出井和俊の"日々のレッスン" -2ページ目

Yesterday, When I Was Mad

 今朝は出かける前に天気予報を見なかったが昨夜は「明日の夕方から雨が降る」といっていたので傘を持っていった。午後、窓の外を見ると雨が降っていて、27階にある休憩室の窓際の席でお茶とおにぎりを食べながら、暗い雲に覆われた空の下に広がる街を眺めていた。雨粒が厚い窓ガラスを打ち、遠くのほうでは雨というより霧のようになっていて、晴れた日にははっきりと見渡すことのできる、街の遥か向こうに連なる山々が今日は霞んで見えなかった。
 その後、少し昼寝した。

Sheltering Sky

 仕事から帰ってきたら隣の家がなくなっていた。もしかすると朝出かける時にはもうなかったのかもしれないけれど、いつの間にか何もかもすっぽりと消えていた。郵便ポストから朝刊と夕刊を取って門を入り階段を上ってゆくと、ブロック塀で囲まれた隣の家のつい昨日まで庭があったところにブルドーザーが1台停まっているのが見えて、その周りはコンクリートやガラスの破片で埋め尽くされていて地面が見えないくらいだった。辛うじて建物の骨組みは部分的に残っていたのだが、もともとはベッドや箪笥やテーブルや食器棚などが置かれ住人たちが生活していた場所には、今や外と中の区別もなく、ただ夜の風が吹き抜けているばかりだった。

Sky Is A Landfill

 空を見ている時の気持ちは、目を瞑っている時の気持ちに似ている。

 ただの思いつきだから特に理由も根拠もなく、ずっと空を見ていたら自然に思い浮かんだだけで、もちろん2つの気持ちは別のものだし、もしかすると似ているどころか全然違うものかもしれないけれど、本当のところはわからない。何となくそう思っただけだ。
 空を見る、といっても、たいていの場合、実際に見ているのは雲なのかもしれない。空を見ていると自分では思っていても、知らず知らずのうちに雲のほうに関心が向いていて、空は「背景」になってしまっている。

 雲のほうを見てしまうのは、変化に富んでいるからかもしれない。たしかに夕焼けの空の色の変化は劇的だけれど、長い時間見ていて変化を持続的に感じるのは雲のほうで、流れてゆく向きや速さによって目には見えない風の存在を感じたり、厚い部分や薄い部分、明るい部分や暗い部分が時間とともに変わってゆくことに不思議と心を動かされるし、場合によっては、逆にそういう変化によって時間の存在というか経過に気付かされることもある。

 「鯨」とか「ウロコ」とか「綿アメ」とか、雲を喩える言葉はたくさんあるけれど、喩えというのは所詮は”似ている”というだけで、そもそも2つのものが別のものだからこそ喩えられるのだし、たしかに鯨や綿アメのように見えることはあっても、何にも似ていないことだってある――というか、たぶんそれが本来のあり方で、喩えはどれも一面的なものしか表さない。今見えている雲を「雲」という以上に何といえばいいのか、本当は誰にもわからないのだ、きっと。


(たぶん、つづく)

Modern Life Is Rubbish

 隣の家で工事をやっている。誰かが隣の家を解体していた。新聞紙と一緒にポストにチラシが入っている。「ご迷惑おかけします」という内容のチラシがあった。朝、ブロック塀が崩れ、窓ガラスが割れる音がする。クレーン車が屋根を潰している音が聞こえた。この間までは人が住んでいた。たぶん今はべつの場所にいる。そのうちに戻ってくる……そう書いている今、裏の家から「ぶっ殺してやる!」という女の叫び声がした(たまーに聞こえる)。

Light My Fire

 ブログを始めてから、色々な人のブログを見るようになった。ブログを始める前も、他人のブログやホームページを見ていたけれど、今はコメントをくれたりする人もたまーにいて、同じブログを定期的に見るようになり、それ以外のブログもたまに見ている。
 面白いブログにはその人の"個"があらわれていると思う。「滲み出てくる」「浮かび上がってくる」「立ち上がってくる」……色々な言い方があるけれどそれはともかく、面白いブログを読んでいるとその人にしかない思考の型みたいなものが感じられる。というか、そういう「型」のそれぞれが面白い。
 「自分の思ったことを書く」というのとは、少し違う(もっともらしい意見でも、ありがちなのだと退屈)。そうかといって「文章が上手い」というのともやっぱり、違う(「上手い文章」というのがどういうものなのかはよく分からないけれど、綺麗にまとまっているような文章はたいてい面白く思えない)。ついでにいうと、必要以上に「外に開かれている」のも、苦手(「私はこう思うんですけど皆さんはどうですか?」「○○ですよねー」「聞いてください!」みたいな)。殊更に面白く書こうと頑張っているのも、ダメ(「面白いだろー」と言われている気持ちになる)。時事問題についてマジメに語ってるのも、好きじゃない(テレビや新聞で毎日やってる)。酔っ払ったみたいな、雰囲気だけの文章も、嫌い(「人生とは孤独な旅のようなものだ」とか「私たちは本当の自分に会うために生きている」とか)。音楽やってる人が音楽について語ってたり、スポーツやってる人が自分のスポーツ観を書いてたり、小説書いてる人が小説について考えたことなんかを読むのは面白い(全部じゃないけど)。オチも結論もなく、感想をあまり交えず、出来事だけを書いたような、「それがどうしたの?」っていう感じのやつが好きだ( 何だかエラソーに語ってしまったけど)。

Girls Just Want To Have Fun

 毎週日曜日の夜7時からやっている『トップランナー』という番組に、今週は木村カエラが出ていて、ビデオに録画してあったのを観た。
 最近は平日は朝8時に起きるのだが以前は7時に起きていて、木村カエラのことを知ったのはテレビ神奈川で7時30分からやっている『サクサク』という、ゆるーい雰囲気の番組に出ていたのを何となく毎朝観るようになってからだと思う。
 「物心ついた時から歌が好きだった」らしくて、モデルもやっていたけれど、ずっと「歌手になる」と思っていたという。番組でも3曲歌っていた。声がいいと思う。特別に上手いというわけじゃないけれど、べつに上手くなくてもいいと思わせる勢いがあって、上手いとか下手とかそういうことをあんまり感じさせない、そういうところが好きだ。
 そんなわけで、ツタヤでアルバムを借りてみたのだけれど、ちょっとガッカリしたというか、CDだと行儀がいい感じがしてしまって、ライブのほうがいいと思った。

Double Fantasy

(A)家に帰ろうと思っていた。足がそっちに向かって動いていた。で、気が付いたのだが、僕は「家に帰ろう」とは思っていたみたいだが、「足を動かそう」とは思っていなかった。立ち止まる時は、「ここにいよう」とか「足を止めよう」とすら思っていなくて、何だかよく分からないうちにピタリとその場に立ち止まっていた。「足を動かす」は映像であらわせるけれど、「家に帰ろう」はそうはいかない。


(B)全く同じ本が、単行本と文庫本の両方で出ていることがある。また、古典とか翻訳本なんかだと、同じ文庫でも、いくつかの出版社から何種類も出ていたりすることがあるけれど(たとえば『走れメロス』とか『車輪の下』とか)。そうすると、内容が同じでも文字の大きさとかページ数はそれぞれ違う。じゃあ、文字が小さくてページ数が少ないのと、文字が大きくてページ数が多いのだと、どっちの方が早く読み終わるのだろう(どっちも同じなんだろうか)。文字が小さければ一度に目に入ってくる量は多いけれど、本を読む速さは「1文字につき○秒」という風にして計れる訳ではなくて、人間が言葉(というか文字)を読んで理解する仕組みがどうなっているのかは全然分からないが、たとえば「蚊」も「救急車」もパッと見た瞬間に理解する速さはたぶん同じじゃないだろうか。「か」と「きゅうきゅうしゃ」だったら違うかもしれない。人間(というか日本語を使う人)が何かを考える時は、漢字とひらがな、どちらかで考えていることになるんだろうか(どちらに近い状態なんだろうか)。英語や中国語を使う人の場合はどうなるんだろうか。





 今日、たまたま(じゃないかもしれない)、上に書いたAとBのようなことを考えていて、この2つが何だか関係があるような気がして、もしかするとないのかもしれないけれど、そう思った。

World's End Supernova

 椅子に座っていた。テーブルの上に水の入ったグラスが置いてあった。午後で、2時前だった。ふと(今は何月だったっけ)と考えた。目の前をサラダを運ぶ女の人が通った。11月だと思った。そんな気がした。そうじゃなかった。今は10月だ。そう思った途端、(今日は10月20日だ!)とひらめいた。顔の横に曇りガラスがあって、少し離れたところで女子高生たちが喋っていた。今年は2005年だ。一瞬、僕は自分が21歳であるような気がした。でもそれは何年か前の話だった。突然、スパゲッティが運ばれてきた。そして夜になって、今はブログを書いている。

Dream's Dream

 トラックバックステーションに「おすすめ短編はコレ!」というテーマが出ていた……と書きながら気が付いたんだけど「トラックバックステーション」って頭文字が”TBS”なのだった。どうでもいいけど。


 全部読んでないのに薦めるのはどうかと思うのだが、ちくま文庫の内田百閒『冥途』は面白い。「面白い」という言葉は、昔の人が焚火の周りを囲んで輪になって座り、下を向いたまま一人ずつ順番に物語を話して聞かせ、面白い話をした時にだけ全員が顔を上げたので、火の明るさで顔が照らされて「面」が「白く」見えたために、「面白い」という言葉になったと聞いたことがある。
 それはともかく、今日は電車のなかで『冥途』を読んでいた。巻末にある芥川龍之介の評に「悉(ことごとく)夢を書いたものである」とあり、多和田葉子さんの解説にも「夢を見ている感触である」とある(そういえば、死んでる人はなぜか呼び捨てにしてしまう)。たしかに、『冥途』に収められている小説たちは、はっきりと夢と書いてあるわけではないのに夢以外の何物でもないと感じられる何かがある。それが何なのかはよく分からないけれど、たとえば、『遊就館』という作品の次のような箇所も、すごく変な感じだ。


 私は大風の中を歩いて、遊就館を見に行った。
 九段坂は風の為に曲がっていた。又あんまり吹き揉まれた為に、いやに平らに、のめのめとして、何処が坂だか解らない様だった。
 そうして遊就館に行って見ると、入口の前は大砲の弾と馬の脚とで、一ぱいだった。
 私はその上を踏んで、入口の方へ急いだ。ところどころに上を向いた馬の脚頚が、ひくひくと跳ねていた。そうして私の踏んで行く足許は、妙に柔らかかった。柔らかいのは、馬の股だろうと思うと、そうではなくて、大砲の弾の上を踏んでも、矢っ張りふにゃふにゃだった。
 遊就館の門番には耳がなかった。
 その傍をすり抜けて中に這入って見たけれど、刀や鎧は一つもなくて、天井まで届くような大きなガラス戸棚の中に、軍服を着た死骸が横ならべにして、幾段にも積み重ねてあった。私は、あんまり臭いので、急いで引き返そうと思うと、入口には耳のない番人が二人起っていて、頻りに両手で耳のない辺りを掻いていた。
 どうして出たか解らないけれども、やっと外に逃げ出して、後を振り返って見たら、電信柱を十本位つないだ程の長さで、幅は九段坂位もある大きな大砲が、西の空に向かって砲口から薄煙を吐いていた。


内田 百けん
冥途―内田百けん集成〈3〉 ちくま文庫

Bad Medicine

 8時55分に帰ってきた。テレビをつけたら地図が映っていた。4とか5とか2とか数字が出ていた。冷蔵庫を開けた。深い赤い鍋があって、だいこんと肉とこんにゃくが煮てあった。きのうの枝豆ごはんが冷えていた。さっき地震があったらしい。テーブルにやかんが置いてあって、お茶は入っていなかった。電子レンジでごはんを温めた。地震には気付かなかった。鍋をコンロで火にかけた。温まったごはんにしらすをまぶした。うちの近所は震度3。冷蔵庫を開けた。揚げナスがあった。カバンの中に昼に買ったチョコレートの箱が入っていた。この前は震度4の地震があった。カレンダーがまだ9月のままだった。朝刊を読んだ。そしてきょうの晩ごはんを頂く。