冬はラフマニノフ
昨夜の真央ちゃんのフリーの滑りは素晴らしかったですね。
魂の滑り。
すごい!すごい!大拍手、
眠気まなこを擦りながら、リアルタイムで観ました。
フリーの曲はラフマニノフ”ピアノ協奏曲第2番”でしたね。
大好きなラフマニノフの耳慣れた曲、
このアルバムの1曲目におさめられています。
冬になると聴きたくなるラフマニノフ、
深くて激しくて、大胆で繊細、ロマンテックで哀愁を帯びていて。
ラフマニノフ自身の人生なんだろうな。
『ピアノ協奏曲第2番』は
1897年ラフマニノフが大きな挫折を味わい、3年間全く作曲に
手を付けられなかった後に生まれた曲なそうです。
Sergei Rachmaninoff The Greatest Hits より
ん~・・・
彼の生涯を描いたロシア映画『ラフマニノフ ある愛の調べ』の中では、
ロシアに樹立された新政府を逃れ、アメリカに渡ったラフマニノフが
ニューヨークで初の演奏会、カーネギホールに集まった聴衆を前に
演奏したのが、この曲ピアノ協奏曲第2番、またこの映画が観たく
なった。
ラフマニノフと真央ちゃんが氷上で饗宴。
100年以上前に書かれた苦悩の末に生まれたこの曲は、
真央ちゃんの最後を飾るのに相応しい曲だったと思う。
あの時の出会いが。
1枚のはがきが届いた。
「私は石川 愛の妹でございます。」と始まった余寒見舞いのはがき。
私からの年賀状を受け取ったであろう文章の始まりは、
お姉さんである愛さんが、昨年12月亡くなったという知らせだった。
・・・愕然としてしまい、その場で声出して号泣した。
愛さん、愛さん、愛さん・・・
私が愛さんと出会ったのは20代の頃、サンフランシスコ行きの飛行機のなか。
1年間の留学に向かう機上、緊張と不安でいっぱいだった私は、何を思ったか
隣の席の上品な婦人に話しかけた。
それが、愛さんとの出会い。
若いというのは怖いもの知らずで、無防備で。
構えることなく、そのお隣のインテリジェンスを感じる女性に話しかけた。
愛さんは、カンサス州のカレッジに留学時のホストファミリーに会いに行く旅の
往路、それから私はその留学時代のこと、仕事のこと・・・ いっぱいお話を
聞かせてもらった。
おかげで、私自身の留学への不安は希望に代わりウキウキさえしていた。
それが私の留学の始まり。
カリフォルニアに住むようになりすぐに、出会いへの感謝の手紙を書いた。
それから何度かペンを持つ。「おかげさまで・・・」と「がんばってます!」を
伝えたかったんだと思う。
そうして、細い糸で愛さんとつながり、留学を遠くから支えてもらっていた。
実は”愛さんはスゴい人。エライ人”、というのは後からわかり、何だか恐縮・・・
日本秘書協会の理事長を務めていた方、当時は外資系の保険会社の秘書をされていた。
留学を終えて帰国した私は、「帰って来たした!」の報告とともに、愛さんと再会の機会を
得た。赤坂見附駅で待ち合わせ、行き先は愛さんが務める会社、
なんと実に気軽に、確か”シグナ”という保険会社だったと記憶しているけれど、
イタリア人のボス、だったと記憶しているけれど、
社内を案内して頂き、何人かの方々に紹介して下さった。
バイリンガルに働く女性。品性と知性を備えた女性。
それから愛さんは私の憧れの女性になった。
その後は、確か愛さんが行きつけのフランス料理のレストランで食事をご馳走になり、
飛行機で隣りに座った小娘に、社内を案内、食事までご馳走して下さるとは・・・
ただただ感激。
食事を頂きながら、仕事のこと、人とのつながりについて・・・教えてもらったこと。
今でも覚えているそのなかの1つは、私の習慣となってきた。
「遠くに住むお友達とつきあっていくのは、便せんやハガキ、切手を用意していて、
思い出したらさっと、手紙でもハガキでも書くのよ。ハガキ1枚でもつながっていくの
だから。」
と。
私も、何度も愛さんからの手紙に励まされてきた。
こちらは、2013年6月に出版された愛さん著書の本。
遺作となってしまった。
40年近く外資系の会社で秘書を務め、
退職後は、滋賀短大で教鞭をとっていたことを年賀状で知らされていた。
最近の年賀状では、早稲田大学で学んでいます、という近況報告。
世界中を旅し、仕事を愛し、人生を愛し。
1年に一度、年賀状で愛さんの近況を知り背筋が伸びるのだった。
いつも会っていなくても、存在を感じる人、自分の支えになる人、
私にとって愛さんはそういう存在で。愛さんの”今”を知ることが
なくなるというのは、淋しいな・・・
あの時の出会いが・・・ (みつを風)
私の人生を豊かにしてくれた、影響を与えてくれた愛さん。
私も誰かのそんな存在でいられたらいいな、と願う。
「私は石川 愛の妹でございます。」と始まった余寒見舞いのはがき。
私からの年賀状を受け取ったであろう文章の始まりは、
お姉さんである愛さんが、昨年12月亡くなったという知らせだった。
・・・愕然としてしまい、その場で声出して号泣した。
愛さん、愛さん、愛さん・・・
私が愛さんと出会ったのは20代の頃、サンフランシスコ行きの飛行機のなか。
1年間の留学に向かう機上、緊張と不安でいっぱいだった私は、何を思ったか
隣の席の上品な婦人に話しかけた。
それが、愛さんとの出会い。
若いというのは怖いもの知らずで、無防備で。
構えることなく、そのお隣のインテリジェンスを感じる女性に話しかけた。
愛さんは、カンサス州のカレッジに留学時のホストファミリーに会いに行く旅の
往路、それから私はその留学時代のこと、仕事のこと・・・ いっぱいお話を
聞かせてもらった。
おかげで、私自身の留学への不安は希望に代わりウキウキさえしていた。
それが私の留学の始まり。
カリフォルニアに住むようになりすぐに、出会いへの感謝の手紙を書いた。
それから何度かペンを持つ。「おかげさまで・・・」と「がんばってます!」を
伝えたかったんだと思う。
そうして、細い糸で愛さんとつながり、留学を遠くから支えてもらっていた。
実は”愛さんはスゴい人。エライ人”、というのは後からわかり、何だか恐縮・・・
日本秘書協会の理事長を務めていた方、当時は外資系の保険会社の秘書をされていた。
留学を終えて帰国した私は、「帰って来たした!」の報告とともに、愛さんと再会の機会を
得た。赤坂見附駅で待ち合わせ、行き先は愛さんが務める会社、
なんと実に気軽に、確か”シグナ”という保険会社だったと記憶しているけれど、
イタリア人のボス、だったと記憶しているけれど、
社内を案内して頂き、何人かの方々に紹介して下さった。
バイリンガルに働く女性。品性と知性を備えた女性。
それから愛さんは私の憧れの女性になった。
その後は、確か愛さんが行きつけのフランス料理のレストランで食事をご馳走になり、
飛行機で隣りに座った小娘に、社内を案内、食事までご馳走して下さるとは・・・
ただただ感激。
食事を頂きながら、仕事のこと、人とのつながりについて・・・教えてもらったこと。
今でも覚えているそのなかの1つは、私の習慣となってきた。
「遠くに住むお友達とつきあっていくのは、便せんやハガキ、切手を用意していて、
思い出したらさっと、手紙でもハガキでも書くのよ。ハガキ1枚でもつながっていくの
だから。」
と。
私も、何度も愛さんからの手紙に励まされてきた。
こちらは、2013年6月に出版された愛さん著書の本。
遺作となってしまった。
40年近く外資系の会社で秘書を務め、
退職後は、滋賀短大で教鞭をとっていたことを年賀状で知らされていた。
最近の年賀状では、早稲田大学で学んでいます、という近況報告。
世界中を旅し、仕事を愛し、人生を愛し。
1年に一度、年賀状で愛さんの近況を知り背筋が伸びるのだった。
いつも会っていなくても、存在を感じる人、自分の支えになる人、
私にとって愛さんはそういう存在で。愛さんの”今”を知ることが
なくなるというのは、淋しいな・・・
あの時の出会いが・・・ (みつを風)
私の人生を豊かにしてくれた、影響を与えてくれた愛さん。
私も誰かのそんな存在でいられたらいいな、と願う。






