思い出のプロ野球選手、今回は福士 敬章投手です。 

 

1970年代から80年代初頭にかけて、南海、広島などで活躍し、特に広島での1979、80年に連続日本一を達成した時は、主力投手として大いに活躍しました。

日本球界を出た後は、韓国球界で活躍し、日本⇒韓国のパイオニア的存在にもなりました。

 

【福士 敬章(ふくし・ひろあき)】

 ※プロ入り当初は「松原 明夫」

生年月日:1950(昭和25)年12月27日
没年月日:2005(平成17)年4月13日(54歳没)

入団:巨人('71・ドラフト外) 
経歴:鳥取西高-巨人('69~'72)-南海('73~'76)-広島('77~'82)

通算成績:339試合 91勝84敗9S 1,634⅓投球回 61完投 13完封 785奪三振 防御率3.68

位置:投手 投打:右右 現役生活:14年(日本のみ)

タイトル:最高勝率 1回('80)
規定投球回到達:7回 ('73~'75、'78~'81) 

オールスター出場 3回 ('78、'80、'81) 

 

 

 

個人的印象

幾度か改名をしていますが、個人的には最後の福士敬章の印象が最も強く、強いカープだった頃の広島の主力投手として活躍した印象が大変強いです。

婿養子になり苗字が変わった選手として個人的に初めて認知した選手でもありました。

 

気の強い投手で荒れ球の印象も強く、同僚の北別府学投手が「精密機械」といわれた抜群のコントロールだったのと対照的なイメージがあります。

広島の投手陣で先発の主力といえば、外木場義郎投手が1945(昭和20)年生まれで、山根和夫・大野豊投手はいずれも1955(昭和30)年生まれで、その間は空白的世代であまりいないのですが、池谷公二郎投手とこの福士投手ぐらいだと思います。ピンポイントで活躍した投手は他にもいますが…。

 

 

プロ入りまで

高校は鳥取県の鳥取西高校で、この学校は鳥取県内で2位、3位といわれるかなりの進学校ですが、残念ながら甲子園には無縁でした。

高校卒業後ですが、韓国系日本人という事で外国籍の選手は当時はドラフト会議に掛ける必要がなく、その上で複数球団の争奪戦の末、巨人にドラフト外で入団しました。

 

 

巨人で1勝もできず

1969(昭和44)年がルーキーイヤーとなりましたが、最初の背番号は「46」でした。

1年目は一軍出場がなく、2年目1970(昭和45)年に一軍デビューし、背番号は「28」と少し軽くなりましたが、11試合で0勝3敗防御率3.07で40⅔㌄を投げ、先発として6度機会を与えられながら、1勝も挙げる事ができませんでした。

その後2年間は、ひとケタ試合数でひとケタ投球回ずつとほとんど出番がなく、巨人での4年間は18試合で0勝3敗、57㌄を投げたのみに終わりました。チームはV6からV8まで達成する中、ほぼ出番には恵まれませんでした。

 

 

南海へ

1973(昭和48)年に富田勝選手との交換で、山内新一投手と共に南海へ移籍しました。山内投手はそれまで巨人で14勝を挙げていましたが、前年が0勝に終わりトレード要員となり、共に新天地へ。南海では「34」という背番号を与えられました。

 

 

優勝に貢献

幸運にも移籍した南海がその年(1973年)優勝し、在籍したチームが入団以来常にリーグ優勝しているという状態は続きました。しかしこの年は初めて戦力らしい戦力になり、優勝に貢献したといえる活躍ができました。

 

プロ5年目にして待望の初勝利を挙げ、これを含め27試合登板で7勝7敗防御率2.87、140⅔㌄で初めて規定投球回にも到達し、この上での防御率2点台は素晴らしいものがありました。6完投1完封と初完封も記録しています。

 

セ・リーグでは巨人がV9を達成しましたが、その巨人との日本シリーズでは第3戦に先発し、堀内恒夫投手と投げ合って敗戦投手になっています。この時巨人復帰の可能性もあったそうですが、本人が拒んで無しになったという話があります。

 

 

その後も南海で活躍

1973年は南海が球団として最後の優勝をしましたが、1974(昭和49)年は6年目にして初めて、所属したチームがリーグ優勝しなかった格好になりました。その後の南海はチームが低迷期に入ります。

それでもまだAクラスの方が多かったぐらいで、野村克也兼任監督の下、先発ローテーションの一角で活躍を続けており、1974年は9勝、そして1975(昭和50)年は初めての2ケタ11勝12敗防御率3.00を記録しています。この年の完封4回はリーグ最多でした。

1976(昭和51)年は南海移籍4年目にして初めて規定投球回数を割り込み、115㌄でした。24試合で6勝7敗1S防御率3.48と、防御率も最も悪い年でした。それまでが3.00前後で素晴らしかったのですが。

 

 

広島へ

巨人も、そして南海も在籍は4年間で、1977(昭和52)年からは金城基泰投手との交換トレードで広島へ移籍しました。

ここでは「18」というエースナンバーを与えられ、10番台もこの広島時代のみでした。

この1977年のみ、ほとんどがリリーフで抑えも含めて担当し、キャリアハイの46試合登板でしたが、投球回は100⅓㌄と2年連続で規定投球回未達でした。6勝6敗5S防御率5.13と抑えも務めながら荒れていました。初勝利を挙げた1973年以降では唯一の完投0でした。

1978(昭和53)年、婿養子に入った事から、それまでの松原明夫⇒福士明夫となり、ここから再び先発を主戦場にするようになります。

この年はキャリアハイの15勝を挙げて15勝8敗防御率3.6012完投はリーグ最多を記録しています。投球回はキャリアハイの230㌄で、初めて200回を越えました。

プロ10年目にして初めてオールスターに出場しており、広島市民球場で先発し勝利投手にもなっています。

 

 

連続日本一に貢献

1979(昭和54)年はカープが球団創設以来初の日本一に輝いた年で、在籍した3球団すべてでリーグ優勝を経験したことになります。(巨人時代は実感なかったでしょうが…)

この年は37試合で7勝9敗1S防御率3.57で、シーズン成績は前年と比べるとかなり見劣りしましたが、日本シリーズでは先発にリリーフに活躍し、第4戦では完投勝利を挙げ、日本一を決めた第7戦は今でいうセットアッパーで近鉄打線を抑え、江夏豊投手へバトンを渡し、その後「江夏の21球」の件が展開されるのでした。

 

1980(昭和55)年は福士明夫⇒福士敬章へと改名をし、これは改姓した苗字に合う名前を調べて変えたといいます。

この年31試合で15勝6敗防御率3.95で、勝率.714をマークしプロ生活で唯一のタイトル「最高勝率」に輝いています。2年ぶり2度目のオールスター出場を果たし、再び近鉄と対戦した日本シリーズでは第3戦に先発に勝敗はつきませんでしたが、その後江夏投手がリリーフしてチームが勝利し、第6戦では完投勝利を挙げ、カープの連続日本一に大きく貢献しています。

 

 

連覇のあと

1981(昭和56)年は優勝を逃しますが、35試合で12勝9敗防御率4.03と広島移籍後4年連続で規定投球回をクリアし、2度目の200回越えとなる201⅓㌄投球を記録しました。

1982(昭和57)年のシーズン中に試合で腰を痛めて以降振るわず、この年は22試合で3勝11敗2S防御率4.46に終わると、この年限りで32歳で日本での野球キャリアを終えました。

 

入団した巨人では4年間で1勝もできなかった投手が、32歳までに3度の2ケタ勝利を挙げ、連続日本一にも貢献し日本プロ野球で通算91勝を挙げました。

 

-----------------------------------

1983年からは発足して日の浅い韓国野球リーグへ参加し、ここで大活躍して日本から韓国へ出て活躍するパイオニア的存在となりました。

中でも1年目のこの年は60試合に登板(韓国リーグは当時100試合制)し、36完投で30勝16敗6Sというとんでもない記録を残し、投球回は実に427⅓㌄という驚異的すぎるレベルでした。36完投30勝はいまだに韓国プロ野球記録だそうです。

その後も2ケタ勝利を続けるものの、負け数が多くなり、渡韓4年目の1986年は1勝18敗というこれまたとてつもなく低い勝率の記録を残し、36歳になる年のシーズン中に引退しています。

 

福士投手の場合は、韓国球界への「転出」であり、日本での引退というのかは微妙ですが、韓国球界最後の年を引退とする方が自然と思います。

彼が渡韓した翌年は巨人を退団した新浦壽夫投手が続き、新浦投手は再度日本へ戻って活躍を続けました。

 

 

↓1981(昭和56)年「カープ手帳」より

 前年は15勝を挙げて優勝に貢献した1980(昭和55)年の成績が載っていて、ここまでの通算成績と表示されています。

この時点で76勝64敗7S、その後2年間で15勝を積み上げて日本球界から韓国球界へ移ります。