ご訪問くださいまして、

有り難うございます。

 

れっつごうです(^^)

 

曹洞宗の僧侶、

藤田一照さんの、

 

ブッダが教える愉快な生き方


 

という本から、

私の印象に残ったところを、

紹介しています。

 

もう4回目ですね(^^;

 

今回は、

 

「頑張らない坐禅」

 

という考え方を紹介します。

 

「頑張らない」

とは、どういうことでしょうか?

 

 

たとえば、

「坐禅に対して

なんとなく

「苦行」のようなイメージを

抱いている人が

多いのではないでしょうか。

 

 

はい、私も、

以前は、そのようなイメージを

抱いておりました(^^;

 

 

テレビなどで目にする

坐禅のシーンはたいてい、

寒い暗闇の中で

長時間じっと座り続けたり、

居眠りしている人が

背中をバシーンと

叩かれるところです。

 

苦痛や眠気に

耐えながら

一生懸命頑張って

座っているように

見える姿が

印象づけられて、

 

「坐禅=

歯を食いしばって

頑張るもの」

 

というイメージが

浸透しているのだと

思います。

 

 

私は、横浜鶴見にある、

曹洞宗の本山「總持寺」

の月例坐禅会に、

何度か参加したことがありますが、

(残念ながら、しばらく、

コロナで中止になっています)

 

参加する前は、

たしかに、

「居眠りして、棒で叩かれたらどうしよう・・・」

とかなり、ビビっていました(^^;

(もちろん、同意なく、

いきなり叩かれることはありませんので、

ご安心を(^^)

 

 

修行者の側にも、

「人にできないようなことを

するのが修行だ」

と思っている節が

少なからずあります。

 

いや、

修行僧だけではありません。

 

私たちには

"No pain, No gain"

(痛み、あるいは苦労なくして、

得るものなし)

という思い込みがあって、

何かよいものを

手に入れるためには 

「頑張るのが当然だ」

と考えがちです。

 

頑張れば頑張るほど

結果がよくなると信じて、

辛くても辛抱して

頑張ろうとします。

 

いわゆる

「ガンバリズム」、

努力至上主義です。

 

 

この意識、私にもあります(^^;

(特に若いころは強かったです)

 

痛みや苦労しなければ、

よいものは得られないという意識。

 

たしかに、苦労すればするほど、

得た時の喜びは大きいのは事実ですが、

しかし、

よく考えれば、

これは固定概念(思い込み)ですね(^^;

 

別に、苦労して頑張らなくても、

よいものを得られることもあるわけです。

(たとえば、自分の好きなこととか)

 

しかし、ブッダも、

覚りを開くまでは、

このような意識だったようです。

 

 

樹下に打座する前の

ブッダは、

特別な境地や状態に

至るために、

瞑想や苦行などを通じて

懸命の努力をしていました。

 

そこでは、

いつでも理想の未来が

待望されているので、

道の途中でしかない現在に

安住することはできません。

 

理想の現実を目指して、

ひたすら先を急ぐのみです。

 

道の途上には平安はなく、

その道の果てにある平安に

到達しなければなりません。

 

ゴールにあるテープを

切らなければ、

その修行は失敗

ということになります。

 

 

つまり、

理想の未来を実現することが大事で、

それまでの過程は、

あまり意味がないということですね。

 

 

これは、

「学校の勉強」に似ています。

 

たとえば、

多くの受験生は

「勉強」というものに

本当の意味を

感じられないままに、

興味もわかない勉強に

無理やり取り組んでいるように

見えます。

 

勉強そのものには

喜びを感じず、

目標達成の時に得られる

未来の喜びを空想しながら、

今の苦痛や退屈に

耐えるという

マインドセット(思考様式)が

そこにはあります。

 

ブッダは、

そういう修行を

実際にやってみて

 

「これは根本的に

違うのではないか」

 

と気づいたのです。

 

 

どきっ・・・

 

私も、大学受験生の時は、

 

「大学に入れば遊べるぞ~」

「やりたいことができるぞ~」

「だから、今は我慢・・・」

 

というマインドでやっていました(^^;

 

それはそれで、

無駄ではなかったとは思いますが。

 

 

私が推測するに、

そこから生まれた洞察は、

 

「平安への道はない。

平安こそが道である」

 

ということのように思います。

 

平安を目指す苦しい道を

歩くような修行ではなく、

道を歩む一歩一歩に

すでに平安があるような

修行でなければ

ならなかったのです。

 

(中略)

 

樹下に打座するブッダは、

おそらく生まれて初めて、

心の底から安心して

くつろいでいたことでしょう。

 

平安を求めて

頑張ることから解放されて、

ただ心身を調えて坐ることに、

真の平和を

見い出したからです。

 

ブッダは法楽に浸りながら

坐り続けたといいます。

 

樹下に打座する

ブッダの顔には

微笑みが

浮かんでいたはずです。

 

狂おしく求めていたときには

得られず、

かえって現在の

ありのままを受け入れ、

そのままにしているときに

訪れるくつろぎが、

そこにはありました。

 

 

「平安への道はない。

平安こそが道である」

 

つまり、

ゴールではなく、

プロセスの中にこそ、

平安があるということですね。

 

著者の藤田一照さん自身も、

受験生的なマインドセットで

修行生活を送っていた時期が

あったようです。

 

しかし、

ヴェトナム人禅僧

ティク・ナット・ハン氏に

初めてお会いした時に、

こう言われたそうです。

 

 

「一照さん、微笑みなさい。

修行は愉しいもので

あるべきですよ」

 

「え、愉しい修行、ですか!?

そんなことが

可能なんでしょうか?」

と聞くと、

 

「はい。ブッダは

いつも微笑んで

修行されていたはずです。

 

しかめ面をした人の周りに

人は集まってきませんよ。

 

ブッダは当時、

地上で生きることを

最も愉しんでおられた方の

一人だと私は思います。

 

われわれ修行者も

彼のようであるべきですよ。

 

そして、

それは難しいことでは

ありません」

 

という返事が返ってきました。

 

彼からこう言われたことが、

私には大きな転機に

なりました。

 

 

「ブッダは、

いつも微笑んで修行されていた」

 

「しかめ面をした人の周りに

人は集まってこない・・・」

 

そうですね・・・

 

私は、よく、

自分がいかに苦労しているか、

いかに頑張っているかを、

(おそらく無意識に)アピールしようとして、

「しかめっ面」

をしていることがあります。

 

まるで、苦しんでいる自分は、

高尚で、偉いというような感じで。

 

職場でも、妻の前でも・・・

 

でもそれって、

完全に、自己満足ですよね(^^;

 

もちろん、

人間ですから、

苦しんだり、悩んだりすることはありますし、

それを抑えつける必要はありませんが、

 

でも、それを人前でアピールして、

察してほしい、などと思わない。

 

日々の仕事、生活の中でも、

「いま、ここ」に愉しさを見い出して、

なるべく、「微笑み」を

忘れないようにしよう・・・

 

そんなふうに思いました😊

 

今回も最後までお読みくださいまして、

有り難うございました(^^)

 

次回に続きます(^^;