出井和俊の"日々のレッスン" -8ページ目

Memory Of Trees

 矢沢あいの『NANA』はまだ読んだことがないけれど、たまたま『天使なんかじゃない』を最初から最後まで一気に読んだら、とても面白かった。
 そういえばたしか小学校の頃に『天使なんかじゃない』は『りぼん』(妹が買っていた)で連載が始まって、第1話からリアルタイムで僕も読んでいたのだった。第1話の中の"パンツ見えてる"というセリフをなぜか覚えている。で、ついでに当時連載されていた他の漫画も芋づる式にいくつか思い出した。といっても、内容はほとんど覚えていないけれど、『ハンサムな彼女』とか『銀色のハーモニー』とか『ときめきトゥナイト』とか『姫ちゃんのリボン』とか『有閑倶楽部』とか……意外とタイトルは忘れてない。『天使なんかじゃない』の主人公の彼氏は「大地」だと思っていたけれど、今回読み返してみたら全然違って「晃(あきら)」だった。でも「大地」という名前の男の子が登場する漫画は『りぼん』で連載されていた気がする。ついでにいうと『ハンサムな彼女』の主人公の女の子はたしか「未央」で、『銀色のハーモニー』には「琴子」という女の子(たぶんこれも主人公)が出てきた……と思う。『天使なんかじゃない』のキャラクターで一番好きなのは「マミリン」だ。
 『りぼん』を読まなくなって(というか、妹が買わなくなって)から、しばらくして『週刊少年ジャンプ』を買うようになり、『ドラゴンボール』とか『ジョジョの奇妙な冒険』とか『るろうに剣心』とかを読んでいたのだが、ギャグ漫画というと今でも『りぼん』に連載されていた時に読んだ、岡田あーみんという人の描いた『こいつら100%伝説』という漫画を思い出す。画も設定もストーリー展開も明らかに『りぼん』の他の漫画からは浮いていたのだけれど、妙にテンションの高いギャグ漫画で、僕は読むたびに毎回笑わされていた。


岡田 あーみん
こいつら100%伝説 (1)

Message In A Bottle

 ここで書いている文章は一応「真面目モード」ではあるものの、「本気モード」ではないので、適当に書き散らかした自分の文章を読み返してみて「つまらない」と思うことはある。
 僕は高校の三年間ずっと弓道部に所属していて、「弓道をやると礼儀作法や集中力が身に付く」という俗説のようなものがあるが、礼儀はともかく僕は集中力がない。ついでにいうと根気もなくて、たとえばエレキギターは数ヶ月練習して飽きてしまい、その後何度か触ってみたことはあったけれど、いまでは全然弾いていない。だからこうやってブログの更新が滞りなく続いているのは自分でも意外なんだけれど、ギターといえばここで毎日こうやって文章を書いているのも、何となくギターを適当に爪弾いているのに似ているかもしれない。何を弾くか事前に決めているわけではないけれど、思い浮かんだフレーズを弾いているうちに、次第に曲が生まれてくる、あるいは曲に「なる」ような感じだ。音楽だったら録音しなければ残らないから、正確な比喩としては「ギターを適当に爪弾いて、それを録音したものに似ている」としたほうがいいのかもしれないが、そんな瑣末なことはともかく、そうやって適当に書き連ねたものが「曲になる」こともあれば、ならないことももちろんある。しかし、どちらの場合だろうと、それらすべてをひっくるめて意味がある(そもそも「上手く」書こうと思ってない)。それは僕一人に限ったことではなくて、ホームページの日記やブログを書いている人は、程度の差はあっても誰でもそうだという気がする。とはいえ、具体的にどんな意味があるのかはここでは上手くいえないけれど、たとえば「考えたことを忘れないようにするため」とかそういう意味ではなくて(なにしろ、書く前ではなくて、書きながら考えているのだから)、ノートでもメモ帳でもなくインターネット上にアップロードされている以上、それはたぶん「書く」ことと同じかそれ以上に「読まれる」ことによって発生するような意味だと思う(当たり前だけれど、「書く」というのは「読む」ことができるような形にすることだ)。
 ここまで書いたことが、最初に書いた「"真面目モード"ではあるけれど"本気モード"ではない、云々」というのと繋がっているのかどうか自信はなくて、その辺をいま削除しようかと思ったのだけれど、繋がりがあってもなくてもどっちでもいい気がしてきて、そのまま残しておくことにした。自分が書いたものがたとえどんなにつまらなくて、くだらなくて、平凡で、浅はかだと感じられても、書かれなければ――ということは読まれなければ何かを感じること自体ないのだから、何も書かず、何も読まず、何も感じず、何も気付かないという状態よりは、何かが「ある」ことのほうが「ない」よりもたぶんずっといいのだ。

I Against I

 ブルーハーツだかハイロウズだかの曲の中に"僕らしくなくても僕は僕なんだ"という歌詞があったのを思い出した(タイトルは忘れた)。

 自分探しというのがブーム(?)になっているけれど、「化けの皮を剥がす」とか「猫をかぶる」とか「上っ面」とか「裸の気持ち」とかいう言い回しを使うとき、まるで"本当の自分"というものが"偽物の自分"という「着ぐるみ」みたいなものの中にあるような視覚的なイメージを知らず知らずのうちに思い浮かべてしまっている気がするのだが、もちろんそれは単なるイメージに過ぎなくて、たしかに「本当の自分はこんなものじゃない」とか「本当はこんな人生を送るはずじゃなかった」とか思うことはあっても、だからといって"偽物の自分"というのが実際にあるわけではなくて、そうだとすると「偽物」がないのだから「本物」もないことになるのだが、強いていうなら、今の自分が「本当の自分」なのだ、きっと。音楽繋がりでもう1ついうと、元Judy And MaryのヴォーカルだったYUKIは"自分探しなんかやめようよ、本当の自分はここにいるじゃん"みたいなことをたしかどこかで言っていた。
 自分探しというのが具体的に何をするのかイマイチよくわからなくて、たとえば学校やカルチャースクールに通ったり、色々な仕事を経験したりすること、つまりさっき言ったような「今の自分=本当の自分」を変えようとすることならば、僕の言っていることはただの屁理屈になるのかもしれないけれど、"やりたいこと"が見つからない人というのは、見つからないというよりも"やりたいこと"がそもそも無いんじゃないだろうか。といっても、何もしたくないというわけでもなくて、「何かをしたい」という気持ちだけはあるから、そういう気持ちだけが先走って、存在しないものを探そうとして「見つからない」と嘆いているのだと思う。夢中になれるものや熱中できるものがなければないで構わないと思うし、"本当の自分"も"やりたいこと"も探して見つかるようなものじゃないだろうから、とりあえず絶対にやりたくないことさえやらないでいれば、何か1つのことに没頭して突き進むような人生も、そういうものに出会えずに悩んだり迷ったりする人生も等価だという気がする。少なくとも、"やりたいこと"がなくてもそんなに気にすることはないと思う。

Just Like Honey

 「酔う」というのは本人にとっては楽しいことであるけれど、周りの人も同じように楽しいかというと、必ずしもそうとは限らない。「酔っている文章」というのもまた同様に、書いている当人は楽しくても、それを読む人にとってはたぶん退屈なものだ。それはウェブログでも小説でもホームページの日記でも掲示板の書き込みでも同じだと思う。
 「酔っている文章」の中心には"私"がある。ディズニーランドに行きました、靴を買いました、焼肉を食べました、友達に会いました、映画を観て感動しました、云々。ブログでよく見かける文章だけれど、その主語はどれも"私"だ。たとえば、俳優とかミュージシャンとかスポーツ選手などの有名人の書いたものなら、その人に興味がある人にとってはそれなりに価値があるんだろうけれど、それ以外の人にとってはどうでもよくて、ましてや僕みたいな一般の人が同じようなこと――いわゆる「内輪ネタ」を書いても、余程のことがない限り、たぶん誰も興味を持たない。ある"私"は、同じような境遇にある別の"私"にとっては共感しやすいものだと思うけれど、そこには他人がいない。他人がいないということは想像力がないということだ。そういう"私"が中心にあるような文章を、良い-悪いはともかく、僕は好きではない。
 身の回りの出来事以外でも、もちろん全部ではないけれど、たとえばポツリポツリと一行や二行の詩を綴っているようなブログや、好きな異性への想いを書き連ねているようなブログがあるけれど、それにいちいち共感するほど優しくない僕みたいな人間は、その背後にある「私を見て!」という無意識の(?)アピールに嫌気がさしてしまい、退屈に感じてしまう。といっても、ブログを書くこと自体が自意識過剰なところがあるとは思うけれど、このブログで何かを書くときはできるだけ「シラフ」でいるように心がけているつもりではあります。

Higher Than The Sun

 花火ではなくて雷鳴だった。暗い雲の奥から夜空を激しくノックするような轟音が何度か響いてきた後、突然、強い雨が降りだした。窓ガラスの向こう側を水滴が筋になって絶え間なく流れ落ちてゆく。空中に張り巡らされた何本もの黒い電線が闇の中に浮かび上がり、水が滴り落ちているのが見える。明滅する風景。闇、光、闇。雨音。水の粒の一つ一つがコンクリートや鉄やガラスや木や石を打つが、それら個々の音を聞き分けることはできず、耳に入ってくるのは全体として鳴っている音だけだ。

Black Hole Sun

 いまから50年くらい前にメキシコのフアン・ルルフォという人が書いた『ペドロ・パラモ』という小説があって、去年の2月頃に初めて読んだのだけれど、昨日何となく本棚から引っ張り出してまた読み返してみた。
 文庫にして200ページほどのこの素晴らしい小説は、フアン・プレシアドという青年が、母親が息を引き取る間際に教えてられてやってきた、彼の父親であるペドロ・パラモなる男が住んでいるという町・コマラに足を踏み入れるところから始まる。
 読み返してみたところをいくつか引用してみた。


 「行くか来るかで、上りになったり下りになったりするんだよ。行く人には上り坂、来る人には下り坂」


 おれは、おふくろの追憶や溜め息の端々に顔をのぞかせる望郷の思いをとおして、コマラを見ているような気がした。おふくろはコマラを思いだし、そこに帰ろうと考えては、溜め息ばかりついて暮らした。だが二度とコマラには戻らなかった。いま、こうしておれがおふくろの代わりにやってきた。目の前に広がる光景を見たおふくろの目は、このおれの目だ。おふくろの目で、おれがまわりを見ているからだ。


 「暑いな、ここは」

 「ああ、けどこんなのはなんでもありゃしねえ」とむこうが答えた。「これくらいで驚いちゃいけねえよ。コマラに着きゃもっときついんだ。あそこじゃ、火にあぶられてるっていうか、ま、地獄の入り口ってとこだね。あそこで死んだ連中は、地獄に着くってえと、たいがい毛布を取りにお戻りになるってくらいのもんだ」


 どこの町でも子供たちが表に出て、昼下がりの空気いっぱいに大声を張りあげながら遊びまわる時間だった。黒ずんだ壁までが、黄色い陽光を浴びて照りはえる時刻だった。
 少なくともついきのう、今時分のサユラはそうだった。まるでその一日から巣立ってゆくかのように、あたりの静けさを破って羽ばたきながら飛ぶ鳩の群れも見えた。飛びまわっては屋根に舞い降りる鳩たち。そこへ子供たちの叫び声が飛び交い、暮れなずむ空の中で青く染まっていくように感じられた。
 しかし今は、もの音ひとつしないこの町にいる。街路に敷き詰められた丸石の上に落ちる自分の足音が聞こえた。おれのうつろな足音が、日没の太陽に染められた壁にこだまして繰り返される。


 風と太陽、そして雲。はるか上には青い空。そしてその向こうには、おそらく歌声が聞こえるだろう。もっと素晴らしい歌声が……要するに希望がある。私たちの苦しみをやわらげる希望がある。


(訳:杉山晃/増田義郎)

People Everyday

 部屋の掃除をした。ゴミ箱を空にしてから、机の上の本や雑誌やCDを棚に戻して整理して、床に掃除機をかけただけなんだけれど、随分すっきりした。もうずっと弾いていないギターが埃だらけになっていた。出窓のところにCDラックがあって、全部はそこに収まりきらないので、よく聴くのは手前に平積みになっていて、あまり聴かないのは奥のほうに並んでいる。机の下には中に何が入っているのかわからないダンボール箱が2つあって、タンスの上にはケースに入った一眼レフがある。窓を開けると熱風が吹き込んできて、一気に気温が上がった。ベランダでは黄色やピンクや水色のタオルが物干し竿で揺れている。雨は降らない。録画したまま観ていない映画のテープが山積みなっていたので、適当に整理した。テレビではゴルフ中継をやっている。別のチャンネルではニュースをやっていて、職人が唐辛子入りの飴というのを作っていた。

True Nature

(きのうのつづき)


 谷川俊太郎の『コカコーラ・レッスン』という詩のなかに"そうさ、これは海なんだよ、海という名前のものじゃなくて海なんだ"という一節があって、この「海」を「兎」や「木」や「魚」に置き換えてみても同じことがいえるけれど、「愛」という言葉の場合には「愛という名前のものじゃなくて愛なんだ」といえるような"これ"が何なのかがとても曖昧で、途端にわからなくなってしまう。それは「愛」だけじゃなく、「神」や「私」や「人生」についても当てはまる。
 しかし、それでも「愛」は存在する――あるいは「愛」と呼びたくなるような何かが存在し、我々はそれを「愛」と呼んでいる。
 「兎」や「海」や「木」や「魚」などと、「愛」や「神」や「私」や「人生」などが違うのは、前者は身体によって知覚されるが、後者は思考によって表れるということだ。そして、前者は身体の持ち主である"私"がいなくても存在するが、後者はそうではない。このことは「愛とは何か?」「私とは何か?」「人生とは何か?」と人が考え、問いたがることにも関係があるかもしれない(たぶん、それらと同じレベルで「兎とは何か?」とは問わないだろう)。
 もしかすると、「人間を創り、生命を与え、生かしているのは神なんだから、私がいなくても神は存在するんじゃないの?」と反論する人がいるかもしれないけれど、いまは神でも愛でも人生でもなく言葉について考えているのだから、神が実際に存在するかどうかにはとりあえずは触れないことにするが、ただここで言いたいのは、神が存在するとかしないとかいうのもやっぱり言葉であって、それを使うのは、たとえば眠っているあいだや死んでしまった後には存在しないであろう"私"だということだ。


Give It Away

 言葉はどこかで必ず現実と繋がっている。たとえば「歩く」と「笑う」という言葉は文法的にはどちらも動詞(自動詞)だが、現実の行為としての「歩く」と「笑う」はそのメカニズムが異なるように思う。
 大雑把にいってしまえば、「歩く」という行為は理性的であり、一方「笑う」は感情的な行為だ(ホントに乱暴な分け方だが)。どこへ向かい、どこをどう歩こうと、それは自分の意志で歩いているのだから、同じように自分の意志で立ち止まることができ、したがって「立ち止まる」も理性的な行為だが、「笑う」というのは自分の意志から生まれる行為というよりは、テレビなり漫画なりふと思い出した昔の出来事なり誰かがボソッといった一言なり、とにかく自分の意志の外にある何かに刺激され、影響されて引き起こされた行為であり、要するに「笑う」というのは「何かに笑わされて、笑う」ということだ(もっとも、何もないのに一人でニヤニヤしている人もときどきいるけれど)。
 また、たとえば「兎」と「愛」という言葉についても考えてみると、「兎」という言葉によって現実の世界の「兎」をイメージすることはできるが、「愛」という言葉から特定の人や場所や物や記号を連想することはあっても、直接に「愛」をイメージすることはできない――というか、愛は兎と違って見たり触ったりできる物質としては存在しないのだから、イメージのしようがない。つまり、愛は言葉がなければ認識されず、「愛」という言葉によってはじめて立ち上がってくるものだが、しかし「愛」という言葉が愛なのではない。


(たぶん、つづく)


Town Called Malice

 お盆の帰省ラッシュが始まった、とテレビのニュースでいっていた。僕は生まれも育ちも東京なので、「田舎に帰る」という感覚がいまいちピンとこない。子供の頃は夏休みやお正月になると両親の実家や親戚の家に連れていかれたが、それはもちろん僕にとっては「帰る」ではなく「行く」という感覚だった。上京して一人暮らしをしている人が福岡や高知や岩手や北海道などの実家=田舎に帰るのと、東京で一人暮らしをしている人が同じ東京にある実家に帰るのとでは、理屈の上では同じことではあるけれど、何か違うような気がする。といっても、もちろん「東京は都会だから"田舎に帰る"というのとは違う」なんて意味ではなくて、それは帰るための時間と距離の違いなのかもしれない。子供の頃、千葉にある母の実家に行くときには大体1時間くらい、静岡と群馬にある親戚の家に行くときにはそれぞれ2時間くらいかかった。そんなに時間をかけてどこかに行くというのは子供の頃にはあまりなかったので、大袈裟にいえば非日常の世界に旅立つような感じで、向こうに着くまでのあいだ電車に揺られながら、「いまどの辺にいるんだろう」「あとどれくらいで着くんだろう」などと考えていた。「イナゲ」とか「ゴテンバ」とか「タテバヤシ」とかいう見慣れない駅名を目にするたびに、自分はずいぶん遠いところに来てしまったんだと感じていた(実際はそんなに遠くないのだが)。旅行に行くのも同じようなものかもしれないけれど、旅行が知らない場所を通って知らない場所に行くことであるのに対して、帰省というのは知らない場所を通ってよく知っている場所に行くことだから、やっぱり同じではない。学校や会社に行くのと同じ圏内に実家があると、そういう日常を離れるような感覚を体験しにくいと思う。そうかといって、何時間も電車や飛行機に乗って田舎に帰るのもイヤだけど。