ご訪問くださいまして、
有り難うございます。
れっつごうです(^^)
思想家、内田樹さんの新刊
の中から、
私の印象に残ったところを、
紹介・解説しています。
今回で、この本の紹介は、
最終回です(^^;
今回のテーマは、
「反知性的とは何か」
です。
「反知性的」といっても、
いわゆる「無学」や「精神論」
というわけではないんですね。
むしろ、
「反知性的」というのは、
いわゆる知識人に多いというのです(^^;
どういうことでしょうか。
ロラン・バルトさんの説を引用して、
内田樹さんはこう述べます。
無知とは
知識の欠如ではなく、
知識に飽和されているせいで
未知のものを
受け容れることが
できなくなった状態を言う。
実感としてよくわかる。
「自分はそれについては
よく知らない」
と涼しく認める人は
「自説に固執する」
ということがない。
他人の言うことを
とりあえず黙って聴く。
聴いて
「得心がいったか」
「腑に落ちたか」
「気持ちが片付いたか」
どうかを
自分の内側をみつめて
判断する。
そのような
身体反応を以て
さしあたり理非の判断に
代えることができる人を
私は「知性的な人」
だとみなすことにしている。
その人においては
知性が活発に
機能しているように
私には思われる。
そのような人たちは
単に新たな知識や情報を
加算しているのではなく、
自分の知的な枠組み
そのものを
そのつど作り替えている
からである。
知性とは
そういう知の自己刷新
のことを言うのだろうと
私は思っている。
なるほど~
「無知の知」
とソクラテスもいっていますよね。
自説に固執するわけでなく、
新たな知識を加算するだけでなく、
自分の知的な枠組み
そのものを
そのつど作り替えられる人
そういった頭が柔軟な人は、
たしかに、「知性的」な感じがします。
では、
反知性的とは?
反知性主義者たちは
しばしば恐ろしいほどに
物知りである。
一つのトピックスについて、
手持ちの合切袋から、
自説を基礎づけるデータや
エビデンスや統計数値を
いくらでも
取り出すことができる。
けれども、
それをいくら聴かされても、
私たちの気持ちは
あまり晴れることがないし、
開放感を覚えることもない。
というのは、
この人は
当該の論件についての正解を
すでに知っている
からである。
つまり、
この人にとっての、
確固とした「真理」や「信念」がまずあって、
知識やエビデンスは、
それを「正当化」するための
手段にすぎないということですね。
正解をすでに知っている以上、
彼らはことの理非の判断を
他の人に委ねる気がない。
「あなたが同意しようとしまいと、
私の語ることの真理性は
いささかも揺らがない」
というのが
反知性主義者の
基本的なマナーである。
「あなたの同意が
得られないようであれば、
もう一度勉強して出直してきます」
というようなことは
残念ながら反知性主義者は
決して言ってくれない。
彼らは、
「理非の判断は
すでに済んでいる。
あなたに代わって私が
もう判断を済ませた。
だから、
あなたが何を考えようと、
何を言おうと、
それは私の主張の真理性に
何の影響も及ぼさない」
と私たちに告げる。
そして、
そのような言葉は確実に
「呪い」として機能し始める。
というのは、
そういうことを耳元で
うるさく言われているうちに、
こちらの生きる力が
しだいに衰弱してくるからである。
「あなたが何を考えようと、
何をどう判断しようと、
それは理非の判定に関与しない」
ということは、
「あなたには
生きている理由がない」
と告げているに
等しいからである。
どきっ・・・
部下のやる気をそいでしまう管理職って、
いますよね。
自分の考えが絶対だと考えて、
部下の話を聞かずに、
あくまで自説を押し付ける上司・・・
(私も気をつけねば(^^;)
こういった、
「反知性主義」は、
自分の無知や弱さ、
至らなさを受け入れるのが怖いという、
いわゆる、
「怖れ」
から来ているものだと推察しますが、
これは、
カウンセラーにもいえることだと思います。
「心の学び」を深めると、
ついつい、
人の心のしくみが、
すべてわかったような気に
なってしまいがちです。
いわゆる、
「神の視点」
に立ってしまうんですね。
クライアントに対して、
たとえば、
「この人は、自己愛の傷つきがあるな」
「この人は、認知の歪みが大きいな」
と決めつけて、
つい、そのような限定的な見方をしてしまう。
わかったつもりになってしまう。
U理論で有名な、
オットー・シャーマーさんの
「ダウンローディング」
というやつですね。
もちろん、いわゆる、
「仮説」や「見立て」は必要なのですが、
自分は、相手が気づいていないことまで、
すべてわかっているという態度は、
傲慢ですし、
何より、
本来、相手の中に眠っている、
「力」を奪うことになると思います・・・
ちょっと、カウンセリングの話に
それてしまいましたが、
引用に戻ります(^^;
知性は
個人に属するものというより
集団的に働くものだと
私は考えている。
人間は集団として
情報を探り入れ、
その重要度を衡量(こうりょう)し、
その意味することについて
仮説を立て、
それにどう対処すべきか
についての合意形成を行う。
その力動的プロセス全体を
活気づけ、
駆動させる力の全体を
「知性」
と呼びたいと
思うのである。
ある人の話を
聴いているうちに、
ずっと忘れていた
昔のできごとを
ふと思い出したり、
しばらく音信のなかった人に
手紙を書きたくなったり、
凝った料理が作りたくなったり、
家の掃除がしたくなったり、
たまっていたアイロンがけを
したくなったりしたら、
それは
知性が活性化したことの
具体的な徴候である。
「それまで
思いつかなかったことが
不意にしたくなる」
というかたちでの影響を
周囲にいる他者たちに
及ぼす力のことを
私は知性と呼びたいと思う。
(中略)
その人がいることによって、
その人の発言や
ふるまいによって、
彼の属する集団全体の
知的パフォーマンスが、
彼のいない場合よりも
高まった場合に、
事後的にその人は
「知性的」な人物だった
と判定されるのである。
なるほど~
「それまで
思いつかなかったことが
不意にしたくなる」
というかたちで影響を及ぼす力のことを、
「知性」という。
意外とありそうでない定義ですが、
なるほどです(^^)
いってみれば、
「知性的なリーダーシップ」
ともいえるかもしれません。
個人的な知的能力は
ずいぶん高いようだが、
その人がいるせいで
周囲から笑いが消え、
疑心暗鬼が生じ、
勤労意欲が低下し、
誰も創意工夫の
提案をしなくなる
というようなことは、
現実にしばしば起こる。
きわめて頻繁に起こる。
その人が活発に
ご本人の「知力」を
発動しているせいで、
彼の所属する集団全体の
知的パフォーマンスが
下がってしまう場合、
私はそういう人を
「反知性的」
とみなすことにしている。
これまでのところ、
この基準を適用して
人物鑑定を過ったことはない。
これは、
人に影響を及ぼす立場の人、
いや、
(人は皆、お互い影響を
与え合っているのですから)
すべての人に当てはまることだと思います。
自分の考えを正当化するためだけに、
知識を増やすのではなく、
集団の人が、
「よりよく生きる」ために、それを使う。
たとえば、
このブログも、そのような形で、
本から私が学んだ知恵を、
「知性的」に、
皆さんとシェアしていきたいと考えています😊
「反知性的」な落とし穴に
陥らないように(^^;
自戒の意味を込めて・・・
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以上、
思想家、内田樹さんの新刊
の内容で、私の印象に残ったところを、
3回にわたって紹介・解説してきました。
他にも、示唆に富む、
「本質的」な内容が
盛りだくさんの本です。
今後の私たちの生き方を考えるうえでも、
参考になると思います。
興味のある方は、
是非、ご一読ください!
今回も最後までお読みくださいまして、
有り難うございました(^^)
次回は、別の本を
紹介します。
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おまけです(^^;
山中湖、大平山山頂から
雲が取れて、富士山の頂がひょっこり現れました(^^)
湖畔にいくと、
白鳥がたくさんいましたよ!
(猫みたいに、毛づくろいしていました)


