦を、
学生時代のサークル仲間と
国立競技場で観戦。
今回が記念すべき100回目。
母校は負けましたが、
とてもいい試合でした!
これもある意味、
「特権的状態」でしょうか(^^;
宮音(みやお)くん、
男の子ですが、
最近、妻にピンクのハートを
付けられています😸
おい、無防備すぎだろ(笑)







































