ご訪問くださいまして、

有り難うございます。

 

れっつごうです(^^)

 

今回は、久しぶりに、

仏教の本の紹介です。

 

曹洞宗の僧侶、

藤田一照さんの、

 

ブッダが教える愉快な生き方

 

 

という本を紹介します。

 

著者の、

藤田一照さんは、

灘高→東大→東大大学院と、

学問超エリート街道を歩まれてきた方ですが、

28歳の時に、禅道場に入山し、

得度されたんですね。

 

その後、アメリカで、坐禅指導、

何と、スターバックス社やフェイスブック社でも、

坐禅を指導されたこともある、

世界的な禅の指導者です。

 

この本は、

仏教の基礎知識というよりも、

仏教的な「学び方」が解説されています。

 

では、仏教的な学びとは、

何なのでしょうか。

 

著者いわく、

 

「ブッダのように愉快に生きること」

だといいます(^^)

 

別の言い方をすると、

 

「赤ちゃんの学び」です(^^)

 

 

仏教の「学び」は、

学校の授業のような

「学び」とは

様相が異なります。

 

たとえるなら、

学校に行く前の、

赤ちゃんの「学び」です。

 

生まれたばかりの

赤ちゃんは、

好奇心を持って

周囲の物事に触れるうちに、

いろいろなことを

自然に身につけて

いきますよね。

 

本人に

学びという意識が

あるわけではなく、

周りの大人も

特別に何かを教えようとは

思っていません。

 

それでも二歳くらいまでに、

いつのまにか歩いたり話したり

するようになります。

 

遊んでいるように見えるけど、

そこに深い学びが

自然に起きているからです。

 

すべての活動が

学びになっていて、

すべての体験が

赤ちゃんを変えていきます。

 

いつどこで学んだのかは

本人にもわからないけど、

周りとの交流全体から

自然に何かが学ばれていく。

 

このような学びを私は

「オーガニック・ラーニング」

と呼んでいます。

 

 

なるほど~

「オーガニック・ラーニング」

 

学問としての学びだけでなく、

日々の生活の中での、

「体験」から「学ぶ」ということでしょうか。

 

実際、ブッダも、

オーガニックな学びをされたということが、

ブッダの人生とともに、

この本に解説されています。

 

ブッダは王子として生まれ、

何不自由なく成長しますが、

やがて、人生は、

「老・病・死」の苦しみから避けられない

ということに気づかれ、

出家の道を歩みます。

 

途中、「苦行」にも取り組まれますが、

そのような、

意志によるコントロールでは、

何も解決しないということが分かり、

その後、菩提樹の下で、

「覚り」を開かれます。

 

この本で、私が印象的だったのは、

ブッダが、「覚り」を開かれた後にも、

「悪魔」が何度も現れるというところです。

 

「覚り」を開いたのに・・・

 

いったい、なぜなのでしょうか。

 

 

ブッダは、

私たちとはまったく違う超人に

生まれ変わったのでしょうか。

 

いいえ、

そうではありません。

 

その証拠に、

覚りを開いた彼の前に、

そのあと何度も、

「悪魔」が現れるのです。

 

悪魔は

ブッダが城を出てからずっと

彼の後をつけていましたが、

姿を現したのは

ブッダが初めて菩提樹下で

座ったときでした。

 

ブッダが瞑想や苦行を

一生懸命やっているときに

現れなかったのに、です。

 

それはいったい

なぜなのでしょう?

 

ブッダが瞑想や苦行を

している間は、

悪魔は安心して

見ていられたのです。

 

しかし、

彼が樹下の打坐をしたときには

 

「いかん、このままだと

こいつは俺の手に負えない

人間になってしまう。

これはどうしても

邪魔しなければ!」

 

と焦ったからこそ、

出てきたのでしょう。

 

それくらい、

樹下の打坐は

それまでの瞑想や苦行とは

質的に違いがあったのです。

 

悪魔の執拗な妨害を乗り越えて

覚りを開いたあとも、

悪魔は繰り返しブッダの前に

現れます。

 

それは、

ブッダが

「悪魔と出会わない超人」

ではなく

「悪魔ときちんと出会える人間」

だったからです。

 

 

「覚り」を開く前ではなく、

開いた後にこそ、悪魔が現れる。

 

いってみれば、

「覚り」を開く前は、

自分の中に悪魔がいることに

気づかなかった、

 

言い換えれば、

悪魔に乗っ取られていたんですね(^^;

 

 

悪魔というのは、

人間を道から

踏み外させる衝動、

いわゆる煩悩のことです。

 

それを「悪魔」と

神話的に表現しているのです。

 

 

なるほど~、

「悪魔」とは、

「煩悩」(エゴ)のたとえなんですね。

 

 

ブッダといえども、

人から非難されれば、

ムカッときそうなことも

あるでしょう。

 

逆に、

人にかしずかれたときは、

傲慢な気持ちが

湧きそうになるかもしれません。

 

悪魔が現れるというのは、

そういう微細な煩悩の動きに

「気づける」

ということです。

 

人間であれば、

誰でも自分の中に

悪魔がいます。

 

ブッダも同じです。

 

しかし、

「目覚めた人」

でない私たちは、

そのことに気づけません。

 

気づかずに

悪魔に操られているので、

悪魔と「出会う」ことすら

できないのです。

 

樹下に打坐するまでは、

ブッダも内なる悪魔と

「出会う」ことは

できませんでした。

 

 

人間であれば

誰でも自分の中に

悪魔(=煩悩)がいる。

 

しかし、

それになかなか気づくことができない。

 

親鸞の歎異抄で有名な、

 

「善人なおもて往生をとぐ、

いわんや悪人をや」

 

(訳:善人ですら、

阿弥陀さまの本願によって、

真実の生き方に

目覚めることができるのだから、

まして悪人はなおさらです。

・金山秋男氏訳)

 

を想起しました。

 

この場合の「悪人」とは、

「自分の煩悩を自覚している人」

という意味だと捉えます。

 

つまり、

「覚る」とは、

「自分の煩悩を自覚すること」

なんですね。

 

 

シッダールタが

「ブッダ」になってからも、

悪魔はさまざまに姿を変え、

言葉を替えて、

繰り返し彼を

篭絡しようとします。

 

しかし、

ブッダはいつも冷静に

「悪しきものよ」

と悪魔に語りかけ、

 

「私はお前が悪魔だと

知っているよ」

 

と応じます。

 

(中略)

 

ブッダは、

悪魔を悪魔だと知っている

人でした。

 

それは、

「私が悪魔である」

と知っているということです。

 

 

「ブッダが悪魔である」

というのは、

何とも過激な表現のようにも

聞こえますが、

でも、この悪魔というのは

煩悩のことだと捉えれば、

あながち、おかしくはないと思います。

 

ブッダでさえ、煩悩はあった。

 

しかし、ブッダが偉大なのは、

それをしっかり

「自覚」されていたところですね。

 

 

ブッダが悪魔と出会えるのは、

煩悩に乗っ取られそうな自分に

気づけるからです。

 

気づけるから、

心を乱されずに

踏みとどまることができるのです。

 

ここが、

煩悩に振り回され、

そのことを自覚すらできない

私たちと違うところです。

 

「ブッダ」の漢訳語は

「覚者(目覚めた人)」です。

 

これを私は、

「自分が悪魔であることに

気づいた人」

という意味ではないかと

思っています。

 

そうでなければ、

悪魔を降参させて

覚りを開いてから

(降魔成道)以後も

悪魔がしばしば現れることの

意味が説明できません。

 

このエピソードは、

覚りが修行のゴールでないことを

表しています。

 

覚りを開いてからも、

まだ悪魔がついてきている

ということは、

ブッダの修行は

まだ続いているのです。

 

むしろ、

覚ってから本当の修行が始まり、

生きることが修行になり、

オーガニックな

「学び」が続いていく。

 

つまり、ブッダが

より円熟したブッダになっていく

ということを、

彼の人生がよく示してくれていると

思うのです。

 

 

人間は、この世に生まれてくる以上、

「煩悩」(エゴ)を抱えて生きていく。

 

これを捨て去ることはできない。

 

ブッダでさえも、

「覚り」を開いたあとでさえも、

そうだった・・・

 

もちろん、

ブッダと私たちは、

次元が違う存在なので、

ひとくくりにするのは、

おこがましい気もするのですが(^^;

 

でも、

ブッダでさえも、生涯、

オーガニックな「学び」を

続けられたのかと思うと、

何だか、励まされますね(^^)

 

自分の中に確実にある「煩悩」。

 

私は、かなり煩悩まみれの身ですが、

煩悩を少しでも「自覚」して、

せめて、

あんまり振り回されないようにしたいなあ~

 

と思います(^^;

 

 

-----------------------------------------

 

 

今回も最後までお読みくださいまして、

有り難うございました😊

 

次回もこの本の紹介、

続けます(^^;

 

 

 

 

ご訪問くださいまして、

有り難うございます。

 

れっつごうです(^^)

 

脳科学者 中野信子さんの

科学がつきとめた「運のいい人」

 

 

という本の内容を、

紹介しています。

 

前回を、

簡単に振り返りますと・・・

 

「運」「不運」の機会は、

長い目で見れば、

ほぼ平等に訪れますが、

実際には、

「運のいい人」「運の悪い人」

というのはいる。

 

運のいい人は、

運をつかみ、

同時に

不運を防ぐような行動、

物事のとらえ方、

考え方をしている。

 

では、

運のいい人の

行動パターンや考え方とは、

いったい、何なのでしょうか。

 

ということを、述べました。


この本には、

その具体例が

いくつか紹介されていますが、

今回は、第一章の、

 

 

「運のいい人は

世界の中心に自分をすえる」

 

 

という考え方を、

紹介、解説いたしますね(^^)

 

「運のいい人は

いまの自分を生かす」

 

といいます。

 

むやみに、

自分を変えようとしない

というのです(^^;

 

えっ・・・

 

私たちは、

よりよく生きるために、

自分を変える努力をしますよね。

 

しかし、

そのやり方は、

実は、運をよくするという意味では、

遠回りだというのです(^^;

 

 

脳には

人それぞれ特徴があり、

それがその人の個性を

つくりあげている部分が

少なくないからです。

 

たとえば、

私たちの脳には

セロトニン、

ドーパミン、

ノルアドレナリンなどの

神経伝達物質が

存在しますが、

この量には

個人差があります。

 

 

つまり、

私たちの脳には

それぞれ個性があるので、

それをガラリとかえるのは

至難の業なんですね(^^;

 

 

そこで、

少し視点を変えて

「いまの自分を最大限に生かす」

ことを考えてみましょう。

 

いまの自分を変えるのではなく、

いまの自分を生かすのです。

 

 

なるほど~、

 

本書では、

たとえば、

怖いもの知らずの性格は、

営業や大きな金融取引の仕事に

生かせる。

 

攻撃的なタイプは、

舌戦が必要な弁護士や、

組織の中では渉外などの立場で

活躍できる。

 

とあります。

 

逆に、内気な人や、

話すのが得意でない人は、

「聞き上手」を目指して、

それが生かせる仕事や役割が、

いいかもしれません。

 

 

自分がもっている

プラスの要素はもちろん、

一見マイナスに見える要素も

自分の資質として

生かす方法を探るのです。

 

自分に与えられたものは

すべて自分の資質として

コントロールする努力を

するのです。

 

たとえば

いまの自分の状態が

世の中の基準から考えると

ちょっとズレている、

という場合でも、

自分が心地ちよいと

思う状況なら、

その状況を生かすことを

考えましょう。

 

たとえば

学校や会社に行けない人なら、

無理に行こうとするのではなく、

学校や会社に行かないがゆえに

できることを考えてみるのです。

 

自分を世間の標準に

合わせる必要はありません。

 

いちばん大切なのは自分です。

 

その自分を

最大限に生かすのです。

 

私は、

これが運のいい人になるための

絶対条件だと思っています。

 

 

そうですね~、

自分にないものを追い求めると、

それは、いわゆる、

「自己否定」につながるような気がします。

 

自分の中の

一見「マイナス」に見えることも

否定せずに受け入れる。

 

それを、個性として、

「プラス」に捉えるということですね(^^)

 

もちろん、ある程度、

弱点を克服することができれば、

それに越したことはないのですが、

それよりも、

まずは、自分の「資質」を受け入れて、

それを伸ばしていったほうが、

たしかに、よい運を捉えられる気がします。

 

時代は変わっています。

 

何が正解だか分からない時代・・・

 

だからこそ、

自分の「資質」(個性)というものを、

大切にしたいですね(^^)

 

そして、

今の自分を最大限に生かし、

運をよくするためには、

 

「自分を大切に扱う」

 

ことだといいます。

 

「他人」ではありません。

まずは「自分」を、なんです。

 

 

たとえば、

朝はいた靴下に

小さな穴が開いていることに

気づいたとします。

 

こんなとき、

運がいい人というのは

 

「今日は外で

靴を脱がないから

このまま

はいていってしまおう」

 

などとは考えません。

 

ちゃんと靴下を

はき替えるのです。

 

あるいは

ひとりで食事をするとき。

 

運がいい人は、

安易にコンビニエンスストアの

お弁当で

すませようとはしません。

 

心のこもった料理を

出してくれるレストランに

足を運ぶ、

 

または

簡単なものでも

自分で作るのです。

 

つまり、

自分を粗末にせず、

自分を大切に扱う。

 

他人を敬うのと同じように、

自分自身を敬うのです。

 

 

どきっ・・・

 

私は、めんどくさがりなので、

靴下に穴が開いていた場合、

靴を脱がない日は、

そのままはいてしまうこともありますし、

食事も無頓着で、

コンビニ弁当でもOK

(さすがに続くと嫌になりますが)

なタイプなのですが(^^;

 

でも、それだと、

たしかに、

自分の衣食住、

すなわち、

自分自身を大切にしていないことに

つながりますね(^^;

 

ではなぜ、

自分を大切に扱うことが、

運のよさにつながるのでしょうか。

 

 

その人の

運のよしあしは、

周囲の人といかに良好な

人間関係を築けるか

ということに

大きく左右されますが、

自分を大切にしている人は

ほかの人からも

大切にされるのです。

 

逆に、

自分を粗末に扱っている人は、

他人からも

粗末に扱われるように

なってしまうのです。

 

 

えっ、

どういうことでしょうか。

 

 

たとえば、

あなたの目の前に

2台の車があるとしましょう。

 

1台はピカピカに

磨かれた車で、

もう1台は汚れていて

車体に叩かれた跡がある

状態です。

 

もしあなたが

「この2台の車のうち、

どちらかを棒で

思い切り叩いてください」

 

と言われたら、

あなたはどちらの車を

叩くでしょうか。

 

おそらく多くの人が、

汚れている車を

選ぶと思います。

 

これは心理学の

 

「割れ窓理論」

(軽微な犯罪がやがて

凶悪な犯罪を生みだす

という理論)

 

でもいわれていることですが、

人にはある特定の

秩序の乱れがあると、

それに同調してしまうところが

あります。

 

たとえば

ゴミひとつ落ちていない

きれいな道に

ポイ捨てするのは

気が引けますが、

ゴミがたくさん落ちている

道の脇なら

 

「1個ぐらいなら

捨ててもまあいいか」

 

という気になる。

 

すでに秩序が

乱れている場所があると、

さらに秩序を乱すことへの

心理的抵抗が

少なくなるのです。

 

 

「割れ窓理論」

 

たしかに、

このように同調してしまうことは、

実感として、あります・・・(^^;

 

 

実は、

これと同じことが、

人に対しても起こるのです。

 

自分を大切にしている人を

粗末に扱うのは

抵抗があります。

 

しかし

自分で自分を

粗末に扱っている人には、

こちらも同じように

粗末に扱っても

いいような気がしてくる。

 

身なりのきちんとした人には

思わず敬語を

使いたくなりますが、

身なりにあまりに

無頓着な人には

その気はなかなか

起こりません。

 

つまり、

ほかの人から

大切に扱われるようにするには、

そして、

周囲の人と

良好な人間関係を築くためには、

 

まずは

自分で自分を大切にする必要が

あるのです。

 

 

なるほど~、

 

私は、なるべく人を見た目では

判断しないように心がけてはいますが、

でも、やっぱり、

きちんとしている人には、

丁重に接したくなるのが、人情ですね(^^;

 

人によく思われるためというよりも、

たとえば、身なりをキチンとすることは、

何より、自分自身を尊重すること。

 

それが、結果的に、

他人からも尊重され、

運も呼び込むことになる。

 

ナディーヌ・ロスチャイルドという、

大富豪と結婚した女優さんの言葉が、

紹介されています。

 

 

もしあなたが

ひとり暮らしなら、

部屋は常にきれいに

片づけるべきです。

 

ひとりでお茶を飲むとしても、

ふちの欠けたカップ

などではなく、

いちばん上等なカップを

使ってください。

 

家でひとりで夕食をとるなら、

帰りにお花と

おいしいデザートを

自分に買ってあげましょう

 

 

もちろん、

経済的な制約もあるので、

いつもいつも、

自分に贅沢をするわけには

いきませんが(^^;

 

でも、そんなにお金をかけなくても、

日々、自分に優しい、

丁寧な暮らしをすることはできそうです。

 

私の場合は、

入浴剤を入れて、

たまには、お風呂にの~んびり入って

心身をねぎらったり・・・

 

心を整えるには、

瞑想もおすすめです(^^)

 

部屋は汚いですが、

メガネのレンズは、

せめてマメに拭く、とか(笑)

 

 

自分を大切にすることによって、

人からも大切にされる。

 

そして、よい運を取り込むことができる。

 

自分が満たされることで、

人にも優しくできる・・・

 

好循環ですね!

 

心がけていきたいです(^^)

 

 

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以上、第一章の、

 

 

「運のいい人は

世界の中心に自分をすえる」

 

 

の中から、

私が、なるほどと感じたところを

紹介してきました。

 

この本には、他にも、

 

 

運のいい人は

「自分が運がいい」と決め込む

 

運のいい人は他人と

「共に生きること」を目指す

 

運のいい人は目標や夢を

「自分なりのしあわせのものさし」

で決める

 

運のいい人は祈る

 

 

といった、

運をよくするための有益な方法が、

一定の科学的根拠に基づき、

紹介されています。

 

脳科学者 中野信子さんの

科学がつきとめた「運のいい人」

 

 

文庫本で気軽に読めますよ!

 

運をよくしたいと思われる方には、

ご一読をおすすめまします(^^)

 

今回も、最後までお読みくださいまして、

有り難うございました😊

 

次回は、

別の本を紹介します。

 

 

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おまけ

 

まったく関係ないのですが(^^;

 

 

出張前、東京駅(丸の内)、

やっぱり立派ですなあ。

 

 

 

北陸新幹線、軽井沢付近、

車窓から浅間山パチリ!

 

雄大でした(^^)

 

 

ご訪問くださいまして、

有り難うございます。

 

れっつごうです(^^)

 

今回は、

脳科学者 中野信子さんの

科学がつきとめた「運のいい人」

 

 

という本の内容を紹介します(^^)

 

中野信子さんの本は、

今まで拝読したことがなかったのですが、


ペルソナ 脳に潜む闇

 

サイコパス

 

といった、

どきっとするような

タイトルの本を書かれていますよね(^^;

 

私はよく存じ上げないのですが、

けっこうテレビにも

多く出演されているみたいです。

 

ユーチューブを拝見すると、

穏やかに理知的に話されているのが、

印象的です。

 

で、私は、

まずは、この、

科学がつきとめた「運のいい人」

という本を読んでみることにしました。

 

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「運のいい人」

とは何か。

 

どうすれば

「運がよくなる」のか。

 

知りたいですよね(^^;

 

これにできるだけアプローチしたのが

この本です。

 

引用します。

 

 

運・不運というのは、

だれの身にも

公平に起きていて、

その運をどう生かすかに

少なくとも人は

主体的にかかわっていける、

 

というのが私の考えです。

 

 

運・不運というのは、

だれの身にも公平に起きている?

 

著者は、

ランダムウォークモデルを使って、

説明しています。

 

 

たとえば

コインを投げた時に、

表が出たらプラス1進み、

裏が出たらマイナス1進む、

と決めておきます。

 

実際にコインを

一万回投げ、

その結果を

座標軸に落とし込む、

ということをします。

 

すると、

結果が完全に

ゼロのところに落ちつく、

ということは

実はほとんど起きない。

 

およそプラスのほうに

200~300、

マイナスのほうに

200~300くらいの

結果になることが多いのです。

 

また、

1万回すべてがプラス、

あるいはマイナスということも

めったに起きません。

 

 

現象としては、

極端な差は出ないにしても、

実際は、プラスやマイナスに

少し偏ることはあるんですね(^^;

 

 

人生という

限られた期間における

目の出方は

ある程度はどちらかに

偏ってしまいます。

 

しかし、

圧倒的にマイナスだとか、

圧倒的にプラスだという人も、

存在しないといってもいくらい、

滅多にいるものではありません。

 

 

長いスパンで見れば、

どちらかが極端になるという確率は、

低いんですね(^^;

 

 

脳科学的にみると、

マイナスが

しばらく続くと不運、

プラスが続けば幸運、

ととらえてしまう特性が

人間にはあります。

 

私たちの脳には、

実際はランダムなはずなのに、

たとえば

プラスが5回続いて

出ただけで、

プラスの連続が多すぎるように

感じられる。

 

連続する事象は

もっと長く続くこともあります。

 

脳はプラスやマイナスの連続が、

偶然によって生じたに過ぎない、

ということを

なかなか受け入れることが

できないのです。

 

 

そうですね。

マイナスな出来事が、

少し連続して続いただけで、

私たちは、

 

「私の人生はなんて、

ツイていないんだ・・・」

 

「お先真っ暗・・・」

 

と、つい悲観的に

なってしまいがちですが、

 

やはり、

大きなスパンで、

運・不運は捉えたいですね(^^;

 

著者は、

そもそも、

「見えない」運・不運が

無数にあるといいます。

 

 

たとえば、

あなたがいつも

通勤に使っている道に、

100万円が入った封筒が

落ちていたとしましょう。

 

そんな日に限って、

あなたは

「今朝は早起きしたから

ひと駅分歩いていこう」

 

と考えて

いつもとは違う道を

通ったとしましょう。

 

もしあなたが

いつもの道を通っていたら、

100万円が入った封筒を

拾ったかもしれません。

 

交番に届けたところに

持ち主が現れず、

一割をちょうだいできたかも

しれない。

 

いつもと違う道を

行ってしまったために

あなたは運を逃しますが、

あなたは

その自覚はないのです。

 

(中略)

 

私たちはつい、

目に見える

運・不運だけに注目し、

「運がいい」

「運が悪い」

と言ってしまいがちです。

 

けれど、

その向こう側には

何倍、何十倍もの自覚できない、

検証できない運・不運があり、

それらを含めれば、

実はだれにでも公平に

運は降り注いでいるのです。

 

 

たしかに、そうですよね~

 

見えない運・不運を考えると、

何が幸運で何が不幸か、わからない。

 

たとえば、

仮に不幸な出来事があったとしても、

他の選択肢を取っていたら、

もっと不幸だったかもしれませんし・・・(^^;

 

でも、やっぱり、

運のいい人と悪い人は、

実感としては、いるような気がします。

 

どうしてなのでしょうか。

 

 

ごく大ざっぱにいうと、

運のいい人というのは、

だれにでも公平に降り注ぐ運を

より多くキャッチできる人、

 

また、

より多くの不運を防げる人、

 

あるいは

不運を幸運に

変えられる人でしょう。

 

(中略)

 

つまり、

運がいい人というのは

「単に運に恵まれている」

というわけではなく、

運をつかみ、

同時に

不運を防ぐような行動、

物事のとらえ方、

考え方をしているのです

 

(運の悪い人は、

これとは逆の行動パターンや

考え方をもっています)

 

 

運のいい人は、

運をつかみ、

同時に

不運を防ぐような行動、

物事のとらえ方、

考え方をしている・・・

 

たしかに、分かる気がします(^^)

 

では、

運のいい人の行動パターンや

考え方とは、

いったい、どういったものなのでしょうか。

 

 

たとえば、

運がいいといわれる人たちは、

みな、

いろいろな意味で

自分を大切にしています。

 

常識や世間一般の

平均的な考え方に

流されることなく

自分の価値観を大切にして、

自分をていねいに

扱っています。

 

また、

他者を思いやる気持ちも

人一倍もっています。

 

どんなときも

ひとり勝ちしようとせず、

他者のために、

そして

他者と共に生きることを

めざしています。

 

総じていうなら、

よりよく生きている―。

 

逆にいえば、

よりよく生きているからこそ、

運も彼らの味方をするのでしょう。

 

 

自分を大切にする・・・

他者を思いやる・・・

 

たしかに、

そういった人には、

運も味方をするのかもしれません。

 

この本には、

運をよくする行動パターンや考え方が、

具体的に紹介されていますので、

その中で、私が印象に残ったところを、

次回から、紹介・解説していきますね。

 

今回も、

最後までお読みくださいまして、

有り難うございました😊

 

 

ご訪問くださいまして、

有り難うございます。

 

れっつごうです(^^)

 

思想家、内田樹さんの新刊

コロナ後の世界

 

 

の中から、

私の印象に残ったところを、

紹介・解説しています。

 

今回で、この本の紹介は、

最終回です(^^;

 

今回のテーマは、

 

 

「反知性的とは何か」

 

 

です。

 

「反知性的」といっても、

いわゆる「無学」や「精神論」

というわけではないんですね。

 

むしろ、

「反知性的」というのは、

いわゆる知識人に多いというのです(^^;

 

どういうことでしょうか。

 

ロラン・バルトさんの説を引用して、

内田樹さんはこう述べます。

 

 

無知とは

知識の欠如ではなく、

知識に飽和されているせいで

未知のものを

受け容れることが

できなくなった状態を言う。

 

実感としてよくわかる。

 

「自分はそれについては

よく知らない」

と涼しく認める人は

「自説に固執する」

ということがない。

 

他人の言うことを

とりあえず黙って聴く。

 

聴いて

「得心がいったか」

「腑に落ちたか」

「気持ちが片付いたか」

どうかを

自分の内側をみつめて

判断する。

 

そのような

身体反応を以て

さしあたり理非の判断に

代えることができる人を

私は「知性的な人」

だとみなすことにしている。

 

その人においては

知性が活発に

機能しているように

私には思われる。

 

そのような人たちは

単に新たな知識や情報を

加算しているのではなく、

 

自分の知的な枠組み

そのものを

そのつど作り替えている

 

からである。

 

知性とは

そういう知の自己刷新

のことを言うのだろうと

私は思っている。

 

 

なるほど~

 

「無知の知」

とソクラテスもいっていますよね。

 

自説に固執するわけでなく、

新たな知識を加算するだけでなく、

 

自分の知的な枠組み

そのものを

そのつど作り替えられる人

 

そういった頭が柔軟な人は、

たしかに、「知性的」な感じがします。

 

では、

反知性的とは?

 

 

反知性主義者たちは

しばしば恐ろしいほどに

物知りである。

 

一つのトピックスについて、

手持ちの合切袋から、

自説を基礎づけるデータや

エビデンスや統計数値を

いくらでも

取り出すことができる。

 

けれども、

それをいくら聴かされても、

私たちの気持ちは

あまり晴れることがないし、

開放感を覚えることもない。

 

というのは、

 

この人は

当該の論件についての正解を

すでに知っている

 

からである。

 

 

つまり、

この人にとっての、

確固とした「真理」や「信念」がまずあって、

知識やエビデンスは、

それを「正当化」するための

手段にすぎないということですね。

 

 

正解をすでに知っている以上、

彼らはことの理非の判断を

他の人に委ねる気がない。

 

「あなたが同意しようとしまいと、

私の語ることの真理性は

いささかも揺らがない」

 

というのが

反知性主義者の

基本的なマナーである。

 

「あなたの同意が

得られないようであれば、

もう一度勉強して出直してきます」

 

というようなことは

残念ながら反知性主義者は

決して言ってくれない。

 

彼らは、

 

「理非の判断は

すでに済んでいる。

 

あなたに代わって私が

もう判断を済ませた。

 

だから、

あなたが何を考えようと、

何を言おうと、

それは私の主張の真理性に

何の影響も及ぼさない」

 

と私たちに告げる。

 

そして、

そのような言葉は確実に

「呪い」として機能し始める。

 

というのは、

そういうことを耳元で

うるさく言われているうちに、

こちらの生きる力が

しだいに衰弱してくるからである。

 

「あなたが何を考えようと、

何をどう判断しようと、

それは理非の判定に関与しない」

 

ということは、

 

「あなたには

生きている理由がない」

 

と告げているに

等しいからである。

 

 

どきっ・・・

 

部下のやる気をそいでしまう管理職って、

いますよね。

 

自分の考えが絶対だと考えて、

部下の話を聞かずに、

あくまで自説を押し付ける上司・・・

 

(私も気をつけねば(^^;)

 

こういった、

「反知性主義」は、

自分の無知や弱さ、

至らなさを受け入れるのが怖いという、

いわゆる、

 

「怖れ」

 

から来ているものだと推察しますが、

これは、

カウンセラーにもいえることだと思います。

 

「心の学び」を深めると、

ついつい、

人の心のしくみが、

すべてわかったような気に

なってしまいがちです。

 

いわゆる、

「神の視点」

に立ってしまうんですね。

 

クライアントに対して、

たとえば、

「この人は、自己愛の傷つきがあるな」

「この人は、認知の歪みが大きいな」

 

と決めつけて、

つい、そのような限定的な見方をしてしまう。

 

わかったつもりになってしまう。

 

U理論で有名な、

オットー・シャーマーさんの

「ダウンローディング」

というやつですね。

 

もちろん、いわゆる、

「仮説」や「見立て」は必要なのですが、

自分は、相手が気づいていないことまで、

すべてわかっているという態度は、

傲慢ですし、

何より、

本来、相手の中に眠っている、

「力」を奪うことになると思います・・・

 

 

ちょっと、カウンセリングの話に

それてしまいましたが、

 

引用に戻ります(^^;

 

 

知性は

個人に属するものというより

集団的に働くものだと

私は考えている。

 

人間は集団として

情報を探り入れ、

その重要度を衡量(こうりょう)し、

その意味することについて

仮説を立て、

それにどう対処すべきか

についての合意形成を行う。

 

その力動的プロセス全体を

活気づけ、

駆動させる力の全体を

 

「知性」

 

と呼びたいと

思うのである。

 

ある人の話を

聴いているうちに、

 

ずっと忘れていた

昔のできごとを

ふと思い出したり、

 

しばらく音信のなかった人に

手紙を書きたくなったり、

 

凝った料理が作りたくなったり、

 

家の掃除がしたくなったり、

 

たまっていたアイロンがけを

したくなったりしたら、

 

それは

知性が活性化したことの

具体的な徴候である。

 

「それまで

思いつかなかったことが

不意にしたくなる」

 

というかたちでの影響を

周囲にいる他者たちに

及ぼす力のことを

私は知性と呼びたいと思う。

 

(中略)

 

その人がいることによって、

その人の発言や

ふるまいによって、

彼の属する集団全体の

知的パフォーマンスが、

彼のいない場合よりも

高まった場合に、

事後的にその人は

 

「知性的」な人物だった

 

と判定されるのである。

 

 

なるほど~

 

「それまで

思いつかなかったことが

不意にしたくなる」

というかたちで影響を及ぼす力のことを、

「知性」という。

 

意外とありそうでない定義ですが、

なるほどです(^^)

 

いってみれば、

「知性的なリーダーシップ」

ともいえるかもしれません。

 

 

個人的な知的能力は

ずいぶん高いようだが、

その人がいるせいで

周囲から笑いが消え、

疑心暗鬼が生じ、

勤労意欲が低下し、

誰も創意工夫の

提案をしなくなる

というようなことは、

現実にしばしば起こる。

 

きわめて頻繁に起こる。

 

その人が活発に

ご本人の「知力」を

発動しているせいで、

彼の所属する集団全体の

知的パフォーマンスが

下がってしまう場合、

私はそういう人を

 

「反知性的」

 

とみなすことにしている。

 

これまでのところ、

この基準を適用して

人物鑑定を過ったことはない。

 

 

これは、

人に影響を及ぼす立場の人、

いや、

(人は皆、お互い影響を

与え合っているのですから)

すべての人に当てはまることだと思います。

 

自分の考えを正当化するためだけに、

知識を増やすのではなく、

集団の人が、

「よりよく生きる」ために、それを使う。

 

たとえば、

このブログも、そのような形で、

本から私が学んだ知恵を、

「知性的」に、

皆さんとシェアしていきたいと考えています😊

 

「反知性的」な落とし穴に

陥らないように(^^;

 

自戒の意味を込めて・・・

 

 

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以上、

思想家、内田樹さんの新刊

コロナ後の世界

 

の内容で、私の印象に残ったところを、

3回にわたって紹介・解説してきました。

 

他にも、示唆に富む、

「本質的」な内容が

盛りだくさんの本です。

 

今後の私たちの生き方を考えるうえでも、

参考になると思います。

 

興味のある方は、

是非、ご一読ください!

 

今回も最後までお読みくださいまして、

有り難うございました(^^)

 

次回は、別の本を

紹介します。

 

 

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おまけです(^^;

 

 

山中湖、大平山山頂から

 

雲が取れて、富士山の頂がひょっこり現れました(^^)

 

 

 

湖畔にいくと、

白鳥がたくさんいましたよ!

(猫みたいに、毛づくろいしていました)

 

 

ご訪問くださいまして、

有り難うございます。

 

れっつごうです(^^)

 

前回から、

思想家、内田樹さんの新刊

コロナ後の世界

 

 

の内容で、

私が印象に残ったところを

紹介しています(^^)

 

この本、

タイトルは、

「コロナ後~」とありますが、

表面的に、コロナがどうのこうのというよりも、

本質的に、今の日本の課題が何なのか?

 

ということが語られています。

 

その中で、

どきっとするタイトルの文章があります。

 

 

「生きている気」が

しなくなる国

 

 

「生きている気がしなくなる・・・」

どういうことでしょうか?

 

 

(日本は)

これだけの国力がありながら

誰も日本にリーダーシップを

求めていない。

 

そのことに、

われわれはもっと

驚くべきだと思う。

 

どうして国際社会は

日本にリーダーシップを

求めないのか?

 

それは日本人は

「倫理的インテグリティ

(廉直、誠実、高潔)」

というものに

価値を見い出さない国民だと

思われているからである。

 

そして、

倫理的なインテグリティを

重んじないと

思われている国は、

いくら金があろうとも

(もうあまりないが)、

いくら軍事力を誇ろうとも、

いくら「日本スゴイ」と

自ら言い募っても、

誰からも真率な敬意を

示されることがない。

 

 

「インテグリティ」

(廉直、誠実、高潔)

 

最近、企業の経営や組織マネジメントでも、

よく言われるようになってきた言葉ですが、

本来、これって、

日本人の強みのはずですよね。

 

今、よくTVでやっていますが、

日本大好き外国人も多いようですし、

海外で活躍している日本人に対しては、

このようなイメージ(廉直、誠実、高潔)

を抱いている人も

多いような気がします。

 

しかし、

私も含めて、

周りを見渡すと、

「インテグリティ」な人が

どれだけいるかといえば・・・

 

う~ん、あまりいないような(^^;

 

一昔前の多くの日本人には

あったであろう、

廉直、誠実、高潔という美徳は、

かなり失われているのが

今の日本の現実だと感じます。

 

 

あまり言う人がいないが、

人間は他者からの敬意を

糧にして生きる存在である。

 

それなしでも

生物として生きることは

できるけれど、

人間としては生きている

甲斐がない。

 

だから、

他者からの敬意を

獲得するために、

人間は日々

さまざまな工夫をし、

さまざまな「瘦せ我慢」を

しているのである。

 

けれども、

日本はいつのまにか

「他者からの真率な敬意」

を国際社会の誰からも

寄せられない国になった。

 

だから、

日本人はゆっくりと、

「生きている気」

がしなくなりつつある。

 

それが

「国が衰弱している」

ということである。

 

 

「人間は他者からの敬意を

糧にして生きる存在」

 

なるほど・・・

 

たしかに、

人にはそういう面が

あるような気がします。

 

 

国が倫理的な

インテグリティを持つとき、

国民もそれを文有する。

 

国が高邁な

理想を掲げているときには

(仮にそれが

かなりの部分まで

勘違いであったとしても)、

国民はその国の

一員であることを

誇らしく思う。

 

国が英雄的に

その歴史的使命を

果たしているときには、

国民もまた

自分も個人的に

英雄的にふるまうべきだという

可憐な気負いを覚える。

 

独立戦争の時のアメリカも、

ナポレオン時代のフランスも、

レーニンのソ連も、

(短期的にではあったけれど)

国民たちが

おのれの個人的運命と

国家の運命がリンクしていると

信じていた。

 

そして、

そのような「関係妄想」が

市民のうちに

深く根づいているとき、

その国は強い。

 

軍事的にも強いし、

経済的にも勢いがあるし、

文化的発信力もある。

 

 

たしかに、

独立戦争時のアメリカや

ナポレオン時代のフランスには、

「自分も個人的に

英雄的にふるまうべきだ!」

と感じていた国民が

多かったかもしれないですね。

 

日本でいえば、

幕末から明治時代にかけてでしょうか。

 

司馬遼太郎さんが

おっしゃっていたことですね。

 

もちろん、それは、

時代を美化しすぎているところもあって、

私は、必ずしも、

明治時代のほとんどの人たちが、

国に誇りを持っていたとは

思わないのですが、

 

しかし、

現代の日本と比較すれば、

少なくとも、

明治時代の方が、

インテグリティ(廉直、誠実、高潔)

を持っていた人の割合は

断然、高かったと思います。

 

 

それとは逆に、

国民の多くが

 

「私の個人的努力の目標は

あくまで

自己利益の増大であり、

私の努力が

国力増大に結びつくような

回路は存在しない」

 

という白けた気分でいるときに、

国全体のパフォーマンスは

下がる。

 

国際社会から侮られ、

経済活動は低迷し、

イノベーションも起きない。

 

日本は今

そういう国になった。

 

 

「私の個人的努力の目標は

あくまで、自己利益の増大・・・」

 

う~ん・・・

 

今は、落ち着いていますが、

パンデミックの波が

またいつくるのかわからない

不安定な時代。

 

人生100年時代。

といっても、

老後資金が最低2000万円かかる・・・

(ほんとうか?)

 

本来、喜ぶべきはずの長寿時代なのに、

不安のほうが多い。

 

それが、

私たちの現実ではないでしょうか。

 

今は、サバイバルの時代、

まずは、自分の保身。

 

生き残ること。

 

そう考えると、

個人が、自己利益の増大を図るのは、

無理もないのでは・・・

 

そうやって、

自己弁護している自分がいます(^^;

 

ただ、

それだけで、いいのだろうか。

 

自分の人生を充実させるためにも、

やはり、

インテグリティ(廉直、誠実、高潔)

を抱くことも、

必要なのではないか。

 

もちろん、

自分が満たされていなければ、

他人を満たすことはできません。

 

まずは、自分を満たすことが第一です。

 

それに、

個人よりも、まず国家(政治家)が、

範を示すべきではないかという

考えもあります。

(たしかに)

 

しかし、

その前に、個人が、

できことがあるのではないか。

 

身近な人、

たとえば、私の場合、

妻、同僚、部下、取引先、

学びの仲間、友人知人に対して、

はたして、

インテグリティ(廉直、誠実、高潔)

を少しでも示しているだろうか。

 

時には、

自分の利益だけでなく、

「瘦せ我慢」というのも、

あっていいのではないか。

 

それが、ひいては、

自分自身の成長にも、

繋がるのではないか・・・

 

そんなことを、

秋の夜長に考えました(^^;

 

 

 

今回も最後までお読みくださいまして、

有り難うございました😊

 

次回もこの本、続けます。

 

 

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仕事で札幌に出張しました。

二十数年ぶりの、札幌時計台!

(といっても、夜、通り過ぎただけですが(^^;)

 

意外と小さいけど、かわいらしくて素敵でした😊