出井和俊の"日々のレッスン" -6ページ目

Music Is My Radar

 『リヴ・フォーエヴァー』をDVDで観た。
 「ブリットポップ」 を扱ったドキュメンタリー映画で、オアシス、ブラー、パルプ、マッシヴ・アタック、スリーパー等(あとオアシスのコピーバンドも登場!)、当時の音楽シーンの中心にいたミュージシャンのインタビューを中心に進んでいくのだけれど、演奏シーンは意外と少なかった。「ブリットポップ」というのは音楽のジャンルというより社会現象のようなもので、そこには<アメリカ×イギリス><オアシス×ブラー><保守党×労働党>などの様々な「対決」が起こっていた――ということらしい。
 オアシスの曲は、高校の文化祭でクラスメイトがバンドを組んで”Wonderwal”を演奏していたのを聴いたのが最初で、つまりコピーを聴いてからオリジナルを聴いたのだった。ブラーのほうは、同じ頃に観ていたMTVで”Beetlebum”という曲が流れていて何となく知って、その頃はもう”ブリットポップ”は下火になりつつあったのだけれど、僕はそんなことは全く知らずにアルバムを買って聴いていた(ついでにいうと、きのう思い出したのだが、そのアルバムは同じ部活にいたM君に貸したままになっていたのだった)。
 パルプというバンドは何曲か聴いたことはあるもののほとんど知らなくて、それはたぶん僕だけじゃなくて日本だとすごく知名度が低いと思うのだが、この映画を観た限りでは、イギリスではすごくメジャーなバンドらしかった。マッシヴ・アタックは、これもやはりMTVで観た”Protection”という曲のミュージック・ビデオを観たときに知って、最初は「ちょっと風変わりなよくわからない曲」くらいにしか思わなかったのだけれど、それからしばらく経ってから”Blue Lines”というアルバムを買って聴いたらすごく良くて、いまでも時々聴いている。スリーパーというバンドは全然知らなかった。
 イギリスのバンドだと、あとはレディオヘッドとか、マニック・ストリート・プリーチャーズとか、マンサンとか、スウェードとか、オーシャン・カラー・シーンとか――当時は本当にMTVをよく観ていたので、これらのバンドもほとんどすべてMTVで知った。どのバンドも「もの凄く好き」というほどではなくて「けっこう好き」くらいで、いまでは「まあまあ好き」という程度なんだけれど、ウォークマンで聴くためにCDからカセットテープにせっせと録音していたこととか、学校から帰る途中で新しく発売されたアルバムを試聴したこととかを思い出して、ふと「もう21世紀なんだなあ」とバカみたいなことを思ってしまった。


メディアファクトリー
LIVE FOREVER
オアシス
モーニング・グローリー
Massive Attack
Blue Lines

Fake Plastic Trees

 うろ覚えなのだが、以前、作家の江國香織さんがインタビューだかエッセイだかで「言葉は一箇所を指し示すことしかできないけれど、絵は全体を一度に見せることができるから、そういうところは羨ましく思う」というような内容のことを言っていたように思うのだけれど、もしかすると僕の思い違いで、別の人が別の内容のことを言っていたのを間違って記憶しているのかもしれないので確かめてみたら、本棚にあった江國香織さんの『泣かない子供』というエッセイ集に収められている『世のなかの、善いもの、美しいもの』という文章の中にこう書いてあった。


 ……私はよく、絵がかけたらいいなと思う。絵は、ただそこにあるだけのものを、ただそこにあるだけの風に描ける。文章ではそうはいかない。
 たとえば、一つの風景を描写するとき、はじの方に花が咲いているとして、それはほんとに目立たない小さな花で、たいていの人は見のがしてしまうくらいひっそりとしているのだけれど、でも神々しいくらいまっ白で可憐な花だったとする。一瞬ではあるけれど、花にぴしりと焦点があってしまう。神々しいくらいまっ白で可憐な花、などと書いたらまるで何か特別な花のような感じになってしまうのだ。
 絵ならちがう。ささやかなものをささやかなままとじこめられる。そのことの清潔さに、私はときど
きとてもこがれる。……


 つまり、僕の記憶は、まあ半分くらいは正しかったことになると思うのだけれど、つけ加えるなら、このことは絵だけじゃなくてもちろん写真についてもあてはまる。
 写真だったら、顔だけをクローズアップして撮るような場合は別として、人間の全身を撮るときには、その人が必ず”どこか”に存在している以上、自然に「背景」も撮ることになる。絵なら背景を描かずに人間だけを描くこともできるが、いずれにしてもどこかに「ぴしりと焦点があってしまう」ということはない。
 小説には始まりと終わりがあってそこに時間が流れているが、写真には始まりも終わりもないから時間は流れていない――というのはたぶん間違っていて、たとえばどこかに立っている人間を少し離れたところから撮ったような写真だったら、たぶん普通は人間のほうが先に目に飛び込んでくるというか、人物-背景が主-従の関係になるというか、とにかく人間のほうを中心に全体を観ることになると思う。そこには観る人の視線をコントロールする何かがあり、その「何か」に従って絵や写真を観ることは(確かに、写真にも絵にも「結末」はないけれど)、一定の時間を通じて小説を読むことととても似ている気がする。
 ところで、当たり前のことだけれど、小説は言葉でできている。ということは、そのつど何かに「焦点があってしまう」わけで、逆に何にどういう順番で焦点をあわせていくか――つまり何をどういう順番で書いていくかによって、作者は読者の視線というかイメージのようなものをコントロールないし限定をしていくことになるし、いま書いているものが読者のイメージにどのような「効果」を与えるのかを考えながら書くのが、たぶん小説というものなんだと思う。たとえば、「雨」という言葉から僕は現実の雨をイメージするが、「雨」以外のどんな言葉からも――「水」や「雨水」や「霧雨」などのどんなに似た言葉であっても――同じイメージを得ることはできない。

 もっとも、小説だったら風景は書いても書かなくてもどっちでもいいというか、たとえば”その日、僕は放課後の教室にいて、グラウンドにいる生徒たちを窓辺で見下ろしていた”みたいに簡単な状況さえ書けば、細かい描写がなくても、とりあえず話を展開させることはできるわけだが、もしも風景を書く必要性があるとすれば、その一つは、小説が読者に及ぼす「効果」の種類に別のバリエーションを加えるためなのかもしれない。

江國 香織
泣かない子供

Summertime Blues

 まるでそれが当然のことであるかのように堂々とした雲一つない青空がくっきりと頭上に広がっていて、橋の下の濁った青緑色の川の水面が正午過ぎの強い陽射しを反射しながら光のカーテンのようにゆらゆらと揺れていた。マンションのベランダには色とりどりの洗濯物が並べて干してあり、排気ガスの臭いの混じった熱く湿った風に吹かれている。光が強ければ強いほど影は濃くなり、アスファルトよりも黒い木々のシルエットが地面に焼き付けられ、そこを歩いてゆく白い日傘を差した女性を見ていた僕の目の中に額から汗が流れ落ちてくる。

Do The Evolution

 「努力」というものが苦手で、今まで生きてきて努力らしい努力をした記憶がなく、受験のときはそれなりに勉強したし、高校の時は毎日部活で早朝・昼休み・放課後に練習して、夏休みや冬休みにも試合や合宿に行ったりしたけれど、それは今になって思うと単に何となく周りに流されてやっていたことで、別にそのこと自体が悪いとは思っていないが、それを努力と呼ぶのは違う気がする。努力というのは、何というか、とても孤独なものであるように思う。
 「どんなに努力しても人間は100メートルを5秒では走れない」というのはよくある話だけれど、努力というのは「限界」に挑もうとすることであり、それは「現実」を変えること、変えようとすることでもあるが、限界は超えられないからこそ限界なのであって、一人一人の人間にとって限界というものは厳然としてある――のだろうか?
 限界というのは仮想的なもので、自分の限界がどれほどのものなのかは知りえないのだから、ある志向を持っている人はそれに従って努力するしかないし、一生懸命に何かをすることはそれだけですでに意味があると思う。限界(あるいは理想とか完璧とか真理とか)という言葉を使うとき、たとえばグラフみたいなものを知らず知らずのうちにイメージして、現在の自分は100%のうち何%くらいの能力を持っているのかと考えてしまうのだが、言葉だけじゃなくて実際に努力している人は自分の限界(自分には才能があるんだろうか、とか)については考えず、ただ現在の自分をどうやって変えていくかについてを考えているはずで、仮想的な限界を中心にしてその内側にある現実を見ることと、現実を中心にしてその外側にある限界へ向かってゆこうとすること、それはもう天動説と地動説くらいの(?)違いがあるし、夢中になって何かをするということは、能力を数値や点数で計って達成感を得ること以前に、その人が生きている時間の質を変えることなのだと思う。

I Hate Hate

 ここ から、ここここここ へジャンプして、こんなのこんなのこんなのこんなの 、あとこんなの とかこんなの とかこんなの を観ていた。

Keep The Faith

 金、土、日と、用事があってN町に出かけていた。
 改札口を出るとダイエーやマクドナルドやミスタードーナツやインド料理屋や薬局があって、朝の9時頃に駅前の交番のそばを通ったら警官と何やら話している人がいたのだが、どういうわけかその人は漬け物石みたいな馬鹿でかい亀を抱えていた。マクドナルドの前では道路工事をしていて通行禁止になっていたので、隣の建物に行くのに迂回しなくてはならず、作業員が通行人を誘導していた。
 しばらく歩くと、中古ゲーム屋やラーメン屋やファミリーレストランやコンビニや公園があり、横断歩道のある道やない道をいくつか渡ってから、種類のわからない赤と白の花の咲く並木道を歩いた。近くに中学校があったので、もう少し早ければ登校する子どもたちがたくさんいたのかもしれないけれど、その時間は人通りが少なかった。何度か角を曲がると、同じような十字路がいくつもあって、その辺りはたぶん上空から見ると漢字の「田」とか「井」みたいな格子状になっているのだと思うが、目的地である白い建物が遠くに見えたので、そこを目指して歩いていくと、やがて門が見えてきた。

Lucky And Unhappy

 「真理」というものは退屈だ。真理を知っている(と思っている)人は、それによってあらゆるものを秩序づけ、解釈し、辻褄を合わせ、合理的な理由を勝手に見出してしまう。真理に従ってさえいれば、もうそれ以上の何かを求める必要はなくなり、そこに安心が――怠慢が――生まれる。未知のものが未知のものでなくなるような真理によって世界を染め上げ、すべてに意味があるものだと思い込む。
 真理というのは不安を消すために役立つ一つの方法だと思う。しかし、たとえば、自転車に乗れるからといって、必ずしも自転車が動く原理を知っているわけではないのと同じように、真理を使う人はもはや真理とは何かを考えないのではないか。つまり、そこには思考はない。下手な喩えだが、思考することは地図を持たずに知らない町を彷徨うようなもので、どこかへ向かってはいるがそれがどこなのかはわからないような状態のことだ。その「どこか」が「真理」であるのかもしれないけれど、辿り着いた「真理」に安住している人に思考はない。思考している人には、自分が向かおうとしているものがどのような真理なのか、そもそもそれが真理であるのかどうか、それすらも見当がつかないだろう。思考とは真理に到る過程のことではなくて、単なる(純粋な?)過程であり、未知への前進であり、不安をはらんだ、ある時間の質なのだと思う。

Everybody's Changing

 窪塚洋介や中村獅童が出ている『ピンポン』という映画を僕はまだ見たことがないのだが、その原作の漫画を描いた松本大洋の奥さんで、やはり漫画を描いている冬野さほという人の『ツインクル』という作品集はもの凄く面白くて、読みながら思わず唸ってしまうほどだ。
 画もコマ割りも斬新でアヴァンギャルドな感じで、特に話らしい話はないのだけれど、ほとんどの作品に子どもが出てきて、その子どもたちのセリフや行動が――というか思考回路が面白い。たとえば、最初に収録されている『good morning grand papa!/おはよう! おはよう!』という作品では、女の子が歯磨き粉のテレビコマーシャルを観ていた時、画面に歯を磨いている男性が映った後、次のカットで口をゆすぐ映像ではなく、彼の真っ白になった歯が映っていることに対して、母親に「ブクブクぶーしなかった!! おとなだから!?」と訊く。また、同じ幼稚園に通っている男の子は「ぼくねー チョコでねーはみがきするの だってねー おいしもんねー」と話す。『little dance party/羽虫のダンス』という作品で、「あんたたちー すももたべるー?」と訊かれた子どもが、「すももってっ すももってっ なに?」と訊き返すところなんかも好きだ。と、ここでこんな風にいくら説明してもなかなか伝わらないと思うけど……。


冬野 さほ
ツインクル

I Talk To The Wind

 タッシェンという出版社から出ている「ニュー・ベーシック・アート・シリーズ」を一冊ずつ集めながら、ちびちびと読んでいる。Amazonでは何故か品切れなのだが、少し大きな本屋にはだいたい置いてあって、1000~1500円くらいの手ごろな値段で、解説や年表も付いているし、すべてを網羅しているわけではないけれど有名な絵はだいたい載っているので、僕みたいに絵に疎い人にもわかりやすい。マネとかモネとかセザンヌとか以前は名前しか知らなかったけれど、誰が、いつ頃、どんな絵を描いたのか、少しずつ頭に入ってくるようになった。最近はこのブログの"BOOKMARK"に入っている"CGFA" というサイトで拾ってきたセザンヌの絵がパソコンのデスクトップの壁紙になっているくらいだ。
 小説は「読み終える」ことができるが、絵は「見終える」ということがない。ただぼんやりと見るのも面白いし、見ながら、画家が何をしようとしたのか、どうやって描いたのか、あれこれ想像するのも面白い。小説は一度読み終えると何だかわかったような気になるけれど、たとえばあらすじを説明できたりしたところでその小説を理解したことにはまったくならなくて、逆にいえば途中までしか読んでいなくてもその小説の感触みたいなものは何となくわかるし、その感触が掴めなければ、何十冊も読んだところであまり意味はないんじゃないかと思う。ただし、「読み終えた」という達成感みたいなものはあるから、いまは違うけれど、以前は早く読み終えようとして妙に焦ったり、読み始めたら最後まで読み通さないと気がすまなかった。そういう意味では、絵は「立ち止まる」ことができるのでいい。立ち止まって、じっと見る。分析したり解釈したりするんじゃなくて、画家がそれを描くことによって考えようとしたこと、考えたことを想像し、一緒になって考える。それが面白い。


ジル・ネレ, Nozomi Jimbo
エドアール・マネ―1832-1883

Street Spirit

 地下鉄の駅の階段を上っていた。すれ違う人は傘を持っていた。床が濡れていた。地上に出たら雨が降っていた。僕は傘がなかった。夜の道路を車が何台も走っていった。オレンジ色の街灯に照らされて、雨の粒が見えた。僕は家まで走った。頭上の木々が風に揺れるたびに、暗い枝葉が水滴を空中に振り撒いた。道は緩やかに上ったり下ったりしていた。前方の信号は青だった。草むらがざわめいていた。アスファルトの地面の窪んだところに水溜まりができて、そこへ細い筋になって水が流れ込んでいた。星は、月はなかった。雨が激しくなる。