ご訪問くださいまして、

有り難うございます。

 

れっつごうです(^^)

 

朝晩は、かなり寒くなってきましたね。

 

毎朝、布団から出るのに葛藤している、

今日この頃です(^^;

 

曹洞宗の僧侶、

藤田一照さんの、

 

ブッダが教える愉快な生き方

 

 

という本から、

私の印象に残ったところを、

紹介しています。

 

早くも6回目ですね(^^;

 

前回は、

 

「ネガティブ・ケイパビリティ」

 

という考え方を、

紹介、解説いたしました。

 

「ネガティブ・ケイパビリティ」

とは、

「未知なものに直面しても、

そこから立ち上がってくるものを待ち、

受け止めることのできる力」

 

いわば、

「しない能力」

のことですが、

それは、坐禅に通ずるものがあるというのが、

著者の主張です。

 

作家で、精神科医である、

帚木蓬生さんも述べていますが、

この能力は、

シェイクスピアをはじめとする、

創造的で偉大なことを成し遂げる人が

持っていた能力だといいます。

 

たしかに、それはいえると思います。

 

たとえば、

私は、戦国時代が好きなのですが、

たとえば、

武田信玄さん。

 

「風林火山」

という言葉が有名ですが、

その中の「山」は、

 

「動かざること山の如し」

ですよね。

 

信玄公も、

「ネガティブ・ケイパビリティ」

を十分に持っていたのだと思います。

 

そして、信玄公のライバルで、

私が敬愛する武将、

上杉謙信さん(^^)

 

第四次川中島の戦い

で、妻女山に陣を張りますが、

そこは、いってみれば死地。

 

しかし、焦ることなく、

何十日も待ち続けます。

 

やがて、

信玄公が籠る海津城から、

炊煙がいつになく多くあがっている・・・

 

「うっ、敵は動く!」

 

察知した謙信公は、

夜陰に乗じて山を下り、

八幡原に押し出る・・・

 

そして、合戦の火ぶたが切られ、

信玄公の本陣を

崩壊寸前にまで追い込む・・・

 

 

・・・すみません、つい、

歴史ロマンに浸ってしまいました(^^;

 

信玄公や謙信公のような

戦国時代の名将も

「ネガティブ・ケイパビリティ」

をしっかり備えていたんですね。

 

 

話がそれてしまいましたが、

本書に戻ります(^^;

 

「解像度の高い眼を持つ」

 

という考え方を紹介します。

 

 

仏教における

瞑想のポイントは

「覚めた素面の眼で

刻々の体験をありのままに

はっきりと観る」

ことにあります。

 

それを仏教では

「ヴィパッサナー」

(パーリー語)

と言います。

 

「ヴィ」は「区別」、

「パッサナー」は「観る」

という意味です。

 

 

瞑想というと、

私は、当初、

超人的な、いわば

「神がかり的」な境地を

目指すのかと思っていましたが、

ちょっと違うんですね(^^;

 

むしろ、

「覚めた素面の眼で、

ありのままをはっきりと観る」

ということなんです。

 

 

修行によって

正確かつ精密に

見ることができるように

なった眼を、

私は「解像度の高い眼」

と呼んでいます。

 

もちろん、

ここでの「眼」は

肉眼のことではありません。

 

内的世界を

感知する感受性のことです。

 

 

「解像度の高い眼」

とは、

「内的世界を感知する感受性」

のことなんですね。

 

 

仏教は、

瞑想修行によって培われた

解像度の高い眼をもって

内的世界を観察することで、

そこで起きている現象を

支配している法則を

見い出してきました。

 

仏教が蓄積してきた

知見はいま、

西洋の脳科学者、

認知科学者、

心理学者、

セラピストたちから

注目されています。

 

 

脳科学、心理学はもちろんのこと、

それ以外にも、近年では、

物理学、素粒子科学のジャンルでも、

仏教の知見に近づいてきているといいます。

 

2500年も前に生まれた思想に、

最先端の科学が近づいている・・・

 

いや、正確には、

追いついてきた・・・

 

そう考えると、

仏教ってすごいですね(^^;

 

 

解像度には、

空間的解像度と

時間的解像度とが

あります。

 

空間的解像度とは、

たとえば

解像度の低い眼では

ピンク色に見える

一本の糸が

実際には赤と白の

二本の糸が

撚り合わさってものだと

認識できる力です。

 

時間的解像度とは、

いわば動体視力

のようなもので、

解像度の低い眼には

同時に起きているように

見える現象が、

実は時間的に前後する

二つの別な現象であると

認識できる力です。

 

そうした解像度の高い眼で

内的体験を観測することから

導き出された法則の一つが、

 

「苦しみ=痛み×抵抗」

という式です。

 

 

解像度の高い眼で、

内的体験を観測することから

導き出された法則が、

 

「苦しみ=痛み×抵抗」

 

なんですね。

 

「苦しみ」=「痛み」

というのはわかりますが、

「抵抗」も関わってくるのですね。

 

しかも、掛け算ときています・・・

 

何故、「抵抗」が、

「苦しみ」を何倍にも増やしてしまうのか?

 

続きは次回、

紹介、解説いたしますね(^^;

 

今回も最後までお読みくださいまして、

有り難うございました😊

 

 

-----------------------------------------

 

 

おまけ

 

久しぶりに、

ウチの愛猫、宮音(みやお)くん登場です😸

 

 

置物ではありません(^^;

 

ネコも、ある意味、

「ネガティブ・ケイパビリティ」

持ってますね(^^;

 

 

ご訪問くださいまして、

有り難うございます。

 

れっつごうです(^^)

 

曹洞宗の僧侶、

藤田一照さんの、

 

ブッダが教える愉快な生き方

 

 

という本から、

私の印象に残ったところを、

紹介しています。

 

今回で5回目ですね(^^;

 

今回は、

 

「ネガティブ・ケイパビリティ」

 

という考え方を、

紹介、解説いたします。

 

 

イギリスのロマン派詩人

ジョン・キーツ

(1795~1821)は、

弟にあてた手紙の中で

こんなことを言っています。

 

―ぼくは

「消極的能力」

(ネガティブ・ケイパビリティ)

のことを言っているのだが、

 

つまり人が

不確実さとか不可解さとか

疑惑の中にあっても、

事実や理由を求めて

いらいらすることが

少しもなくていられる

状態のことだ―

 

(「詩人の手紙」

ジョン・キーツ著

田村英之助訳

冨山房百科文庫)

 

 

「ネガティブ・ケイパビリティ」

は、キーツによる造語です。

 

彼はそれを、

創造的で偉大なことを

成し遂げる人が持っている

特質として指摘しています。

 

 

「ネガティブ・ケイパビリティ」

 

消極的能力とのことですが、

この能力は、

創造的で偉大なことを成し遂げる人

(たとえば、シェイクスピアなど)

が持っている能力だと

いうのですね。

 

ちょっと意外ですが・・・

 

 

私はこれこそが、

決して思い通りには

ならない人生を

愉快に生き抜いて

いくために

不可欠の能力だと

思います。

 

それは

未知なものをすぐに

既知なものに変えて

安心しようとせず、

尻込みしないで

未知なものに直面し、

そこから立ち上がって

くることを待ち、

受け止めることのできる

力だからです。

 

「ネガティブ・ケイパビリティ」は、

「消極的能力」

とも訳されていますが、

私は「しない能力」

と言っています。

 

まさに、考えを追わず、

正しい姿勢と静かな呼吸で

坐り続ける坐禅に

必要な能力であり、

ビーイング・モードで

坐禅をすることによって

自ずと培われていく

能力です。

 

一般的に能力といえば、

何かを成し遂げるための

能動的能力、

いわば

「ポジティブ・ケイパブリティ」

ばかりが評価されます。

 

そういう風潮の中では、

「問題」を少しでも

早く解決しようと焦って

ドゥーイング・モードを

起動させることが

当たり前に

なってしまいます。

 

しかし、それでは

将来のことや過去のこと、

つまり自分の頭の中で

考えたことばかりに

心が向いてしまい、

今ここで実際に

起きていることが

ほとんど体験できなくなります。

 

そして、

世界を直接的に体験して

自分の人生を

自由に生きるのではなく、

頭の中に作った物語を

繰り返し生きることに

なってしまいます。

 

 

なるほど~、

 

私たちは、未知なもの、

不可解なことに接すると、

つい、それを、

すぐに、解決しようとしますよね。

 

もやもやしたままだと、

気持ち悪いし、

何だか、落ち着かないし・・・

 

その状態に、

なかなか耐えることができない。

 

何故なら、

今は、ググれば、

すぐに正解が出てくる時代だから。

 

でも、個々の人生の正解は、

ググっても、出てこないのです(^^;

 

「未知なものに直面しても、

そこから立ち上がってくるものを待ち、

受け止めることのできる力」

 

それが、

「ネガティブ・ケイパビリティ」

すなわち、

「しない能力」なんですね。

 

そう考えると、

たしかに、

「いま、ここ」の世界を

直接的に体験しながら坐り続ける

「坐禅」というものは、

「ネガティブ・ケイパビリティ」

だといえますね。

 

 

目覚めるということは、

そのような思考の世界から

はっきり目覚めて、

現実にしっかり足をつけて

生きるということでも

あるのです。

 

脚を組み、

手を結び、

口を閉じ、

思いを手放している坐禅は、

まさに徹底的な

「しない」姿であると

言えるでしょう。

 

しないことを全力で行う

「ネガティブ・ケイパビリティ」

の発揮です。

 

いま自分の内外で

実際に起きていることは、

この宇宙でたった一回きりの

未知の出来事です。

 

すべての感覚機能を開放して、

その無限の豊かさと

出会い続けていくのが

坐禅修行の内実なのです。

 

 

「しないことを全力で行う」

 

たしか、

臨床心理学者でカウンセラーの

河合隼雄先生も、

おっしゃっていたと思います。

 

カウンセリングの際に、

カウンセラーは、

アドバイスをしたりして、

相手(クライエント)を

決して、変えようとはしないんですね。

 

相手の中に答えがあると信じて、

受容、共感をしながら、

ひたすら寄り添う。

 

そうすると、

(時間がかかる場合もありますが)

クライアントは、

自ら答えを見いだしていく・・・

 

自分自身に対しても、そうですよね。

 

思い通りにならないことがあっても、

すぐに解決しようとせず、

それを受け止めて、

何かが立ち上がってくるのを、

待ってみる。

 

もちろん、

具体的なアクションを起こした方が、

いい場合もありますが、

時には、

「ネガティブ・ケイパビリティ」

(しない能力)

を発揮してみるものも、

いいかもしれません。

 

独力では、

なかなか難しいことではありますが(^^;

 

そのためには、

坐禅や瞑想をして、

「いま、ここ」の感覚を

じっくり感じて、味わってみるのも、

効果的だと思います。

 

ちなみに、私は、

臨済宗青年僧の会さんの

オンライン坐禅会

にたまに参加しております。

 

全国のお寺さんが、

持ち回りで開催されているもので、

ほぼ毎晩、ZOOMで開催されています。

 

事前予約や登録も不要で、

出入り自由、気軽に参加できます。

(しかも、無料!)

 

顔出しも、したくなければ、

しなくて全然OKですよ(^^)

 

毎回、坐禅の仕方から

懇切丁寧に説明してくださるので、

まったくの初心者でも参加できます。

 

おすすめします(^^)

 

あと、

「ネガティブ・ケイパビリティ」

に興味を持たれた方は、

 

作家で、精神科医である、

帚木蓬生さんの、

ネガティブ・ケイパビリティ  答えの出ない事態に耐える力

 

 

という本があります。

 

コロナ禍の今の時代だからこそ、

答えの出ない事態に耐える力、

必要とされていると思います。

 

ご一読をオススメします(^^)

 

 

今回も最後までお読みくださいまして、

有り難うございました。

 

次回に続きます(^^;

 

 

 

ご訪問くださいまして、

有り難うございます。

 

れっつごうです(^^)

 

曹洞宗の僧侶、

藤田一照さんの、

 

ブッダが教える愉快な生き方


 

という本から、

私の印象に残ったところを、

紹介しています。

 

もう4回目ですね(^^;

 

今回は、

 

「頑張らない坐禅」

 

という考え方を紹介します。

 

「頑張らない」

とは、どういうことでしょうか?

 

 

たとえば、

「坐禅に対して

なんとなく

「苦行」のようなイメージを

抱いている人が

多いのではないでしょうか。

 

 

はい、私も、

以前は、そのようなイメージを

抱いておりました(^^;

 

 

テレビなどで目にする

坐禅のシーンはたいてい、

寒い暗闇の中で

長時間じっと座り続けたり、

居眠りしている人が

背中をバシーンと

叩かれるところです。

 

苦痛や眠気に

耐えながら

一生懸命頑張って

座っているように

見える姿が

印象づけられて、

 

「坐禅=

歯を食いしばって

頑張るもの」

 

というイメージが

浸透しているのだと

思います。

 

 

私は、横浜鶴見にある、

曹洞宗の本山「總持寺」

の月例坐禅会に、

何度か参加したことがありますが、

(残念ながら、しばらく、

コロナで中止になっています)

 

参加する前は、

たしかに、

「居眠りして、棒で叩かれたらどうしよう・・・」

とかなり、ビビっていました(^^;

(もちろん、同意なく、

いきなり叩かれることはありませんので、

ご安心を(^^)

 

 

修行者の側にも、

「人にできないようなことを

するのが修行だ」

と思っている節が

少なからずあります。

 

いや、

修行僧だけではありません。

 

私たちには

"No pain, No gain"

(痛み、あるいは苦労なくして、

得るものなし)

という思い込みがあって、

何かよいものを

手に入れるためには 

「頑張るのが当然だ」

と考えがちです。

 

頑張れば頑張るほど

結果がよくなると信じて、

辛くても辛抱して

頑張ろうとします。

 

いわゆる

「ガンバリズム」、

努力至上主義です。

 

 

この意識、私にもあります(^^;

(特に若いころは強かったです)

 

痛みや苦労しなければ、

よいものは得られないという意識。

 

たしかに、苦労すればするほど、

得た時の喜びは大きいのは事実ですが、

しかし、

よく考えれば、

これは固定概念(思い込み)ですね(^^;

 

別に、苦労して頑張らなくても、

よいものを得られることもあるわけです。

(たとえば、自分の好きなこととか)

 

しかし、ブッダも、

覚りを開くまでは、

このような意識だったようです。

 

 

樹下に打座する前の

ブッダは、

特別な境地や状態に

至るために、

瞑想や苦行などを通じて

懸命の努力をしていました。

 

そこでは、

いつでも理想の未来が

待望されているので、

道の途中でしかない現在に

安住することはできません。

 

理想の現実を目指して、

ひたすら先を急ぐのみです。

 

道の途上には平安はなく、

その道の果てにある平安に

到達しなければなりません。

 

ゴールにあるテープを

切らなければ、

その修行は失敗

ということになります。

 

 

つまり、

理想の未来を実現することが大事で、

それまでの過程は、

あまり意味がないということですね。

 

 

これは、

「学校の勉強」に似ています。

 

たとえば、

多くの受験生は

「勉強」というものに

本当の意味を

感じられないままに、

興味もわかない勉強に

無理やり取り組んでいるように

見えます。

 

勉強そのものには

喜びを感じず、

目標達成の時に得られる

未来の喜びを空想しながら、

今の苦痛や退屈に

耐えるという

マインドセット(思考様式)が

そこにはあります。

 

ブッダは、

そういう修行を

実際にやってみて

 

「これは根本的に

違うのではないか」

 

と気づいたのです。

 

 

どきっ・・・

 

私も、大学受験生の時は、

 

「大学に入れば遊べるぞ~」

「やりたいことができるぞ~」

「だから、今は我慢・・・」

 

というマインドでやっていました(^^;

 

それはそれで、

無駄ではなかったとは思いますが。

 

 

私が推測するに、

そこから生まれた洞察は、

 

「平安への道はない。

平安こそが道である」

 

ということのように思います。

 

平安を目指す苦しい道を

歩くような修行ではなく、

道を歩む一歩一歩に

すでに平安があるような

修行でなければ

ならなかったのです。

 

(中略)

 

樹下に打座するブッダは、

おそらく生まれて初めて、

心の底から安心して

くつろいでいたことでしょう。

 

平安を求めて

頑張ることから解放されて、

ただ心身を調えて坐ることに、

真の平和を

見い出したからです。

 

ブッダは法楽に浸りながら

坐り続けたといいます。

 

樹下に打座する

ブッダの顔には

微笑みが

浮かんでいたはずです。

 

狂おしく求めていたときには

得られず、

かえって現在の

ありのままを受け入れ、

そのままにしているときに

訪れるくつろぎが、

そこにはありました。

 

 

「平安への道はない。

平安こそが道である」

 

つまり、

ゴールではなく、

プロセスの中にこそ、

平安があるということですね。

 

著者の藤田一照さん自身も、

受験生的なマインドセットで

修行生活を送っていた時期が

あったようです。

 

しかし、

ヴェトナム人禅僧

ティク・ナット・ハン氏に

初めてお会いした時に、

こう言われたそうです。

 

 

「一照さん、微笑みなさい。

修行は愉しいもので

あるべきですよ」

 

「え、愉しい修行、ですか!?

そんなことが

可能なんでしょうか?」

と聞くと、

 

「はい。ブッダは

いつも微笑んで

修行されていたはずです。

 

しかめ面をした人の周りに

人は集まってきませんよ。

 

ブッダは当時、

地上で生きることを

最も愉しんでおられた方の

一人だと私は思います。

 

われわれ修行者も

彼のようであるべきですよ。

 

そして、

それは難しいことでは

ありません」

 

という返事が返ってきました。

 

彼からこう言われたことが、

私には大きな転機に

なりました。

 

 

「ブッダは、

いつも微笑んで修行されていた」

 

「しかめ面をした人の周りに

人は集まってこない・・・」

 

そうですね・・・

 

私は、よく、

自分がいかに苦労しているか、

いかに頑張っているかを、

(おそらく無意識に)アピールしようとして、

「しかめっ面」

をしていることがあります。

 

まるで、苦しんでいる自分は、

高尚で、偉いというような感じで。

 

職場でも、妻の前でも・・・

 

でもそれって、

完全に、自己満足ですよね(^^;

 

もちろん、

人間ですから、

苦しんだり、悩んだりすることはありますし、

それを抑えつける必要はありませんが、

 

でも、それを人前でアピールして、

察してほしい、などと思わない。

 

日々の仕事、生活の中でも、

「いま、ここ」に愉しさを見い出して、

なるべく、「微笑み」を

忘れないようにしよう・・・

 

そんなふうに思いました😊

 

今回も最後までお読みくださいまして、

有り難うございました(^^)

 

次回に続きます(^^;

 

 

 

ご訪問くださいまして、

有り難うございます。

 

れっつごうです(^^)

 

曹洞宗の僧侶、

藤田一照さんの、

 

ブッダが教える愉快な生き方

 

 

の内容で、私の印象に残ったところを、

紹介・解説しています。

 

今回で、3回目です(^^;

 

前回は、

「ドゥッカ」について、

 

すなわち、

生・老・病・死などの、

 

「思い通りにならないこと」

 

について、

紹介・解説をさせていただきました。

 

「思い通りにならない」

といえば、

「他人」もそうですよね(^^;

 

前回も紹介した、

 

 

「他人と過去は変えられないが、

自分と未来は変えられる」

 

 

という、

エリック・バーンの有名な言葉もあります。

 

基本的に、

他人を変えることは、できない。

 

しかし、

「変えなければならない場面」

もあるのは、事実です。

 

たとえば、

「仕事」ですね。

 

経営者や管理職の場合、

部下に異動を命じることがあります。

 

栄転ばかりではなく、

いろいろな事情で降格の場合だってあります。

 

能力的に、

役割を果たせなかったという場合も

あるわけです。

(もちろん、好き嫌い人事は論外ですが(^^;)

 

「子育て」の中にも、

あるのかもしれません。

 

もちろん、子どもといえども、

人を変えることはできないのですが、

 

たとえば、

予防接種を受けさせようとして、

子どもが嫌がることもあると思います。

 

泣きわめいて、抵抗したり(^^;

 

しかし、子どものことを考えると、

やはり、受けさせた方がいい場合もある。

 

そういう場合は、

どうすればいいのか・・・?

 

DoingとBeing

で考えるといいと思います(^^)

 

Doingとは、行為。

 

部下を降格したり、

子どもに予防接種をさせたり、

 

それは、せざるを得ない。

半ば強引に、

相手を変えざるを得ない。

 

しかし、

Beingは決して変えようとしない。

 

Beingとは、この場合、

その人の存在、気持ち、感情。

 

たとえば、

どんなに仕事ができない部下でも、

決して人格は否定しない。

ましてや、人として下に見ない。

 

降格する場合には、

「きっとショックだろうなあ」

「がっかりするだろうなあ」

と共感して、相手のBeingを尊重する。

 

そのうえで、

異動を告げる。

 

予防接種を受ける子どもには、

「注射いやだよね」

「怖いよね」

と共感して、相手のBeingを尊重する。

 

そのうえで、

「ちょっと、ちくっとするけど

すぐ終わるからね」

と言葉をかける。

 

Doingは変えることになるけれども、

Beingは変えずに、あくまで尊重する。

 

そういうことなのかな~

と思いました(^^;

 

ちなみに、

他人のBeingを尊重するためには、

まずは、自分のBeingを尊重できることが、

前提となるわけでして、

 

そうでないと、

つい、相手のBeingを、

変えようとしてしまいがちになる・・・

 

自分のことも、相手のことも、

Being(存在、気持ち、感情)を、

受け入れ、尊重できるようになりたいです。

 

 

-------------------------------------

 

 

・・・すみません、

本書の内容から、

ちょっと横道にそれましたが(^^;

 

今回は、本書から、

「青虫が蝶になる」

という考え方を引用して、

紹介・解説いたします。

 

「青虫が蝶になる」

とは、いったい何のことか?

 

「覚り」のたとえなんですね。

 

 

地を這う青虫は、

二次元でしか

世界を見ることが

できません。

 

しかし、

さなぎから羽化して

蝶になると、

三次元の世界を

生きることができるように

なります。

 

青虫のように

二次元で生きるのと、

蝶のように

三次元で生きるのとでは、

人生の景色が

まったく違うことでしょう。

 

 

そうですよね。

自由に飛ぶことのできる蝶になれば、

人生の景色が一変しそうですね。

 

それにしても、

青虫からさなぎ、蝶へと

劇的に変化するのって、

考えてみると不思議ですよね。

 

 

このたとえでは、

青虫は凡夫

(迷っている者)、

蝶は仏

(覚者、目覚めた人)

を表しています。

 

つまり、

私たちは誰でも、

蝶、つまり仏になれるのです。

 

ブッダがそれを

証明しています。

 

青虫である自分が

見ているものとは別の、

蝶の景色があることを

知るだけでも、

生き方が変わってくると

思います。

 

 

誰でも蝶、すなわち仏になれる。

 

とはいっても、

私などは、

「今回の人生だけでは難しいだろうなあ~」

という自覚がありますが(^^;

 

ただ、

仏になることは難しくても、

人生の後半に、

うまくシャドーの統合ができて、

「自分の道」を歩むことができれば、

いわゆる、

心理学的な「自己実現」

というものはできるのではないかと、

考えています。

 

人生の前半は、

いわば、煩悩の赴くままに、

お金や地位、名声という名の葉っぱを、

貪り食うわけです。

 

絵本の、

「はらぺこあおむし」

みたいに、お腹を壊すほどに(^^;

 

しかし、

いずれ、さなぎになる。

 

さなぎの中は、

いったんドロドロになって、

すごい変容を遂げるんですね。

 

もちろん、

今までの中身が溶解するわけですから、

おそらく痛みも伴うわけです(^^;

 

その苦しみを経て、

やがて、さなぎは羽化をして、蝶になる。

 

蝶は三次元の世界を、

自由に飛び回る。

 

貪り食うことはせず、

むしろ、花粉を媒介することで、

新しい種を生み出すきっかけを作る・・・

 

 

・・・う~ん、

蝶って、素敵ですね(^^)

 

「私も、蝶のように自己実現したい!」

 

などと思いますが(^^;

 

 

もちろん

蝶になってからも、

生きている限り

学びは続きます。

 

私たちの学びも、

終わりはありません。

 

もし、

終わりがあるとすれば、

それは

オーガニック・ラーニング

ではない学びでしょう。

 

(中略)

 

人が一般的に

「学び」のモデルに

しているのは

「学校的な学び」

だけなので、

芸術や宗教の世界にある

「オーガニック・ラーニング」

は視野に入っていません。

 

よく「生涯学習のすすめ」

などと言われますが、

この「学習」も、

「学校的な学び方」

が想定されています。

 

 

学校的な学び方も、

悪くないとは思いますが、

私は、やっぱり、

 

「オーガニック・ラーニング」

 

すなわち、

赤ちゃんが、自然に、

体験から学んでいくような学びを、

していきたいです(^^)

 

 

しかし、学びを

「学校的な学び」

だけで理解するのは、

了見が狭すぎます。

 

私たちは、

もう一つの

学びのスタイルである

「オーガニック・ラーニング」

も視野に入れるべきです。

 

(中略)

 

学ぶことは、

自分自身が変わること。

 

つまり、

何かを本当に学んだら、

「それまでの私」

ではなくなって、

「新しい私」

がそこに生まれる

ということです。

 

たとえば、

自転車に乗れるようになったら、

かつての

「自転車に乗れなかった自分」

には戻れませんよね。

 

乗れないフリはできますが、

本当に乗れない状態には

戻れません。

 

なぜかというと、

「私」そのものが

変わってしまったからです。

 

ゴータマ・シッダールタが

三十五歳で

「ブッダ」になったことは、

人間として

最もラディカルな変容です。

 

青虫が蝶に

完全変態するようなものです。

 

しかも、

そのあと死ぬまでの

四五年間、

彼は学び続け、

ブッダとしての円熟を

深めていきました。

 

覚りを開いてから、

死ぬまで修行を続け、

死ぬことすら

学びに変えていったのです。

 

 

ブッダには、遠く及びませんが、

私も、40代から、

心理学やカウンセリングの学びを

深めたことによって、

少しは、自転車に乗れるようになったと

感じています。

 

乗りこなすには、

まだまだ、これからですが(^^;

 

著者はこう述べます。

 

 

「貧しい生活」

よりも

「豊かな生活」

を求めることには

何の問題もありません。

 

ただ、

生活と人生の

どちらにウエイトを

置くかが問題です。

 

「豊かな生活」

を過剰に追求して

「豊かな人生」

を犠牲にしていると、

精神的には

貧しくなってしまいます。

 

深い学びが起こらず、

人格の成熟が

止まるからです。

 

たとえば、

何をするにしても、

事前に損得勘定を

する人がいます。

 

「これは何の役に立つか。

どんな得があるか」

ということばかりを気にして、

極力無駄なことはしない。

 

赤ちゃんの学びの

おおらかさとは

全く違っています。

 

これでは、

思いもよらぬ

面白いことが起きていても

気がつかないでしょう。

 

貧しい学びしか

できないのは、

もったいないことです。

 

私たちは、

何のために

学ぶのでしょうか。

 

経済的に豊かになるため

だけではありません。

 

何よりも

豊かな成長のためです。

 

学びには成長の喜びが

あるからです。

 

そういう学びの道を

見つけることができれば、

ブッダのような

「愉快な生き方」

に近づけます。

 

 

そうですね~

 

生きていくためには、

(特にビジネスの世界では)

損得勘定も、もちろん大事ですが、

それだけだと、空しくなる。

 

私が尊敬する、

心理カウンセラーの

古宮昇先生が、

 

「人は、もっと成長したいという、

命の持つ根源的な衝動を持っている」

 

とおっしゃっていますが、

 

「学びには、成長の喜びがある」

 

私も、あかちゃんのような、

おおらかで愉快な学びを

続けていきたいです(^^)

 

ちなみに、

著者の藤田一照さんは

この学びとして、

「坐禅」を紹介しています。

 

ただし、

「頑張らない」坐禅なんですね(^^;

 

頑張らない?

 

次回になりますが、

紹介・解説いたします。

 

今回も、

最後までお読みくださいまして、

有り難うございました😊

 

 

ご訪問くださいまして、

有り難うございます。

 

れっつごうです(^^)

 

曹洞宗の僧侶、

藤田一照さんの、

 

ブッダが教える愉快な生き方

 

 

という本から、

私が読んで印象に残ったところを、

紹介しています。

 

前回は、

「オーガニック・ラーニング」

 

すなわち、

学問としての学びだけでなく、

赤ちゃんのように、

日々の生活の中での、

「体験」から「学ぶ」ということ。

 

そして、「覚る」

 

すなわち、

どんな人間の中にもある、

「悪魔」(この場合は=煩悩)

に気づいて、

それを自覚するということ。

 

について紹介・解説をしました。

 

今回は、

「ドゥッカ」

「青虫が蝶になる」

という考え方を、

紹介・解説いたします。

 

 

ブッダは、

四門出遊して知った

「老・病・死」に

「生まれる」ことを加えて、

生・老・病・死は、

「ドゥッカ」

であると言っています。

 

ドゥッカとは、

バーリー語で

「思い通りにならない

人生の絶対真実」

 

という意味です。

 

 

生・老・病・死。

いわゆる、

「四苦八苦」の「四苦」ですね。

 

「ドゥッカ」は、

苦痛という意味の

「苦しみ」と訳されることが多いですが、

私も、この本と同じく、

より正確には、

「思い通りにならないこと」

だと考えています。

 

たしかに、

生・老・病・死は、

全人類、

誰もが避けて通れない道ですよね(^^;

 

 

覚りを開き、

多くの弟子を

導いてきたブッダも、

皆と同じように老い、

病気になって

死んでしまいました。

 

「ブッダ」

になったからといって、

ドゥッカをなくすことは

できなかったのです。

 

しかし、

彼はドゥッカを深く理解し、

受け入れて、

それを苦しみの種には

しませんでした。

 

なぜ思い通りに

ならないかというと、

私たちは

「縁起(えんぎ)」として

存在しているからです。

 

縁起とは、

宇宙のすべての存在が

無量無辺の因縁によって

相互に影響しあいながら

存在しあっているという、

宇宙の根本的ビジョンです。

 

私たちは、

単独で孤立的に

生きているのではなく、

すべてのものとの

つながりに支えられている

縁起的存在です。

 

生老病死は

そういう

「生かされて生きている

いのちのあり方」から

必然的に出てくる

ものなのです。

 

 

なるほど・・・

 

私たちは、

すべてのものとの

つながりに支えられて

生きている。

 

その変化の中では、

生老病死は、

必然ということなんですね。

 

 

私たちは、

縁起という

働きのネットワークから

たまたま生まれた存在です。

 

だから、

そのネットワークを

勝手に操作することは

できません。

 

私たちはあくまでも

縁起の産物であり、

主人ではないからです。

 

苦しみというのは、

生老病死という

事実に対する

私たちのリアクション(反応)

として起きてくるものです。

 

 

たしかに、

生老病死、

 

それらを含めた、

「思い通りにならないこと」

を過剰に怖れて、

それに反応(抵抗や逃避)をするから、

「苦しみ」というものが、

生まれてくるような気がします。

 

 

ブッダであっても、

その事実から逃れることは

できませんでしたが、

その苦しみを乗り越えることは

できました。

 

「苦しみを乗り越える」

というのは、

生老病死それ自体を

なくすことではなく、

それを深く理解し、

受け入れて生きることです。

 

ブッダは、

生老病死という事実を

恐れたり、

そこから逃げようとする代わりに、

むしろ縁起という心理を

深く学ぶために、

それにきちんと向き合って

理解しようとしたのです。

 

人生の厳粛な事実を理解し、

生きる条件として

素直に受け入れることは、

「愉快な生き方」

のポイントです。

 

ドゥッカがあっても、

いや、むしろ

あるからこそ

愉快に生きることができるという

逆説です。

 

 

なるほど~、

 

もちろん、

人の意志や努力によって、

変えられるものも多いと思います。

 

しかし、

変えられないものまで、

変えようとするために、

苦しみが生じるわけです。

 

過去ブログでも、

何回か紹介させていただきましたが、

精神科医エリック・バーンの有名な言葉、

 

 

「他人と過去は変えられないが、

自分と未来は変えられる」

 

 

他人と過去を変えようとするから、

苦しくなるのですね(^^;

 

これも、何度か紹介しましたが、

ニーバーの祈り。

 

 

「神よ、

変えることの

できるものについて、
それを変えるだけの勇気を

われらに与えたまえ。
 

変えることの

できないものについては、
それを受けいれるだけの

冷静さを与えたまえ。
 

そして、
変えることのできるものと、

変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。

(大木英夫氏 訳)

 

 

そうですね・・・

 

でも、

そうはいっても、

 

「過去と他人は変えられない」

といっても、

仕事上、部下にやらせないと

いけないこともあるし・・・

 

子どもに対しても、

そうだろうし・・・

 

「変えることのできるものと、

変えることのできないものとを、
識別する知恵」

といっても、

そもそも、その知恵がないために

苦労しているわけで・・・(^^;

 

 

う~ん・・・

 

 

あまり深刻にとらえない方が、

いいのかもしれません。

 

私たちは、

「生かされている」

 

したがって、

「すべては必然」

何らかの意味がある。

 

意味が分からないことは、

私たち人間レベルでは、

計り知れないこととして、

抵抗せずに、流れに身を任せる。

(そのうち分かってくることも

ありますし(^^;)

 

そのうえで、

生・老・病・死という制約のある中で、

ゲームやスポーツを楽しむように、

愉快に生きる。

 

ゲームやスポーツって、

ルールや制約、終わりがあるからこそ、

楽しめるわけですから(^^)

 

そんなことを考えました😊

 

 

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今回は

このあたりで終わりますね(^^;

 

次回は、

今回紹介しきれなかった、

「青虫が蝶になる」

という考え方を、

紹介・解説します。

 

最後までお読みくださいまして、

有り難うございました😊

 

 

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おまけ

 

 

出張がてら、

京都・東寺のライトアップを鑑賞!

 

紅葉ピークには、

やや早かった感がありますが(^^;

五重塔、とても美しかったです😊