ご訪問くださいまして、
有り難うございます。
れっつごうです(^^)
今回は、
思想家、内田樹さんの新刊
という本から、
私が印象に残ったところを、
紹介します。
この本、
今週に発売されたばかりの新刊ですが、
内容は、今までのブログ記事などの
「ありもの」をまとめたものになります。
でも、原型をとどめないほど
加筆されているようです(^^)
私、内田樹さんの新刊を読むのは、
けっこう久しぶりなのですが、
相変わらず「内田節」の炸裂で、
「そうだ、そうだ」
と同意するところが多かったです。
タイトルは、
「コロナ後の世界」
と時事的なものになっていますが、
なかなか本質的なところを突かれていると
感じました。
「まえがき」が、
とてもいいです(^^)
僕は
今の日本社会を見ていて、
正直「怖い」と思うのは、
人びとがしだいに
「不寛容」になっているような
気がすることです。
言葉が尖っているのです。
うかつに触れると
すぐに皮膚が切り裂かれて、
傷が残るような
「尖った言葉」
が行き交っている。
だから、
傷つけられることを警戒して、
みんな身を固くしている。
あるいは、
自分の言葉の切れ味が
どれくらいよいか知ろうとして、
「刃」に指を当てて、
嗜虐的な気分になっている。
「不寛容」
「尖った言葉」・・・
たしかに、特にコロナ禍の中で、
それは顕著になったように感じますが、
よく考えると、
ここ数年前から、
その傾向はあるような気がします。
コロナ禍によって、
それが顕在化したのだと思います。
僕は物事の適否を
「それをすることによって、
集団として生きる
知恵と力が高まるか?」
ということを
基準にして判断しています。
もちろん、
その言明が
「正しいか正しくないか」
ということを知るのも
大切ですけれど、
僕はそれ以上に
「それを言うことによって、
あなたはどのような
『よきもの』
をもたらしたいのか?」
ということが
気になるのです。
言っている言葉の内容は
非の打ちどころがないけれど、
その言葉が口にされ、
耳にされ、
皮膚の中に
浸み込むことによって、
周りの人たちの
生きる意欲が失せ、
知恵が回らなくなるのだとしたら、
その言葉を発する人には
それについての
「加害責任」を感じて欲しい。
そうですね・・・
その言葉を発する人とは、
悪い意味での
「評論家タイプ」
ということでしょうか。
おかげさまで、
今の私の身近では、
そのような人は
あまりいない感じですが、
やはり、(特に)
ネットや匿名の世界では、
いらっしゃいますよね(^^;
私自身、
そういった言動に、
思わず惹きつけられてしまうことも、
正直、あるのですが(^^;
みんながちょっとずつ
「貧者の一灯」
を持ち寄って、
それを
パブリック・ドメインに
供託して、
「塵も積もれば山」
をめざすという方が
「すべてのリソースを
正しい目的の
ためだけに用いる」
ことをめざすより
話が早いんじゃないか。
そう思っているのです。
「世の中を少しでも
住みやすくする」
事業においては、
「仲間を増やす」
ということが一番大切です。
自分と多少意見が
違っている人についても、
「まあ、そういう考え方も
あるかもしれないなあ」
と思って、
成否の判断を急がない。
中腰で少し耐える。
(あまり長くは無理ですけど)
そして、
どこかに
「取り付く島」
があったら、
それを頼りに
対話を試みる。
そうですね~、
正しさに固執して、
結局、身動きが取れなくなるよりも、
とにかく、
今、自分ができること、
すなわち、
「よきもの」
を皆で持ち寄る。
天台宗、比叡山を開いた
最澄さんの有名な、
「一隅を照らす、
これすなわち国宝なり」
(それぞれの立場で
精一杯努力する人はみんな、
何者にも代えがたい
大事な国の宝だ)
という言葉を想起します(^^)
多少、意見が違っても、
まずは、
「中腰で少し耐える」
そして、
取り付く島があれば、
そこで対話を試みる。
「中腰で少し耐える」
という表現が、
言い得て妙だと思いますが(^^;
ちょっときつくても、
すぐに決めつけをしないで、
中腰の姿勢を保つ。
大事ですね。
今よく
「ダイバーシティ
&インクルージョン」
という標語を聞きます。
「多様性と包摂」。
もちろん、
すてきな目標です。
ぜんぜん悪くない。
でも、これって、
微妙に
「上から目線」
だと思いませんか。
つまり、
「多様性を認めよう」
と言っている人って、
自分はその集団における
「正系」に属しており、
「メンバーシップ」
を確保しており、
「俺たちとは
ちょっと毛色の違ったのが
何人かいてもいい」
というニュアンスを
漂わせている。
「包摂」もそうですよね。
「他者や異物を包摂しよう」
という人って、
「包摂する側」に
はじめから立っている。
なるほど・・・
自分は、多数派で、
安全地帯にいるという自覚。
すなわち、余裕がある立場だから、
「多様性と包摂」
などといえる・・・
う~ん、
私自身も、
そうかもしれません(^^;
鋭い指摘ですね。
内田樹さんは、
それでも、
「上等」だとおっしゃっていますが、
ただ、
「上等」にも「その上」がある。
それは、何なのでしょうか。
言葉が平凡すぎて
脱力しそうですけれど、
「親切」です。
「人に親切にする」
ということは、
相手より立場が上でなくても、
集団のフルメンバーでなくても、
できる。
ちょっとしたことなんです。
電車で席を
譲ってあげるとか、
荷物を持ってあげるとか、
エレベーターで
「お先にどうぞ」
と声をかけるとか。
そういうふうな
「かたちのあること」
だけに限りません。
極端な話、
相手が
「親切にされた」
と気が付かなくても
いいんです。
朝ゴミを出しにゆくときに
登校する子どもたちを見て、
「今日一日元気でね」
と心の中で
手を合わせるとか、
その程度でいいんです。
別に相手から
具体的な助力や支援を
求められているわけじゃ
ないけれど、
自分の方から
一歩を踏み出す。
自分から始める。
自分が起点になる。
「心の中で手を合わせる」
くらいでも
「一歩を踏み出す」
にカウントしてもいいと
僕は思います。
だったら、
そんなに難しい仕事じゃ
ありません。
僕はそういう
「親切」がとても大切だと
思うんです。
それが
今の日本社会で
最も欠けているもののような
気がするからです。
「親切にしましょう」
なんて、
小学校の学級標語
みたいですけど、
日本人には
そうもそれができなくなって
いるような気がします。
「子どもにできること」を
大人たちがしなくなっている。
それが
問題なんじゃないかと
思います。
特に
「賢い」つもりでいる
大人たちが
「親切であること」
の価値を顧みなくなった。
そうですね・・・
「親切」
ほんと、小学校で学ぶことですが(^^;
たしかに、今、
大人たちが、しなくなっている。
先が見えない時代。
皆が不安を感じ、
何だか、自分を守ることで、
精一杯な感じがする・・・
こんなときこそ、
小さな親切を大切にしたいですね(^^;
私、親切をするのは、
けっこう照れくさくて、
迷っているうちに、
見送ってしまうことも多いのですが、
少なくとも、
「心の中で手を合わせる」
ことぐらいは、できますもんね。
出会う人たちの幸せを願って、
心の中で手を合わせる。
多くの人が、実践したら、
それこそ、
世界が変わるような気がします。
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私、丹沢や箱根周辺で、
山歩きを、たまにするのですが、
いつも、登山道が、
さりげなく整備されています。
急な箇所には、
つかめるように
ロープが張ってあったり、
足場の悪いところには、
大きな石や、木の板、
砂袋が置いてあったり、
道に迷いそうな箇所には、
目印にピンクのテープが
巻かれていたり・・・
もしかして、
ボランティアの方でしょうか。
ほんと、有り難いです(^^)
仮に、ボランティアではなく、
自治体の職員の方だとしても、
登山道を整備するのは、
けっこう重労働だと思います。
そんな方たちのご尽力のおかげで、
私たちは、自然を満喫できるのですね(^^)
(しかも、無料で)
たしか、
村上春樹さんがおっしゃっていて、
それを内田樹さんが紹介されていましたが、
雪が降ると、近所の道を、
人知れず、雪かきしてくださる方が
いらっしゃる。
普段は、なかなか見えませんが、
そういう方がいるからこそ、
私たちは、
日常生活を滞りなく過ごすことができる・・・
こんな時代だからこそ、
「小さな親切」を、
大切にしていきたいですね。
(と、自分に言い聞かせています(^^;)
今回も、最後までお読みくださいまして、
有り難うございました😊
次回も続きます(^^;
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足柄の矢倉岳山頂より、富士山🗻を望む。
いつのまにか、上のほう、
うっすら雪化粧されていますね(^^;









