出井和俊の"日々のレッスン" -9ページ目

Walk Idiot Walk

 新宿、代々木、原宿。その人が肩にかけていたトートバッグから犬の頭が飛び出していた。犬は眠たげに目をショボショボさせていて、飼い主(持ち主?)はドアのところに立ったまま本を読んでいた。渋谷駅で一気に乗客が降りた。駅の壁には新しい映画の巨大な広告があって、ホームは騒がしかった。席が空いたところに、その人が座った。向かいの席に座っていたおっさんの携帯電話が鳴った。扇風機の風で中吊り広告が揺れていた。渋谷、恵比寿、目黒。もうすっかり夜になっていた。僕のバッグのなかには汚れたシャツが入っていた。明日は雨が降るらしい。天気予報でそういっていた。

Let Forever Be

 夜の道を歩いていた。生暖かい風が吹いていた。自分の汗の匂いがした。空には赤い三日月が輝いていたが、街灯の光のせいでそう見えただけで、本当はべつの色をしていたのかもしれない。車が何台か通り過ぎた。アスファルトの道路を擦ってゆくタイヤの音が聞こえる。横断歩道に近付いてゆくとちょうど信号が赤から青に変わったので、立ち止まることなくそのまま渡った。
 横断歩道を渡ったところには古美術店があった。ショーウィンドウ越しに店内を覗いてみると、そこは6畳くらいの広さで、壷や掛け軸などが見えた。人の姿はなかった。いつもと同じだ。
 鮨屋があって、自動車屋があって、駐車場があって、墓地があった。電話ボックスのなかには誰もいなかった。遠くのほうに高いビルが聳え立っている。夜の空は空というよりも宇宙そのものを見ている気がする。道は緩やかなカーブを描いている。自分の足音は聞こえない。

Thirsty And Miserable

(きのうのつづき)


 当たり前のことだが、僕が「僕」というとき「僕」という言葉は僕=出井のことを指している。そして、Mが「僕」というときの「僕」という言葉は「M」のことを指している。「僕」という言葉が他の誰でもない僕=出井のことを指すような"僕"としてこの世界に存在しているのは何故なのか、それはわからない。
 きのう思い出した"……別の体に別の魂をむりやり詰めこまれてしまったような感じがする。……"という表現は比喩として使われているのだけれど、もし「『僕』という言葉が他の誰でもない僕=出井のことを指すような"僕"」のことを"本来の体に本来の魂が備わっている"状態だとするならば、きのうの「どうして僕はMではないのか」(あるいは「どうしてMは僕ではないのか」)という感覚は、言い換えれば「どうして"本来の体に本来の魂が備わっている"のか」ということかもしれない。
 誰でも「『僕』という言葉が他の誰でもない僕=○○のことを指すような"僕"」であることを選んで生まれてきたわけではないから、もしかすると僕=出井が「僕=出井」ではなくて「僕=M」として生まれてくる可能性が少しでもあったのか、それともまったくなかったのかはわからない。


 テレビで観たあの何度も同じ犯罪を繰り返してしまう人の「もう絶対に罪を犯さないようにしよう」という気持ちは、そのときはたぶん本当にそう思ったのだと思うが、それでも魔が差して同じことをやってしまうというのは、やっぱり一種の病気なんだと思う。「罪を憎んで人を憎まず」という言葉があるけれど、そんなに簡単に分けられるようなものではなくて、罪を犯して罰を受けるのは「罪」ではなくて「人」なのだし、危害を加えられた側もどうしたって「罪」ではなく「人」を憎んでしまう。「悪い」のはやっぱり「人」だ。
 しかし、そういう善い-悪いというのとはべつの次元で、「もう絶対に罪を犯さないようにしよう」という実現されなかった意志のようなものがこの世界に無数に存在していて、それが知られずに消えてゆくということを、何というか、僕は"こわい"と思う。そしてそれは、たとえば「野球選手やミュージシャンになりたかったけれどなれなかった」というのとは全然意味が違う。
 おととい、「『頭がいい』ということは『見えないものを見ようとする』姿勢を持っていることだ」と書いたけれど、もしかすると"愛"もそのようなものなのかもしれない。つまり、誰にも知られずにこの世界のなかで消えてゆこうとしている孤独を想像し、それに触れようとする姿勢――そのような"愛"が可能なのだろうか。


Too Much Heaven

 テレビや新聞で何度も取り上げられているので知っている人も多いと思うが、いわゆる「自殺サイト」を利用した連続殺人事件があって、犯人の男は「人が苦しむ姿を見るのが快感だった」といっているらしい。それに関連してかどうかは分からないけれど、先週の土曜日か日曜日に夕方のニュースで、高校生の頃から30代半ばになる現在に到るまでに100件以上の婦女暴行を繰り返して、少年院や刑務所を何度も何度も出入りしている男のことを取り上げていた。その人は、ふだんは優秀な営業マンとして真面目に働き、周りの人からも信頼され、付き合っていた女性も何人もいたらしくて、少年院や刑務所から出てくるたびに「もう絶対に罪を犯さないようにしよう」と決意するらしいのだけれど、それでもやっぱり"魔が差して"同じ犯罪を繰り返してしまうのだという。普通に考えれば2人ともは「異常者」とか「変質者」とか呼ばれる類の人間で、たしかにひどい事件だとも思う。と、同時に、こういう話を聞くと、上手くはいえないのだが、ある不思議な感覚に襲われることがある。
 先に挙げた2人のような人は他にもたくさんいるわけだけれど、かりにその名前を"M"とするならば、僕の感じた不思議な感覚というのを言葉にすると、だいたいこういう感じだ。「どうして僕はMではないのか」あるいは「どうしてMは僕ではないのか」。
 この2つのセンテンスの意味が同じなのか、少し違うのか、まったく違うのか、実は逆のことをいっているのか、それは分からないけれど、少なくとも、たとえば「僕のなかにも彼らと同じような罪を犯しうる"心の闇"があるのだろうか」とかいうような意味ではない。


 一見、ここまでの流れから逸れるようでいて、実はすごく関係のある話なのだが、以前にアルバイトの休憩中に建物の2階の窓から通りを歩く人たちを眺めていたとき、「いま自分は彼らを見ているけれど、見られている人たちはそのことを知らないし、彼らにとって僕は存在していない」ということに気が付いた。そして、「もし僕が、スーツを着て鞄を提げてあそこを歩いているあの人だったら、あの人がどこへ行って何を見たり聞いたりするのかが、ここから見えなくなっても分かるんだろうな……」とも考えていた。
 この感覚が伝わるかどうかいまいち自信がないんだけれど、こう書きながら村上春樹の『風の歌を聴け』という小説のなかに、"……別の体に別の魂をむりやり詰めこまれてしまったような感じがする。……"という文章があったのを思い出した。


(たぶん、つづく)

I Want It That Way

 ここでほぼ毎日更新している文章が、たとえばインターネットの掲示板での「……ですよね」「……なんですけど、どう思いますか?」などといった、何らかの返答を期待して他人に呼びかけるタイプの文章でないことは読めば分かると思うのだけれど、こうやってわざわざWEB上にアップロードしている以上は誰かが読んでくれていることを、それが目的ではなくても期待はしているから、コメントやトラックバックが付いたり、ランキングが上がったり、「読者数」が増えたりすると、やっぱりうれしい。
 書いている内容には一貫性がないし、適当といえば適当で、何か書くような出来事がある日はべつとして、ほとんどは書きたいことがないままに書きはじめるので、結論のないまま尻切れトンボで終わっていたり、自分で読み返しても「だから何?」と言いたくなるような文章もあったりするのだが、それがべつに悪いと思っているわけではなくて、むしろ何かもっともらしいことを書くよりも、「書きっぱなし」の状態のほうが、何というか、気が楽だ。

 ところで、ある時期から少し前まで、知識や教養のある人のことを頭がいいと思っていたのだけれど、最近になって考えが変わってきた。といっても、それはもちろん「学歴がある人が頭がいいわけではないことに気がついた」というような意味ではなくて、学歴云々はともかく、たくさん本を読んでいたり、様々な映画や音楽などのいわゆる「芸術作品」に慣れ親しんでいるような人(こういう人のことを、少し前まで「頭がいい」と思っていた)でも、考え方の枠組み自体は案外ありきたりだったり、そのことに気がついていない場合がたくさんあることが分かってきたのだ(もちろん、僕もあまり偉そうなことはいえないのですが)。

 本当に頭がいい人の文章を読むのはおもしろいけれど、よくある考えや言い回しをただなぞっているだけの文章はすごく退屈だ。もっとも、おもしろい文章を読んだ後でそれを書いた人のことを「頭がいい」と思うのかもしれないが、そういう「ニワトリとタマゴはどっちが先か?」みたいな話はまあ置いておくとしても、「頭がいい」ということの定義はとても曖昧で、色々な「頭のよさ」があるんだろうし、誰かのことを「この人は頭がいいなあ」と思ったらその人は「頭がいい」ということになるのかもしれないが、強いていうなら「頭がいい」ということは「見えないものを見ようとする」姿勢を持っていることだ。それは何を「知っているか」ではなく何を「知らない」のかを考え、自分の「知っていること」同士を結び付けて考えることによって「知らないこと」へ向かおうとする、謙虚で大胆な想像力のことだと思う。


Devil's Haircut

 「人妻」というと少し気になるけれど「熟女」という言葉には全然惹かれなくて、「美女」という響きも案外それほど魅力的に感じられず、やっぱり「美少女」というのが一番しっくり(?)くる。
 昨日の深夜、というか今日の午前2時頃なんだけれど、NHKの教育テレビ(3チャンネル)で『トップランナー』という、俳優やスポーツ選手や漫画家や映画監督など様々な分野で活躍する人たちをゲストとして招いてインタビューをするという番組の、以前放送した分の再放送をやっていて、司会というかインタビュアーは本上まなみと山本太郎(その前はたしか武田真治だった)なのだが、今回はゲストとして蒼井優が出演していた。実は、この回は以前に放送したときにビデオに録画したのでいつでも観られるのだけれど、やっぱりというか何というか、チャンネルを変えていたらたまたまやっていたので、ついまた観てしまった。人妻とか熟女とか美女には何かを期待してしまうが(何を?)、美少女というのはただそこにいてくれるだけで何だかうれしくなる。可愛いと思いながら見てしまう。ただそれだけなんだけれど、それだけでいいと思える。
 蒼井優と同じくらい好きなのが宮崎あおいで、まだやっているのか分からないけれど、少し前に2人がファイブミニのCMで一緒に映っていて、やっぱり何だかうれしくなってしまった。

God Save The Queen

 暑い一日だった。冬の寒さと違って、夏の暑さというのはある一定のラインを超えると不快なのを通り越して、逆に気持ち良くなってくる。くらくらするような強烈な陽射しが照りつけ、汗がどんどん流れて、服が肌に張りついてくる。湿気を含んで熱くなった水蒸気みたいな空気を掻きわけて泳ぐように歩いてゆく。あらゆるものに熱が染み付いている。


 朝、ケーブルテレビを観ていたら『ウッドストック』をやっていて、画面のなかのステージではスライ&ザ・ファミリー・ストーンが演奏をしていた。2分くらいで演奏は終わって、40万人分の朝食を配る様子や、会場を提供した農場主のスピーチがあった後で、ジミ・ヘンドリックスが颯爽とステージに現れてアメリカ国家の『星条旗よ永遠なれ』を演奏し、それから『パープル・ヘイズ』に変わった。


Everything Will Flow

 クルマの免許を取ったのは2、3年前だが、教習所に通い始めたのはそこからさらに1年くらい前だった。自動車教習所は入校してから卒業まで(刑務所みたいに"入所/出所"と書きそうになってしまった)の期間がたしか9か月と決まっていて、だらだらと通っていた僕はその期限の5日前にギリギリで卒業した上に、実際に試験場で免許をもらったのはそれからさらに半年後のことで、要するにクルマの免許が必要だったわけでもなく、特に欲しかったわけでもなくて、実は免許を取ってからまだ一度も運転をしてないのだけれど、じゃあどうして教習所に通ったのかというと「なんとなく」としかいいようがなくて、強いていえば「免許を取るため」ではなく「教習所に通う」ということ自体が目的だったというか、あるいはただ単に「みんな持ってるから、とりあえず自分も取っておこう」という程度の気持ちだったのかもしれない。半年くらい前に最初の免許の更新手続きがあったのだが、いま思うと行かなくても良かったかな、とさえ思う。
 クルマの免許に限らず、学校に通ったり仕事を探したりするのも、何か目的があってやっているというよりは、「なんとなく」という部分があって、他人からみると「主体性がない」とか「自分を持て」とかいわれそうだが、僕はすごく優柔不断な上に他人から影響されやすく、しかしそれを悪いともあまり思っていないので、そういう「なんとなく」という気持ちもまた悪いとは思わないし、それはもちろん開き直っているわけでもない。
 免許を取るということは"目的"で、それに対して教習所に通うということは"過程"になるけれど、「ドライブしたい」とか「運転手になりたい」といった"目的"があれば、「免許を取る」ということは逆に"過程"になり、つまり人生にはそういう入れ子構造の"目的-過程"がたくさんあるわけで、たとえば「どうせ死ぬんだから、生きていても意味がない」というよくある言い方があるけれど、死は人生の目的ではないし、生はある目的のための過程ではないと思う。人生は、ただ、ある。いくつもの"目的-過程"という枠の連なりからはみだしてしまった時間は、人を立ち止まらせ、戸惑わせ、迷わせるが、もしかりに「本当の人生」というものがあるとすれば、それは兎や猫や魚の過ごす時間のように、きっと退屈で空虚なものだと思う。けれども、そのような時間の経過を世界のなかでただじっと受け止めることは、ものを作ったり、人々の役に立ったり、何かを成し遂げたりするのとは別の次元で意味のあることだと思う。
 なんだか話が抽象的に飛躍してしまったけれど、僕はいまでも運転はしていないしクルマを持ってすらいない正真正銘のペーパードライバーで、次回の免許の更新(といっても、まだ先のことだが)に行くべきか迷っている。でも「せっかく取ったんだから……」という気持ちで、たぶん行くんだろうな。自転車は好きなんだけどな。

This Is Hardcore

 "ああ明日の今頃は 僕は汽車の中……"というチューリップの『心の旅』という歌があって、「明日の今頃」という言葉の日本語としての奇妙さはまるで「うしろの正面」みたいだけれど、それはともかく、毎日同じパターンの生活を繰り返していると、"明日の今頃も電車に乗ってるんだろうなあ"とか"明日の今頃も風呂に入ってるんだろうなあ"とか思うことが、特に最近よくある。と同時に、そういうときは「いまは昨日の"明日の今頃"なんだなあ」とも思っている。
 普通、時間を考えるときは普段は現在を中心に置いて、過去と未来の両方に向かって伸びてゆく一本の直線のようにイメージしているだろう。たとえば"未来へ向かう"という言い方があるが、こちらから自発的に動かなくても、未来は勝手にやってくるわけだが、"未来へ向かう"というときは"過去・現在・未来"の直線の中心を現在ではなく未来に置いているのであって、それはすべての人にとっての一般的な未来ではなく、夢であり願望であり希望であるところの"私の未来"ということだ。また逆に、過去を中心に置くときは、"あの頃は良かった"とか"時の経つのは早いものだ"というふうに考える。

Cosmic Girl

 坂を登って墓場の近くを通り過ぎると寺と神社があって、その前がゴミ捨て場になっている。裏道に入って歩いて行くと造りかけの家があって、朝の8時頃にそこを通ると大工たちがラジオ体操をやっている。ほとんど練習をしなかったので高校に入る頃にやめてしまったのだが、近所のビルの8階には小学校に入る前から通っていたピアノ教室があって、その先にある大きな坂では毎年ゴールデンウィークになると祭りの縁日が並ぶ。坂の途中の細い路地に入ってゆくとやがて中学校の前に出る。かつて広い公園のあった場所は昔の様子を思い出せないくらいに変わってしまい、ブランコもシーソーもすべり台もなくなり、今では空が見えないくらいに高く巨大なマンションが建ち並んでいる。その裏にある道では木々の枝が頭上に覆い被さるようにしてアーチを作り、道の片側に張られた金網の向こうは中学校の裏山で、そこを野良猫たちがよくうろついていて、そこを通り過ぎると図書館や保育園やスーパーマーケットや楽器屋がある。