出井和俊の"日々のレッスン" -5ページ目

Daydream Believer

 ブラジル、ジャマイカ、ナイジェリア……暑い国の音楽ばかり聴いている。特に最近よく聴くのがジョアン・ジルベルトという人の『三月の水』というアルバムで、ギターとシンバルと歌だけの音楽なのだけれど、夏の夕暮れに海岸を散歩しているような、ゆったりとした感じの曲調で飽きない。CDには歌詞はあっても対訳が付いていなくて、しかもブラジル語だかポルトガル語だかで書いてあるので意味はさっぱりわからないのだが、『ウンディユ』という曲では人の名前か土地の名前かわからない"ウンディユ"という言葉をひたすら囁くように歌っていて、なんだか瞑想的な気分になってくる。


ジョアン・ジルベルト
三月の水

Simple Kind Of Life

 朝、ゴミを捨てにいった。肌寒い感じ。曇っていた。半透明のビニール袋が神社の前に山積みになっていた。中身は見えないけれど、鼻をかんだティッシュとか、ノートの切れ端とか、野菜くずとかが、たぶん詰まっている。そこに、もう一つ同じようなモノの詰まった、同じようなビニール袋を置いて帰ってきた。
 天気の変わりやすい日で、雨が降ったり、晴れたり、曇ったりした。寒くなったり、暑くなったりした。出かけてから家に帰ってくるまで、持っていった傘は一度も差さなかった。

Welcome To The Cruel World

 たとえば、知らない駅で降りて地図を片手に初めて訪れる建物へ向かう場合に較べれば、最寄りの駅から自分の家まで歩いて行くときに働かせる注意力というのは本当に微々たるもので、いちいち「この道で正しいだろうか」などと考えなくても、ほとんど”自動的”といっていいくらいに、迷うことなくどんどん足は動いてゆく。あるいは、自分の家のトイレのドアを開けたらそこにはまず間違いなく便器があるということを、僕たちは(この「僕たち」って言い方、あんまり好きじゃないんだけど)微塵も疑わないだろうし、自分の家のトイレに行くとき、それがどこにあるかということについて、僕たちはやはり全く注意力を働かせる必要はない。そういう注意力の不必要さを保障しているのが記憶(過去)というものだけれど、最寄りの駅から自分の家までの道も、トイレの場所も、自ら記憶しようとしたというよりは、習慣によっていつの間にか覚えてしまっている。よくよく考えてみれば、たいていの場合、僕たちは何かを積極的に「見たり」「聞いたり」しているのではなくて、実際にはもっと消極的な仕方で――つまり「見えたり」「聞こえたり」しているといったほうがよくて、また、それは感覚的なことだけじゃなくて、たとえば「考える」とか「思い出す」とかの心の働きも、同じように「考えさせられる」とか「思い出させられる」とか(そもそも「忘れる」ってこと自体、当人の仕業じゃあない)、とにかくそんな風にして、ふだんは意識的にしていると考えている様々なことが、実は意識の外側にある力によって強制されていて、"意識"はただそれを眺めているに過ぎないのかもしれない。

Come As Your Are

 「古明地洋哉(コメイジ ヒロヤ)」という名前のシンガー・ソング・ライターがいることを知ったのはずっと前のことで、当時好きだった(いまも好きだけど)ジェフ・バックリィみたいだと誰かがいっていたので聴いてみたかったのだけれど、近所のCD屋には一枚も置いてなくて、インターネットで買い物をすることも知らない頃だったので、そのまましばらく忘れていたのだが、ある日たまたま観ていたMTVで”何かを伝えたい時には/誰かに伝えたい時には/僕は無口になってしまう/何も言えなくなってしまう”という歌詞のミュージック・ビデオが流れていて、それが古明地洋哉の曲だった。その曲の入っている『Daydream』というミニ・アルバムを買って、またしばらく経ったある日テレビを観ていたら、”つまらないことで泣いて/くだらないことで笑う/そんな日々がずっと/続くはずだって思い込んで”という歌詞の曲が流れていて、何となくまたCDを買いに行った。
 この人の音楽を聴いていると、ふいに背後に他のミュージシャンや過去の誰かの曲がちらついてしまうことがあり、だからといって具体的に誰かに似ているかと訊かれれば誰にも似ていないと答えるよりほかないのだが、声とか曲は好きだけど歌詞とかタイトルの付け方はあまり好きになれないなど、とにかくなぜか手放しで好きにはなれず、でもたまに聴くと心をグッと掴まれるような感じがして、そういう時は「お見それしました」という気にさえなる。どこかで聞いた話だが、昔、この人と対バンした人が「音楽やめようと思った」らしい。結局、好きなのか嫌いなのか、なんだかハッキリしない文章だけれど、本当のところはどっちなのか、というか、好きか嫌いかのどっちかである必要があるのかないのか、自分でもよくわからない。ただ、ときどき、聴いている。


古明地洋哉
daydream
古明地洋哉
mind game

Miss Me Blind

 どちらかというと海外の小説を読むほうが多くて、日本の小説も読むことは読むけれど、割合でいうと3:1か5:2か7:3くらいで、やっぱりたまにしか読まない。まあ、それはともかく、大道珠貴という人の書いた『裸』という小説は面白かった。といっても、読んだのはもう1ヶ月以上前だと思うのだが、本棚から取り出してパラパラとめくっていたら、『ゆううつな苺』という作品にこんな箇所があってびっくりした。


 病院は、現実だらけなのだ。博愛医院の外来病棟は、長生きしたくてたまらない顔をしたじいさんばあさんで満杯だった。
 私はあの、としよりというものがうっとうしい。小学校のときも、いやいや千羽鶴を折らされた。老人ホームとの交流とやらだった。お返しに、ダンボール箱いっぱいのぞうきんが送られてき、としよりとはなんて暇人なんだろう、と思ったものだ。学級委員の子たちが慰問にいき、そこで演歌とか博多にわかとかを披露してきたらしい。としよりは毎日そこでなにをしているのかときいたら、折り紙をし、童謡や唱歌をうたい、昼寝をし、毎日三回ごはんを食べているのだという。としよりの女と男はどっちが得のようだったかときいたら、おばあさんにはメイクアップ教室があり、楽しんでいるみたいだったが、おじいさんは眠っているのか起きているのか自分でもわからないようなひとが多かった、という。
「生きていてもしょうがない」
 そんな言葉を言うとしよりはいないのだろうか。ぞうきんのお礼の手紙を書かされ、私はまず書きだしから困った。としよりの顔も知らなければ名前も知らない。知らないが、たぶんばあさんではあろう。ありがとうございます、その言葉の薄っぺらさったら、なかった。どうして子供ととしよりをくっつけたがるんだろうか、私には理解できない。


 全体の内容とか話の展開はもう忘れてしまったけれど、なんというか、世間に対する”私”のスタンスみたいなものを、こんな短い引用からも垣間見ることができて面白い。”私”にはいわゆる「モラル」というものがないといえばないのだが、”私”はべつに突っ張ったり、捻くれたりしている訳じゃなくて、ただ「素」でいるだけだから(といっても、「自分らしく生きる」とかそんなのでは全然なく)、それ以上どうしようもなくて、「モラル? ないものはしょうがないじゃん」と言われているような気になる。そんな世間との距離感のなかで立ち上がってくる”私”の人格の生々しさが、不思議なテンションの高さを持った文章となって現れてきて、ついつい読まされてしまう。


大道 珠貴

All Tomorrow's Parties

 世間では明日から3連休の人が多いと思うのだけれど、僕は土・日・月と用事があって、その代わり今日は休みだった。


 夕方、夢を見た。
 白い壁に挟まれた、細い、くねくねと折れ曲がる廊下を歩いていた。人の気配がなく、静かだった。自分の足音も聞こえなかった。幽霊になったみたいだった。朝なのか夜なのか、窓がないのでわからなかった。わからないことが気にならなかった。天井に付けられた電球が明滅していて、明るくなったり、暗くなったりしていた。いくつも角を曲がった。壁にはところどころにドアがあって、鍵は掛かっていなかった。そのうちの一つを開けて、部屋に入った。部屋はルビー色の電球の光で真っ赤に染まっていた。赤い絨毯の上に赤いソファがあった。そこに、顔の見えない、たぶん女が横たわっていた。

New Star In The Sky

 昨日までとはうって変わって、ずいぶん涼しくなった。朝、網戸を通って流れ込んでくる風の冷たさ。季節というのは、ある日、突然変わるのだと思った。しばらくの間、まだ残暑は続くらしいけれど、すぐに秋がやってくる。雨が何度か降って、その度に陽射しが和らいでくる。山の木々が紅葉しはじめる。日が沈むのも少しずつ早くなる。そんな風にして、やがて夏の痕跡は跡形もなく消え去ってゆく。

Dolphins Were Monkeys

 空には雲一つなかったが、晴れているわけではなく、ここ数日のあいだ雨は降っていなかった。それは嘘だ。いつまで経っても太陽は昇らず、夜は訪れなかった。星は瞬かなかった。それも嘘だ。話す声も足音も聞こえなかった。車は通らなかった。猫はいなかった。闇のなかでも、光のなかでも、物音一つしなかった。時間が流れても、流れなくても、誰にも知られることはなかった。そうではなかった。そんなことはなかった。風は吹かなかった。違う。花は咲かなかった。海辺も、そこに打ち寄せる波もなかった。人は現れず、町は造られなかった。それも嘘だ。雲一つない空は、晴れているわけではなかったが、いつまで経っても雨は降らなかった。そのこともまた、誰にも知られなかった。時間が逆戻りしても、誰にも気付かれなかった。かつての、あの時まで、いつまでも。

Know Your Enemy

 個人的な理由で投票には行ってなくて、政治のこともテレビや新聞で得る程度の知識しかないし、応援している政治家・政党もいない上(特定の思想を支持する気がないという積極的な理由ではなくて、ただ単にどこを支持すればいいのかわからないという消極的な理由から)、政治そのものにもほとんど興味が持てなくて、そのことを悪いとも思っていないのだが、ここまで自民党が圧勝してしまうと、さすがに他党(というか民主党)にはもう少し頑張って欲しかったという気がしてきて、べつにカタを持つわけじゃないんだけれど、テレビで観た岡田さんの記者会見はなんだか悲壮感のようなものが漂っていた。インタビューでは「正攻法で政策を訴えるやり方は間違っていなかった」と繰り返していて、それが”姿勢”としては間違っていないことは政治に疎い僕でもわかるし、くだらないパフォーマンスなんかしないところは好きなんだけれど、しかし”やり方”としてはやっぱり間違っていたんじゃないかと思う。人に何かを訴えたり、伝えたりするときには「俺の話を聞け!」という具合に一方的に仕掛けても駄目で、相手に話を聞こうという気持ちがないとそれこそ「馬の耳に念仏」というヤツになってしまうわけだけれど、街頭演説を聞いて(というかテレビで観て)いても、小泉さんとか田中眞紀子さんとかの話にはいわゆる「ユーモア」があるし(つまんないけど)、スズキムネオだったら何となく憎めない雰囲気みたいなものがあって、「人柄」とか「キャラ」とか「カリスマ性」とかいったらそれまでだが、何にしろメッセージを伝えるにあたっては「迂回」が必要で、岡田さんにはそれが足りなかったのかなとも思った。あと、ちょっと話が変わるけれど、ライブドアのホリエモンが出馬を表明した少し後に出演したワイドショーでされた質問に対して、「くだらない質問なのでお答えできません」と返していたのがなんだかおかしかった――とここまで書きながらテレビを観ていたら「香港にディズニーランドがきょうオープン」というニュースをやっていた。

Mysterious Semblance At The Strand Of Nightmares

 雨の音が聞こえてきた。建物の外に出たら土砂降りになっていた。今朝の天気予報では降水確率20%といっていた。降水確率というのは雨の量とは関係なくて、たとえば90%でも小雨のこともあるし、10%でも今日みたいに大雨が降ることもある。それはともかく、傘を持っていなかったので、入口のところで雨宿りしていた。近くにカフェ・ベローチェが見えた。am/pmが見えた。吉野家が見えた。駅までは少し歩かなければならなかったので、ここでこのまま雨が止むか、弱まるまで待つか、ベローチェで待つか、am/pmでビニール傘を買うか、昼ご飯がまだだったので久しぶりに吉野家に行くか、タクシーを拾って駅まで行くか、駅まで走るか――とにかく、どうやって帰ろうかとあれこれ考えていた。
 凹凸のある、黒光りするアスファルトの地面に水溜まりができていた。細い筋になって水が流れていた。そこに雨粒がぱらぱらと、ひっきりなしに降り落ちていた。空に立体的な雲の層が積み重なっていて、風に押し流されていた。その背後に隠れている太陽のせいで、暗いところと明るいところがあって、雲の厚いところと薄いところがあって、そうこうしているうちに時間が経って、少し雨が弱くなってきた。