Green Light Street
I Build This Garden For Us
このあいだ買ってきて、Ⅰを読み終えただけでⅡはまだなんだけど、ゴダールの『映画史』という本はすごく面白くて、もし気に入ったところに線を引いっていったら、どこまでも続いていって切れ目がなくなってしまいそうなくらいで、いつもは本を読むのが相当遅いのに、今回はあんまり早く読んでしまったのでちょっともったいないと感じてしまったのだが、きょうもパラパラとめくっていたら、
私は人々に見てもらえるような映画をつくろうと努めています。それにまた、映画をつくることを自分自身のために必要としている人たちと一緒に、映画をつくろうと努めています。ちょうど、医者がレントゲン写真を必要としたり、病人が医者を必要としたり、あるいはまた、医者と病人がある時期、自分たちの間にひとつの関係をうち立てようとしてレントゲン写真を必要としたりするのに似ているわけです。私はそうしたことのために映画をつくろうとしているのです。つまり、私には映画をつくる必要があるわけです。事実、私にはいくらか、学生のような……永遠の学生のような、あるいはまた、永遠の教授のようなところがあります。どう言えばいいのか……私はより遠くを見ることを、学ぶためになにかをこしらえることを、旅をするために地図を読むことを必要としているのです。
でも観客のことを考えるというのは……というか、連中の四分の三に関しては、それは途方もない詐欺です。連中は《観客を大事にしなければならない》とか《観客のことを考えなければならない》とか《こうした映画は観客を退屈させるということを考えなければならない》とか言います。でもそうしたことを言う連中がとりわけ考えているのは、「この映画が観客を退屈させるような映画であれば、入りがわるくなるし、そうなれば、俺はこの映画につぎこんだ金をパーにしてしまう」ということです。だからむしろ、《俺は最大限の金をかせぐために、最大限の観客の心をつかむよう努力しなければならない》と言うべきなのです……この方がずっと正当だし、ほかには言うべきことはないはずなのです。《観客を退屈させてはならない》とか《……してはならない》とかとは言うべきじゃないのです。こうしたことを言うということは、なにも言おうとしていないということなのです。
という文章を見つけて、なんとなく、ジェフ・バックリィの『素描』というアルバムのブックレットに書いてあった、
ぼくはソニー・ミュージックのために音楽を書いているわけじゃない。道ばたで泣き叫び、フルボリュームのステレオに向かって泣きわめいている人たちのためにぼくは音楽を書く。
そしてまた、ぼくは絶対に絶対に絶対に売り渡すことのできないある種の音楽を作っている。それはぼくの音楽以外の何物でもなく、ぼくが帰るべき場所であり、そこからすべてのものは生まれ、一点の汚れも苦しみもない、ぼく自身の身体のみによって満たされた命がそこから湧き出してくる。
という文章が思い出された。
- ジェフ・バックリィ
- 素描
Taste Of India
日替わりランチはマトンの挽き肉とジャガイモのカレー、ナン、アチャール(漬け物みたいなもの?)、紅茶のセットで980円。隣に座っていた主婦らしき3人組は子どもと学校の話、給食のアレルギーの話、年金と生活費の話などをしながら、食べ切れなかったナンを持ち帰りたいと、店員にラップに包ませていた。
Visions Of China
甘酢漬け白菜とくらげの冷菜、えびとブロッコリーの炒めもの、細切り牛肉とたけのこの炒めもの、豚肉とたまねぎの炒めもの(炒めものばっかり)、すぶた、たんたん麺……で、最後はタピオカココナッツミルク。
Was It Worth It
Like Dylan In The Movie
(突然ですが)
印象に残っている映画・50選。
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ストレンジャー・ザン・パラダイス(ジム・ジャームッシュ)
アルファヴィル(ジャン=リュック・ゴダール)
エル・スール(ヴィクトル・エリセ)
シザーハンズ(ティム・バートン)
野性の少年(フランソワ・トリュフォー)
ハタリ!(ハワード・ホークス)
召使(ジョセフ・ロージー)
審判(オーソン・ウェルズ)
キング・コング(メリアン・C・クーパー)
セブン・チャンス(バスター・キートン)
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ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド(ジョージ・A・ロメロ)
天空の城ラピュタ(宮崎駿)
CURE(黒澤清)
キッズ・リターン(北野武)
ベンヤメンタ学院(スティーブ&ティム・クェイ)
オズの魔法使(ヴィクター・フレミング)
冒険者たち(ロベール・アンリコ)
ラ・ジュテ(クリス・マルケル)
素晴らしき哉、人生!(フランク・キャプラ)
アリス(ヤン・シュワンクマイエル)
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セリーヌとジュリーは舟でゆく(ジャック・リヴェット)
UNLOVED(万田邦敏)
緑の光線(エリック・ロメール)
沈黙(イングマール・ベルイマン)
ホーリー・マウンテン(アレハンドロ・ホドロフスキー)
さすらい(ヴィム・ヴェンダース)
永遠と一日(テオ・アンゲロプロス)
ノスタルジア(アンドレイ・タルコフスキー)
暗殺の森(ベルナルド・ベルトルッチ)
恋恋風塵(ホウ・シャオシェン)
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イタリア旅行(ロベルト・ロッセリーニ)
イースター・パレード(チャールズ・ウォルターズ)
ポーラX(レオス・カラックス)
オリーブの林を抜けて(アッバス・キアロスタミ)
センチメンタル・アドベンチャー(クリント・イーストウッド)
モンド(トニー・ガトリフ)
ヤンヤン・夏の思い出(エドワード・ヤン)
ディーバ(ジャン=ジャック・ベネックス)
悪魔のいけにえ(トビー・フーパー)
炎628(エレム・クリモフ)
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サイコ(アルフレッド・ヒッチコック)
タワーリング・インフェルノ(ジョン・ギラーミン)
サスペリア(ダリオ・アルジェント)
日陽はしづかに発酵し……(アレクサンドル・ソクーロフ)
ラルジャン(ロベール・ブレッソン)
不思議惑星キン・ザ・ザ(ゲオルギー・ダネリア)
ロスト・ハイウェイ(デビッド・リンチ)
捜索者(ジョン・フォード)
飾窓の女(フリッツ・ラング)
僕の小さな恋人たち(ジャン・ユスターシュ)
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※順不同……というか、思い付いた順
※()内は監督
※内容はあんまり覚えてません
例) ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド⇒「ゾンビだらけ」
タワーリング・インフェルノ⇒「ビル火災」
天空の城ラピュタ⇒ 「バルス!」
The End Of The World
Tears In The Morning
夜と朝が特に寒い。長袖のシャツを着るようになった。近所のコンビニの顔見知りの店員に「秋ですね」といわれた。もうしばらくすると、布団からなかなか出られなくなりそう。出かけるとき、玄関を出たら地面が濡れていた。夜のあいだに雨が降ったのだと思った。天気予報は見なかったが、一応傘を持っていった。
これを書いている今、カーテンの表面を蜘蛛が這っている。低いところから高いところへ、少し進んでは止まり、進んでは止まりながら、ときどき襞から襞へジャンプしたりしている。
Battle Of Who Could Care Less
ある映画なり小説なりを観たり読んだりしたとき、その内容について人に説明しなくてはならないとしたら、何というだろうか。『オズの魔法使』にしろ『キング・コング』にしろ『ブレードランナー』にしろ、たいていの場合、それは「あらすじ」であり「ストーリー」なのであって、たとえば、あるシーンでのある人物の表情や、別のあるシーンでの部屋のなかの家具の配置や、また別のシーンに映った空の色などについては、まったくといっていいほど語られない。というか、きのう引用した箇所にも「紙と鉛筆だけをつかって、それらとは別のものをつかってつくられるはずのものを見つけるというのは、明らかに不可能なことなのです」とあったけれど、「ストーリー」は言葉以外の何物でもないが、人の表情や家具の配置や空の色は言葉のなかではなく世界のなかにある。つまり、語られないのではなく、語ることができない。映画や小説は物語を含むが、物語そのものではない。にも関わらず、しばしばそれらが物語そのものであるかのようにいわれている。
物語は必ず、いつか、どこかで、そして誰かによって引き起こされる。特に「誰か」は必要だ。人物のいない物語を、少なくとも僕は考えることができない。「誰か」は時間と空間において存在している。物語がいつ、どこで起こるか、それは「誰か」がいつ、どこに存在するかが決めることだ。カメラやペンは、ある人物の表情や心情や台詞、どこかの病院や学校や刑務所のなかの様子、過去の記憶や空想された未来などを描くことができるが、それらの断片が物語の断片なのではないし、それら全体が物語の全体になるのでもない。むしろ、それらのなかには物語はない。物語は観客や読者のなかに、作者のなかに、あるいは「紙と鉛筆」のなかにある。
引き続き『映画史』より。
映画をつくろうとすると、映画を職業にしている人やそのほかの人たちが《物語を語る》と呼んでいることをするよう強制されるのですが、私はこのことにいつも窮屈な思いをさせられてきました。ゼロから出発して物語の発端を設定し、ついでその物語を結末に導くということをさせられるのです。ふつうは、なぜかはわかりませんが、アメリカの連中はこうしたことをするのが上手で、ほかの連中はそれほどでもないと考えられていますが、でも実際はそうでもありません。もっとも、アメリカの西部劇ではよく、だれかがどこかよくわからないところからやってきて酒場の扉を押し、ついでラストでは、どこかへ姿をくらまします。それだけのことで、そこに描かれているのはその人物の断片にすぎないのですが、でも不思議なことに、その断片は、人々にある物語の全体を生きたと思わせるものをもっています。そこにアメリカの連中の力があるのです。ほかの連中にはそうしたことはできません。ほかの連中の場合は、発端と前置きがあって、ついで中間の部分と結末がくるような物語を語ることを強制されます。私はこのことにいつも窮屈な思いをさせられてきました。私にはどうしても、それができないのです。
私はまず、ただ単にいくつかの断片をとりあげることから始めました。そしてついには、断片しか描かないようになりました。私はしばしば、映画よりむしろテレビととり組む方をとるのはそのためです。テレビでは断片が受け入れられるのです。テレビでは、月曜日に断片をひとつ、火曜日にもひとつといったことができるわけで、それを七つつくれば、シリーズ番組がひとつできあがります。結局のところ、むしろこうしたことをしようとすべきなのです。そうした場合は、こう言ってよければ、あとでひとつの物語を見つけ出すこともできるし、時間を獲得することもできます。それに対し、一時間半なり二時間なりの映画でとなると…… それに私には、映画の長さがなぜ一時間半なり二時間なりでなければならないのかわかりません…… だから私は『女と男のいる歩道』を、いくつかの断片から構成しようとしました。そしてそれによって、自分では意識していなかったものの、絵をかいたり音楽をつくったりするのといくらか似たやり方でこの映画をつくることができるようになったのです。事実、ここにはリズムや変形や断片が見られます。それに音楽ではよく、《音楽の断片》という言葉がつかわれます。
The End Is The Beginnings Is The End
何かを作ろうとするとき、作者は事前のイメージ通りに作品を作っているのだろうか。それとも制作の過程でそのつど修正・変更をしながら作っているのだろうか。
たとえば、料理だったらレシピに従って材料を調理していけばいいし、音楽だったら先にコード進行やメロディを作ってからアレンジをしたり、あるいは楽器の編成を決めておいてからセッションしながら曲を作る方法もがあるだろうし、小説だったら最初から最後までストーリーを作っておいて、そこにいわゆる「肉付け」をしていく方法とか、個々のシーンをそれぞれ書いてから編集するという方法とかがあるだろうけれど、それらはあくまで方法の一つに過ぎないし、小説や映画なら始まりと終わりがあるからまだいいものの、絵を観るときなんかはよく「どこから描きはじめたんだろう」と考えてしまうのだが、いずれにしても制作にあたっての方針はそのまま作品の質に影響するはずだと思う。ということは、何かを作ろうとすることは、その「作り方」を作るという地点から始めなければいけないのかもしれない。
そんなことを考えていたら、たまたま読んでいたゴダールの『映画史』のなかにこういう文章があった。
私はいつも、大いに準備し……といっても、頭のなかで準備し、ついでそれらを即興的に演出するというやり方で仕事をしてきました。一般に即興演出と呼ばれているものは、私が考える即興演出とはほとんど正反対のものです。私は『勝手にしやがれ』のあとは、シナリオを書いたことがほとんどありません。『勝手にしやがれ』のときは、私はシナリオをつくることから始め、ついで台詞を書いたのですが、いわゆる撮影なるものが近づくにつれ、それがしだいに苦痛になってゆきました。でも当時は、映画はみなそうしたやり方でつくられていたのです。それにまた、私が思うに、今の映画もみな、そうしたやり方でつくられているはずです。つまり、まず書き、ついでそれを映画にすることに決め、金を見つけ、俳優たちと契約し、そして突然、撮影の日取りを決めるのです……撮影にとりかかる前に、撮影することになるはずのものを紙に書き、ついで撮影の際に、それを――それにいくらかのものをつけ加えながら――フィルムと呼ばれるものに写し直し、そのあと、それらすべてをひとつにまとめるのです。
よくおぼえていますが、私は『勝手にしやがれ』を、――映画をつくるすべを知らなかったので――ほかの連中のやり方をまねてつくろうとしました。ところがしばらくすると、完全にパニック状態におちいっていました。あまりに書きすぎたからです。そこで私はある日、自分にこう言い聞かせました。《そう、もうこれ以上は書かないようにしよう。今までに書いたものだけをもとにして撮ることにしよう。うまくいくかどうかはあとでわかるさ》というわけです。なぜなら、映画をあらかじめ書くというのは、完全に不可能なことだからです。私は、《どうもうまくいかない、いい考えがうかばない》などとつぶやきながら、まったく無駄なことで苦しんでいたわけです。紙と鉛筆だけをつかって、それらとは別のものをつかってつくられるはずのものを見つけるというのは、明らかに不可能なことなのです。といっても、紙と鉛筆をつかうこと自体が間違っているわけじゃありません。今の映画のつくられ方のなかで間違っているのは、どの映画も事前につくられているという点です。私の考えでは、映画はある期間内にすべてがつくられるのではなく、そのうちの一部分が事前に、一部分が事後につくられるほうがいいのです。だから、私は『勝手にしやがれ』のあとは、シナリオというものをつくったことがありません。私はいつも、あれこれとメモをとり、そのメモをきわめて単純なやり方で構成しようとしてきました。物語を語ろうとする場合は、始まりとなかほどと終わりを設定したり、テーマを展開しようとする場合は、ある一定の論理をたどろうとしたりするわけです。そしてあとで、ミュージシャンがメロディを口ずさんでみるのと同じように、それらを思い出してみるわけです。
- ジャン・リュック・ゴダール, 奥村 昭夫
- ゴダール・映画史 1 (1)