Us And Them
On And On
雨が降ったり、降らなかったり、晴れたり、曇ったりしている。ベランダに絨毯が干してある。顔のまわりを蚊が飛んでいた。
昼、久しぶりに「カップヌードル」以外のインスタントラーメンを食べた。テーブルの上には熱いウーロン茶の入ったやかんが置いてある。「ユーハイム」で買っておいた洋菓子を食べた。どこかに行こうと思ったけれど、どこにも行かなかった。「サンマ煮ておくから、明日焼いて食べなさい」とトンチンカンなことをいわれて笑った。手紙が届いていた。だんだんと外が暗くなってきて、そのうちに夜になった。向かいの家に住んでいる家族が駐車場で花火をしていて、その光が窓から見えた。
The Most Beautiful Girl In The World
雑誌はあまり読まないのだが、白夜書房から出ている『NEUTRAL』という雑誌は面白い。創刊号が出たのが去年の6月で、3~4ヶ月に一回発刊される雑誌なので、まだ先月に出たばかりの第4号が最新号なのだけれど、その分中身が充実していて写真もキレイなので、雑誌にしては1200円とちょっと高めだが、十分内容に見合った値段だと思う。ところが、面白いといっておきながら実はまだ創刊号しか買っていなくて、それはただ単に「一気に読むのが勿体無いから」というセコい理由からなのだが、ようやく第2号をきょう買った。今回の特集は「美女のルーツ」ということで、世界中の"美女"を紹介してその起源を探り、歴史やファッションや映画の中の美しい女性や、美しくなるための食事や姿勢まで教えてくれるという内容だった。
- ニュートラル編集部
- ニュートラル(2) NEUTRAL
Tomorrow Never Knows
駅前で赤いシャツを着た女の子たちがフリーペーパーを配っていた。切符売り場には行列ができていた。駅構内を通り抜けて反対側の出口に出てから、ロータリーに沿ってぐるりと歩いていき、横断歩道を渡った。左右に教会やレストランやホテルが並ぶ長い坂を登った。新しい靴はすぐに靴紐が解けてしまうので、そのたびに僕は道ばたにしゃがんで結び直さなくてはならなかった。郵便ポストに葉書を入れて、セブンイレブンで牛乳を買った。
家に帰ってから、部屋中に掃除機をかけた。冷蔵庫で冷やしておいたウーロン茶を飲んだ。トイレに入ったら、外から犬の吠える声が聞こえてきた。
Magic Number
(引用ばかりで恐縮ですが、トラックバックステーションの「出だしで読む私の名作」に参加して、印象に残った「出だし」をもう1つ引いてみます)
いまは私は、ここに、ひとりで、まったく安全なところにいる。外では雨が降っている。外では雨のなかを、頭を前に傾け、片手を目の上にかざしながら、それでも自分の前を、自分の前数メートルのところ、濡れたアスファルトの数メートル先を見つめて歩いている。外は寒く、はだかになった黒い枝の間を風が吹きぬけている。葉むらの中を、枝ごとゆらりゆらりと、ゆらりゆらりと、ゆらりゆらりと揺すぶりながら風が吹きぬけ、それが壁の白い漆喰の上に影をおとしている。外では日が照っている。影をおとす木もなく、潅木もなく、太陽がまっこうから照りつけるなかを、目の上に片手をかざしながら、それでも自分の前を、自分の前わずか数メートルのところ、ほこりっぽいアスファルトの数メートル先を見つめて歩いていて、風がそのアスファルト上に、平行線や分岐線や螺旋を描いている。
- アラン ロブ=グリエ, Alain Robbe‐Grillet, 平岡 篤頼
- 迷路のなかで
Walk This Way
たとえば、①は「針葉がむせかえるほど強く匂っていた」とか「高麗鶯がいやいやながらのように弱々しい声で歌っていた」などの視覚以外に関する文章があることで、描写に厚みが生まれていると思う。
また、②は「荒れるに任され、古びていた」や「去年の落葉」や「古めかしい果樹園」や「年老いた鳥」などもそうだし、最後の「一瞬、私は……」という箇所もそうだ。
③は「あたりは静かで薄暗く……眩い黄金色の光が震え、蜘蛛の巣を虹色に光らせていた」という箇所が一番わかりやすいが、ここ以外にも「夕方の影が長く伸びていた」や「ほの暗く美しい並木道」や「十字架が沈む夕日を受けて赤く輝いていた」なども関わりあっているような気がする。
①②③は、たとえば「右手の古めかしい果樹園では高麗鶯がいやいやながらのように弱々しい声で歌っていたが、これもきっと年老いた鳥なのだろう」(聴覚⇒思考)のように連関している箇所もある。③は視覚だから厳密には①に含まれるかもしれないが、それはともかく、これらの描写を可能にしているのは"私"の存在だ。小説に「登場人物」というものがある理由の一つは、ある視点を存在させること、そしてそれをある文章を書くための推進力のようなものにする、ということだと思う。喩えるなら、池に石などを落とすと波紋ができるけれど、最初にいった「私について」というのは落とした石について書かれた文章で、「私を通じて」というのはその石によって生まれた波紋について書かれた文章だ、とでも言えばいいだろうか(わかりにくい喩えかもしれませんが)。
Natural Blues
最近、なんだか手抜きしてるような感じだけど、トラックバックステーションが更新されて「出だしで読む私の名作」というテーマになっていたので、きのう読み終えたばかりの小説の冒頭を引用してみます。
額に白い斑点のある灰色の犬が市場の迷路の中に飛びこんできたのは、十二月最初の日曜日のことだった。犬は揚げ物屋の台をひっくりかえし、インディオの露店や宝くじ屋のテントをなぎ倒して、ついでに、その通り道を横切った四人の通行人に噛みついた。そのうち三人は黒人奴隷だった。もうひとりはシエルバ・マリア・デ・トードス・ロス・アンヘレスといい、カサルデゥエロ侯爵のひとり娘で、ムラータの女中に伴われて十二歳のお誕生会のために鈴の飾りを買いにきたところだった。
ふたりは「商人門」の外には行かないようにと指示されていたが、女中が冒険心を出して城外ゲッセマニ地区の跳ね橋のところまで足をのばしたのは、奴隷貿易港の賑わいに誘われてのことだった。そこでは船一隻分のギニアの奴隷が競売に出されていたのだ。カディス黒人会社のその船は一週間前から不安をまじえて待たれていたもので、それは説明のつかない多数の死人が船上で出ていたためだった。船の側ではその事実を隠すために、重しもつけずに死体を海に投棄していた。ところが、穏やかな海のせいで死体は浮かびあがり、夜が明けると、紫がかった奇妙な色に変色しておかしな形に膨張した死体がいくつも浜に打ち上げられて発見されたのだった。何かアフリカの疫病が発生したのではないかという恐れから、最初その船は湾内に入ることを禁じられたが、結局、傷んだ加工肉による食中毒であることが確認されていた。
- G. ガルシア・マルケス, Gabriel Garc´ia M´arquez, 旦 敬介
- 愛その他の悪霊について
Yesterday Once More
僕の本棚にはほぼ読み終えた順に本が並んでいるので、どの本をいつ頃読んだのかがだいたい目で見てわかるようになっている。そんなわけで本棚を見てみると、ちょうど1年前の今頃は『かわいい女・犬を連れた奥さん』(新潮文庫/チェーホフ著)という本をを読んでいたらしい。
この本には7つの短篇小説が収められていて、どの作品もとても好きだし、この本は翻訳も素晴らしいと思う。
最初の作品『中二階のある家』の始まってまもない箇所の文章はこんな感じです。
ある日、帰りしなに私は見覚えのないだれかの屋敷にうっかり迷いこんでしまった。太陽はすでに沈みかけ、花咲くライ麦畑に夕方の影が長く伸びていた。ぎっしりと植えられた非常に背の高い二列の樅の老木が、隙間のない二枚の壁のように、ほの暗く美しい並木道をかたちづくっていた。私は難なく生垣を跨ぎ越え、地面に四、五センチもつもっている樅の針葉に足を滑らせながら、その並木道を歩き出した。あたりは静かで薄暗く、ただ高い梢のそこかしこで眩い黄金色の光が震え、蜘蛛の巣を虹色に光らせていた。針葉がむせかえるほど強く匂っていた。まもなく私は菩提樹の長い並木道へ曲った。そこも荒れるに任され、古びていた。去年の落葉が足もとで悲しげな音を立て、たそがれの木の間にはさまざまな影がひそんでいた。右手の古めかしい果樹園では高麗鶯がいやいやながらのように弱々しい声で歌っていたが、これもきっと年老いた鳥なのだろう。だが、やがて菩提樹の並木道は終った。テラスと中二階のある家の前を通りすぎると、思いがけなくその家の中庭と大きな池の眺めが眼前に展けた。池には水浴場の囲いがあり、緑の柳の木立ちがあり、向う岸は村になっていて細長い鐘楼がそそり立ち、その頂の十字架が沈む夕日を受けて赤く輝いていた。一瞬、私は幼い頃これと同じ光景を見たことがあるような気持ちになり、なんともいえぬ懐かしさに恍惚となった。
- チェーホフ, 小笠原 豊樹
- かわいい女・犬を連れた奥さん
Ordinary World
何日か前にクーラーが壊れてしまった。きのう修理の人が来て、直してくれた。おかげで、久しぶりに部屋の中が涼しくなった。暑いと外出したくなくなるかというと必ずしもそうではなくて、「夏を感じたい」というとちょっと違和感があるけれど、特に行くあてはなくても強い陽射しの中を歩いてみたいという気になる。
でも、きょうはずっと家にいた。
窓の外に木々が見える。屋根が見える。ビルが見える。その向こうに広がる青空。白い雲が浮かんでいる。何も動かない。時間が流れているような気がする。ときどき、鳥が飛んできて、またどこかへ去ってゆく。
長い連休がもうすぐ終わる。