ご訪問くださいまして、
有り難うございます。
れっつごうです(^^)
今回は、久しぶりに、
仏教の本の紹介です。
曹洞宗の僧侶、
藤田一照さんの、
という本を紹介します。
著者の、
藤田一照さんは、
灘高→東大→東大大学院と、
学問超エリート街道を歩まれてきた方ですが、
28歳の時に、禅道場に入山し、
得度されたんですね。
その後、アメリカで、坐禅指導、
何と、スターバックス社やフェイスブック社でも、
坐禅を指導されたこともある、
世界的な禅の指導者です。
この本は、
仏教の基礎知識というよりも、
仏教的な「学び方」が解説されています。
では、仏教的な学びとは、
何なのでしょうか。
著者いわく、
「ブッダのように愉快に生きること」
だといいます(^^)
別の言い方をすると、
「赤ちゃんの学び」です(^^)
仏教の「学び」は、
学校の授業のような
「学び」とは
様相が異なります。
たとえるなら、
学校に行く前の、
赤ちゃんの「学び」です。
生まれたばかりの
赤ちゃんは、
好奇心を持って
周囲の物事に触れるうちに、
いろいろなことを
自然に身につけて
いきますよね。
本人に
学びという意識が
あるわけではなく、
周りの大人も
特別に何かを教えようとは
思っていません。
それでも二歳くらいまでに、
いつのまにか歩いたり話したり
するようになります。
遊んでいるように見えるけど、
そこに深い学びが
自然に起きているからです。
すべての活動が
学びになっていて、
すべての体験が
赤ちゃんを変えていきます。
いつどこで学んだのかは
本人にもわからないけど、
周りとの交流全体から
自然に何かが学ばれていく。
このような学びを私は
「オーガニック・ラーニング」
と呼んでいます。
なるほど~
「オーガニック・ラーニング」
学問としての学びだけでなく、
日々の生活の中での、
「体験」から「学ぶ」ということでしょうか。
実際、ブッダも、
オーガニックな学びをされたということが、
ブッダの人生とともに、
この本に解説されています。
ブッダは王子として生まれ、
何不自由なく成長しますが、
やがて、人生は、
「老・病・死」の苦しみから避けられない
ということに気づかれ、
出家の道を歩みます。
途中、「苦行」にも取り組まれますが、
そのような、
意志によるコントロールでは、
何も解決しないということが分かり、
その後、菩提樹の下で、
「覚り」を開かれます。
この本で、私が印象的だったのは、
ブッダが、「覚り」を開かれた後にも、
「悪魔」が何度も現れるというところです。
「覚り」を開いたのに・・・
いったい、なぜなのでしょうか。
ブッダは、
私たちとはまったく違う超人に
生まれ変わったのでしょうか。
いいえ、
そうではありません。
その証拠に、
覚りを開いた彼の前に、
そのあと何度も、
「悪魔」が現れるのです。
悪魔は
ブッダが城を出てからずっと
彼の後をつけていましたが、
姿を現したのは
ブッダが初めて菩提樹下で
座ったときでした。
ブッダが瞑想や苦行を
一生懸命やっているときに
現れなかったのに、です。
それはいったい
なぜなのでしょう?
ブッダが瞑想や苦行を
している間は、
悪魔は安心して
見ていられたのです。
しかし、
彼が樹下の打坐をしたときには
「いかん、このままだと
こいつは俺の手に負えない
人間になってしまう。
これはどうしても
邪魔しなければ!」
と焦ったからこそ、
出てきたのでしょう。
それくらい、
樹下の打坐は
それまでの瞑想や苦行とは
質的に違いがあったのです。
悪魔の執拗な妨害を乗り越えて
覚りを開いたあとも、
悪魔は繰り返しブッダの前に
現れます。
それは、
ブッダが
「悪魔と出会わない超人」
ではなく
「悪魔ときちんと出会える人間」
だったからです。
「覚り」を開く前ではなく、
開いた後にこそ、悪魔が現れる。
いってみれば、
「覚り」を開く前は、
自分の中に悪魔がいることに
気づかなかった、
言い換えれば、
悪魔に乗っ取られていたんですね(^^;
悪魔というのは、
人間を道から
踏み外させる衝動、
いわゆる煩悩のことです。
それを「悪魔」と
神話的に表現しているのです。
なるほど~、
「悪魔」とは、
「煩悩」(エゴ)のたとえなんですね。
ブッダといえども、
人から非難されれば、
ムカッときそうなことも
あるでしょう。
逆に、
人にかしずかれたときは、
傲慢な気持ちが
湧きそうになるかもしれません。
悪魔が現れるというのは、
そういう微細な煩悩の動きに
「気づける」
ということです。
人間であれば、
誰でも自分の中に
悪魔がいます。
ブッダも同じです。
しかし、
「目覚めた人」
でない私たちは、
そのことに気づけません。
気づかずに
悪魔に操られているので、
悪魔と「出会う」ことすら
できないのです。
樹下に打坐するまでは、
ブッダも内なる悪魔と
「出会う」ことは
できませんでした。
人間であれば
誰でも自分の中に
悪魔(=煩悩)がいる。
しかし、
それになかなか気づくことができない。
親鸞の歎異抄で有名な、
「善人なおもて往生をとぐ、
いわんや悪人をや」
(訳:善人ですら、
阿弥陀さまの本願によって、
真実の生き方に
目覚めることができるのだから、
まして悪人はなおさらです。
・金山秋男氏訳)
を想起しました。
この場合の「悪人」とは、
「自分の煩悩を自覚している人」
という意味だと捉えます。
つまり、
「覚る」とは、
「自分の煩悩を自覚すること」
なんですね。
シッダールタが
「ブッダ」になってからも、
悪魔はさまざまに姿を変え、
言葉を替えて、
繰り返し彼を
篭絡しようとします。
しかし、
ブッダはいつも冷静に
「悪しきものよ」
と悪魔に語りかけ、
「私はお前が悪魔だと
知っているよ」
と応じます。
(中略)
ブッダは、
悪魔を悪魔だと知っている
人でした。
それは、
「私が悪魔である」
と知っているということです。
「ブッダが悪魔である」
というのは、
何とも過激な表現のようにも
聞こえますが、
でも、この悪魔というのは
煩悩のことだと捉えれば、
あながち、おかしくはないと思います。
ブッダでさえ、煩悩はあった。
しかし、ブッダが偉大なのは、
それをしっかり
「自覚」されていたところですね。
ブッダが悪魔と出会えるのは、
煩悩に乗っ取られそうな自分に
気づけるからです。
気づけるから、
心を乱されずに
踏みとどまることができるのです。
ここが、
煩悩に振り回され、
そのことを自覚すらできない
私たちと違うところです。
「ブッダ」の漢訳語は
「覚者(目覚めた人)」です。
これを私は、
「自分が悪魔であることに
気づいた人」
という意味ではないかと
思っています。
そうでなければ、
悪魔を降参させて
覚りを開いてから
(降魔成道)以後も
悪魔がしばしば現れることの
意味が説明できません。
このエピソードは、
覚りが修行のゴールでないことを
表しています。
覚りを開いてからも、
まだ悪魔がついてきている
ということは、
ブッダの修行は
まだ続いているのです。
むしろ、
覚ってから本当の修行が始まり、
生きることが修行になり、
オーガニックな
「学び」が続いていく。
つまり、ブッダが
より円熟したブッダになっていく
ということを、
彼の人生がよく示してくれていると
思うのです。
人間は、この世に生まれてくる以上、
「煩悩」(エゴ)を抱えて生きていく。
これを捨て去ることはできない。
ブッダでさえも、
「覚り」を開いたあとでさえも、
そうだった・・・
もちろん、
ブッダと私たちは、
次元が違う存在なので、
ひとくくりにするのは、
おこがましい気もするのですが(^^;
でも、
ブッダでさえも、生涯、
オーガニックな「学び」を
続けられたのかと思うと、
何だか、励まされますね(^^)
自分の中に確実にある「煩悩」。
私は、かなり煩悩まみれの身ですが、
煩悩を少しでも「自覚」して、
せめて、
あんまり振り回されないようにしたいなあ~
と思います(^^;
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今回も最後までお読みくださいまして、
有り難うございました😊
次回もこの本の紹介、
続けます(^^;







