出井和俊の"日々のレッスン" -10ページ目

Getcha Groove On

 デビューした頃の浜崎あゆみはけっこう好きで、1stアルバムの『A Song For ××』が発売されたのがちょうど僕が高校を卒業する年の元旦だったのだが、実際に店頭に並んだのはその前日の12月31日で、その日に近所のCD屋に買いに行ったのを覚えている。といっても、浜崎あゆみのCDを買ったのはそれが最初で最後で、その後はだんだんと興味が薄れていき、いまではまったくといっていいほど関心がないのだけれど、最近またその1stアルバムを引っ張り出して聴いてみたら、やっぱり良かった。
 デビューしてから現在まで一貫して、浜崎あゆみは歌詞をすべて自分で書いているらしいのだが、歌い方は当時といまではだいぶ変化している。デビューの頃はお世辞にも上手いとはいえなくて、"歌わされてる"ような感じもあるのだけれど、テクニックのなさが逆に声質を際立たせているというか、メロディーがストレートに響いてくる。こんなことを書くのは評論家ヅラをしているようであまり好きじゃないのだが、いまの歌い方は妙に演歌っぽいビブラートがかかっていて、本人はそう思っていないかもしれないけれど、何だか「私って歌上手いでしょ?」といわれているような圧迫感を感じてしまって、較べていいのかどうか分からないが、森山直太朗やマライア・キャリーの歌を聴くときも同じような圧迫感を感じることがある。
 誰かが「ロックは声」といっていたが、テクニックは後からいくらでも学ぶことができても、声は違う。声とは、その持ち主が選んだものではないし、自分ではコントロールできないものだ――というか、それをコントロールするためのものを普通はテクニックと呼んでいる。たとえば、化粧をしても顔が変わらないのと同じことだと思う(違うか?)。音楽だったら、よく「バンド・マジック」という言い方をするけれど、それもやっぱりコントロールできない何かを表現する言葉で、音楽に限らず小説も映画もスポーツも、テクニック以上にそういうコントロールできないものによって面白くなるような気がする。

Only The Lonely

 女子サッカーの日本×北朝鮮戦の後で日本テレビの『キスだけじゃイヤッ!』を観ていて、それが終わった後で『スーパーテレビ 衝撃! ひきこもった息子……そのとき家族は』を観た。
 僕の周りにはひきこもりの人はいないので――というか、ひきこもっていたら出会うこともあまりないのかもしれない――実際の"ひきこもり"がどのようなものなのかはよく知らないのだけれど、一般的なイメージでは"ひきこもり=暗い"。
 よくワイドショーなどでも使われる"心の闇"という言葉は、世間一般の視点からは窺い知ることのできない反社会的な何かに対する警戒心のようなものを含んだ言い方で、「暗い」という言葉も「闇」という言葉も、見えないものやよく分からないものに対する不安を自然と醸しだしていて、それこそまさに「不明」ということなのだけれど、見えないものが存在しないわけではもちろんなくて、光のなかでも闇のなかでも、在るものは在り続ける。
 ひきこもりの人たちが何を考えて、何を感じているのかは他人には分からないけれど、それでも彼らの心には"何か"が起きているわけで、"心の闇"という言葉を使ってしまうと、そこには闇を光のもとに曝しだそうとする力があるだけで、ひきこもりの人たちが社会復帰をすることはそれでそれで良いことだとは思うけれど、結局その"何か"が何なのかが問われることはなく忘れられてゆき、社会に回収されてしまう。
 もちろんひきこもりではない人たちが何を考えて、何を感じているのかも我々には知ることはできないのだけれど、そういう意味ではひきこもりであろうとなかろうと"心=闇"なのに、そういう普通の人に対しては"心の闇"という言葉が使われないのは、やっぱり"心の闇"とは心ではない何かについて述べている言葉なんじゃないか……とここまで書いてテレビのチャンネルを変えてみたら、10チャンネルでもひきこもりの子が扱われていて、その子が笑っていた。

Take The Long Road And Walk It

 真昼。商店街には誰も歩いていなかった。どこにいるのかは分からないが、蝉の声がずっと聞こえている。斜め上から強い日差しが降っていて、身体の半分がそれに曝され、もう半分は陰になっている。裏通りを歩いていって坂を下ってゆくと、少し急な石段があって、その一番上に腰掛けて本を読んでいる上半身裸の男性がいた。
 駅ではスタンプラリーというのをやっていて、構内にも電車のなかにも親子連れがたくさんいた。電車に乗って次の駅で降りると、丸井の前でストリートライブをやっているバンドがいた。丸井でバッグを買った。そのまままた電車に乗ってもと来た駅で降りた。
 駅前のビルのなかにある新星堂に入ったらSMAPの"BANG! BANG! バカンス!"が流れていて、それが終わったと思ったらまた最初から流れて、つまり繰り返し繰り返し延々と流れていたので、そのうち段々とムカついてきて、SMAPってもう根本的にひどいなと改めて思った(同じジャニーズでもKinki Kidsはけっこう好きなんだけれど)。

 家でテレビのチャンネルをコロコロ変えながら観ていたら、NHK教育テレビ(3チャンネル)で小動物の飼い方特集みたいな番組をやっていて、そこに映っていたウサギやフェレットの可愛かったこと!

Love Comes In Spurts

 昨夜、大学のときの知り合いから一年ぶりくらいでメールが届いて新浦安の花火大会に誘われて、もちろん彼以外にも誰か来るんだろうとは思っていたけれど、きょう行ってみたら彼の友達か知り合いか同級生かよく分からないのだが、イランやモンゴルや中国から来たという人たちが集まっていて、一緒に送迎バスに乗って花火会場まで行った。
 イラン人同士はペルシャ語で話し、モンゴル人と中国人は英語を話したけれど、みんな日本語も分かるので日本語でも話した。クーラーボックスで冷やしたビールやサワーを飲んで、たこ焼きやお好み焼きやポテトチップスを食べながら、2時間くらい花火を見ていた。
 花火が終わってからも1時間くらい会場に残って酒を飲んでいたので帰りのバスがなくて、駅までの暗くて長い道をみんなでひたすら歩いた。
 新浦安から京葉線に乗って、東京駅でみんなと別れてから、山手線に乗り換えて家の最寄りの駅で降りたのだけれど、そこの駅前にある昔(といっても、2、3年前だが)アルバイトをしていたコンビニに立ち寄ってみたら、当時一緒に働いていた人がいまもまだ働いていた。
 ずいぶん会っていない人と、立て続けに会った。こういう日のできごとを10年経ってもまだ覚えていられるんだろうか、それともそのうちに忘れてしまうんだろうか、と思った。

Sunshine Surperman

 山中貞雄『人情紙風船』をビデオで観た。山中貞雄が監督した26本の映画のうち、現在残っているのはたったの3本しかないらしくて、そのうちの一本である『百万両の壷』を大学の映画論という授業で観たことがあったけれど、きょう観た『人情紙風船』も素晴らしい映画。
 時代劇は古くならない。たとえば、10年前、20年前のテレビドラマなんかを観ると、内容の良し悪しはともかく、どうしても古さというか時代の経過を感じてしまう。それは、そこに描かれている時代と現在を較べているからだけれど、時代劇を観るとき、江戸時代と現代とを較べたりはしていない。あまりにも離れ過ぎいて較べることのできない、隔絶され、閉じられた一つの世界として時代劇はある。
 WEB上で読むことのできるいくつかのレビューだと、この映画は「暗い」「悲しい」「寂しい」ということになっていて、ビデオのパッケージにも「絶望的」という言葉があったのだが、実際にはあまりそういう感じはしなくて、たしかに浪人夫婦が心中をするラストなんかは「悲しい」どころじゃないんだけれど、随所に笑いがあって、全体が重苦しい雰囲気に染まっていないのがよかった。
 人間がみんな活き活きしていてとてもリアルに感じられたのだけれど、江戸時代の人間なんてもちろん見たことないわけだから、その「リアル」は本物に忠実という意味ではないし、また「本当のような嘘」という意味でもない。「リアル」という言葉はどうしても「本物-偽物」という対の関係を考えてしまって誤解を招きやすいというか、それが何なのかは上手くはいえないけれど、そういう対の関係を越えたところにも「リアル」はあるんじゃないかと思う。

Across The Universe

 新宿某所を通りかかったらガムラン音楽の生演奏をやっていた――という珍しすぎるシチュエーション。ガムラン音楽のCDは2、3枚持っているものの、バリ島に行ったこともないし、ガムランの生演奏を聴いたのも初めてで、そういえばけさの「めざましテレビ」の占いでは最下位だったけれど、きょうはラッキーだったと思う。

 ガムランの音は滑らかではなく、異物のように、塊のように耳に入ってくる。びっくりするくらい大きな音が鳴らされるけれど、不快ではないうるささがあって、それが一転して静かなパートに入るとよりいっそう静かに聞こえて、何も知らない人間が「バリ島」という言葉から勝手に想像しているだけかもしれないけれど、その静けさは夜に鳴く虫の声や森に降る雨の音を思わせる。

 「音」がなければ「静けさ」も感じることができなくて、「静けさ」を感じているとき、たとえば夜中にベッドのなかで横になっていると時計の秒針が刻むチッチッという音が聞こえていたり、テレビもつけず音楽も聴かず部屋で一人でぼーっとしていると冷凍庫のなかで氷ができる音がしたり、そういう音が聞こえたあとではよけいに静けさを感じる。

 ガムランの演奏が終わってから15分くらいの休憩を挟んで、ケチャの演奏があった。それを観て、聴いて、終わったのは夜の9時頃だった。


Another One Bites The Dust

 どこかで読んだ話だけれど、同じ言葉でも漢字よりもひらがなで、ひらがなよりもローマ字で書かれたもののほうが、それを読んで理解するのに時間がかかるという。具体的にいうと、たとえば「沖縄」よりも「おきなわ」、「おきなわ」よりも「OKINAWA」のほうが、たしかにパッと見てその意味を理解するのにほんの僅かだが時間がかかることが、感覚として分かると思う(もちろん、日本語を使う人の場合だが)。
 「○○=××」(A)と「○○は××である」(B)は、一見、同じことを意味しているようでいて、実は違うのではないかと思う。というか、意味していることは同じかもしれないが、意味の伝達の方法が違う。
 "2+3=5"だろうか。たしかに"2足す3は5である"。しかし「"2+3=5"≠"2足す3は5である"」あるいは「"2+3=5"は"2足す3は5である"ではない」ように思う。
 (A)は見た瞬間に「○○=××」という全体が同時に、つまり漢字の「沖縄」のようにダイレクトに意味が飛び込んでくるが、(B)のほうはそうではなくて、「おきなわ」や「OKINAWA」を読んだときにそれを「沖縄」に頭の中で変換する作業が必要なように、「見る⇒理解する」ではなく「読む⇒考える⇒理解する」というプロセスを経ることになる。

The Song Remains The Same

 音楽を聴くようになったのはたぶん人より遅くて中学2年か3年の頃だったと思うが、その頃は「アルバム」という言葉が写真帳としてのアルバムではなくてレコードやCDのことであることも知らなくて、周りでは安室奈美恵やMr.Childrenや槙原敬之やTRFなどが流行っていたのだけれど、英語の授業で聴いたカーペンターズをきっかけに、あるいは家で観ることのできたMTVの影響もあってか、クイーンとかビートルズとかサイモン&ガーファンクルとかエルヴィス・プレスリーとか、当時は僕はそういうのばかり聴いていて、おかげで流行の音楽を聴くという習慣が身に付くことなく、いままでわりと好きなものを好きなように聴いてきた(といっても、本来そういうものだと思う)。
 MTVといえば、当時のMTV(MTVジャパン)はいまと違って、いまは90年代より前の音楽はほとんど流れなくなってしまい、その代わりに本場のMTVでやっている番組を放送したり、映画の番組があったり、MTVミュージックアワードという賞があったりしてバラエティーに富んでいる感じなんだけれど、当時は本当にただひたすらPVが流れ続けるようなチャンネルだった。しかも、流れるPVにも何の一貫性もなくて、たとえば同じ番組のなかで、ニルヴァーナ、宇多田ヒカル、ジョン・レノン、ボブ・マーリィ、エイフェックス・ツイン、スティーヴィー・ワンダー、モーニング娘、ガンズ・アンド・ローゼズ、バグルスなどが、ダーッと放送されるような感じで、その頃といまとどっちが好きかは人それぞれだと思うけれど、僕は当時のMTVの「節操のなさ」とでもいうような、そんな雰囲気のほうが好きだった。


Sometimes You Can't Make It On Your Own

 夜8時頃、地下鉄の駅を出て少し歩くと雨が降り出した。38階建てのマンションと芝生で覆われた小高い山に挟まれたうねうねと曲がりくねった暗い道の両側には、高さ2メートルほどの細長い柱の上にバスケットボールくらいの大きさのランプを乗せた街灯が一定の間隔で並んでいて、その道を通り抜けて家に辿り着いてしばらくすると雨が土砂降りになった。

 いま38階建てのマンションの建っている場所は、2、3年前までは駐車場だった。もっと昔、20年くらい前には、詳しい様子は思い出せないのだけれど、幼稚園か小学校の時の友達だった「ミズノヤくん」という子の家があったことは覚えていて、僕の家から歩いて1分かからない距離にあるその家に、1度だけ遊びに行った記憶がある(もしかすると、何度も遊びに行ったのかもしれないけれど、覚えていない)。

 一方、芝生で覆われた小高い山のあった場所には、10年くらい前には古い一軒家があって、僕の実家は僕が中学生の時に1度建て直しをしたのだけれど、その工事をしているあいだ、僕と僕の家族はその古い家に一時的に、半年くらい住んでいた。廊下のないおかしな構造の家で、一番奥にある台所に行くためには全部の部屋を通らないといけなかった。

 いまではそのおかしな構造の一軒家も「ミズノヤくん」の家もないのだけれど、夢の中にはときどき出てくることがあって、38階建てのマンションや芝生で覆われた小高い山は滅多に夢には出てこない。


Are You Gonna Go My Way

 隣の家のベランダでジョウロで花にやっていた水が風に流されてきたような、雨とは呼べないくらいの量の雨が午前中に少しだけ降って、その後はずっと曇っていた。カラスがずいぶん低いところを飛んでいた。

 品川駅の港南口は昔の様子が思い出せないくらいに今では変わってしまっていて、きょうは和幸でとんかつを食べたのだけれど、レストラン街のあるビルには階段やエスカレーターがいくつもあったり、曲がり角が直角じゃなくて60°くらいになっているせいでどっちを向いているのか分からなくなったり、通路や壁の見た目もどれも同じような感じで、けっこう複雑な道のりだった。

 本屋に寄ってから帰る途中、港南口の前でストリートライブをやっていて、立ち止まってそれを見ていたらアシスタント(?)の人に声をかけられてパンフレットをもらった(TAG LABORATORY という団体が定期的にやっているライブらしいので、興味がある人のために代わりに宣伝しておきます)。

 家に帰ってきてから他の人のブログをいくつか読んでいたら"生きる意味って何?"ということについて書かれたブログが2、3目に止まって、「そういえば中学か高校の頃にそんなことを考えてたなあ」なんて思い出したのだけれど、きょう読んだブログに書いてあったのはどれも"愛する人のために生きる"とか"幸せになるために生きる"とか"死ぬために生きる"とか"生きる意味を探すために生きる"とかだいたいそういう内容で、他人のそういう考えを否定したり批判したりしても仕方ないし、そういうつもりもないのだが、分からないのならとりあえず分からないままで考えればいいのに、みんな簡単に答えを出しすぎというか、答えを出すことを急ぎ過ぎなんじゃないの、と思った。