出井和俊の"日々のレッスン" -11ページ目
<< 前のページへ最新 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11

Some Might Say

 夕方、大きな地震があって、今まで体験したうちでたぶん一番大きな地震だったと思うのだけれど、それでもテレビの地震速報によると震度4か5くらいだという。揺れが止まった後も、しばらくはまだ揺れが続いているような気がして、それにまた同じような地震がくるんじゃないかという気がして、そんな気持ちのままテレビのニュースをずっと観ていたら、気が付くと地震があってからすでに1時間近く経っていた。こういう時間の経ち方を体験すると、時間というのはやっぱり長さじゃなくて密度なんだなあと、つくづく思う。

 散歩がてら薬局に目薬を買いに行って帰る途中、空を見ていたら雲があった。雲なんてほとんど毎日見られるようなものだから、わざわざ「雲があった」なんて書くほどのことではないかもしれないが、それでも見ている間は「ああ、雲がある」と思っていた。それにしても、雲についてきちんと書くのは実はとても難しいんじゃないかと思う。たとえばよくある「ワタアメのような……」とか「水彩画のような……」といった比喩による表現(ついでにいうと「うろこ雲」や「いわし雲」などもそうだが)はすごく大ざっぱで、目の前にある雲の形や色や何層にも重なった感じや、またその背後にある空や光についても、実際には何も表していないに等しい。人間についての言葉に比べて、雲について語るための言葉はずっと少ないんじゃないかと思う。


Our Day Will Come

 山手線に乗って新宿から五反田に行く途中、駅と駅の間で電車が2回止まった。1回目は原宿と渋谷の間で。2回目は目黒と五反田の間で。再び走り出してからも特にアナウンスがなかったので、どうして止まったのかは分からなかった。気のせいかもしれないけれど、いつもより電車が左右にゆらゆらと揺れながら走っていたようだった。少なくとも、乗っている間はそう感じた。そういうことがあって、ふと電車は人間が走らせているのだという当たり前のことに気が付いた。

 西五反田のTSUTAYAでビデオとDVDとCDを借りてから、橋を渡って、駅のガード下を通って、夕飯をどこで食べようか考えながら東五反田をぶらぶらと歩いていたのだけれど、ラーメン屋もカレー屋も韓国料理の店も人が並んでいて、結局、大戸屋で食べた。後から来て隣に座った長髪の白髪のお爺さんは冷やし中華を食べていた。

 横断歩道の手前で信号が変わるのを待っている間、しゃがんで解けた靴紐を結んでいたら、すぐそばの地面にミミズがいて、誰かに踏まれたのか、自転車にでも轢かれたのか、激しくのたうちまわっていた。そのうちに、信号が青に変わった。


まえがき

 きょうから"日々のレッスン"と題してこのウェブログを書いていこうと思っているのだけれど、何かを書こうとする時はいつもそうで、いざとなると何から書きだせばいいのか迷ってしまう。

 そういう迷いが生まれるのは、そもそも書くべきことや書きたいことがあらかじめあって書くのではなく「書く」という行為自体がそれらに先行しているからで、そうやって何もないところからいきなり書きはじめるというのはすごくエネルギーが要る。


 「書く」という行為は、何というか、たとえば海の上を一歩一歩、足下にある水をそのつど凍らせながら歩いて渡っていくようなものだと思う。ぱっと浮かんでは消えてしまう頭の中の考えだけで移動できるのはせいぜい泳いで帰ってこられる程度の、つまり自分のもともといた場所を離れずにすむごく狭い範囲だが、「書く」という方法では書かれた言葉を足がかりにして、上手くやれば水平線に向かってどこまでも歩いていくことができるし、ときには思いも寄らない場所に辿り着けることもある(あんまり上手い喩えじゃないかもしれませんが)。


 というわけで、この"日々のレッスン"という言葉自体には大して深い意味はないのだけれど、まあ「書くことによってできるだけ遠くまで行くためのレッスン」といった程度に受け取ってください。


<< 前のページへ最新 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11