思い出のプロ野球選手、今回は「堀内 恒夫」投手です。

 

巨人V9時代を引っ張ったエースで、巨人一筋で200勝を挙げたのは、大正生まれの中尾碩志投手とこの堀内投手の2人だけです。

 

【堀内 恒夫(ほりうち・つねお)】

生年月日:1948(昭和23)年1月16日

経歴:甲府商高-巨人('66~'83)

通算成績:560試合 203勝139敗6S 3,045投球回 178完投 37完封 1,865奪三振 防御率3.27

タイトル:最多勝 1回('72)、最優秀防御率 1回('66)、最高勝率 3回('66、'67、'72)

表彰:新人王('66)、MVP 1回('72)、沢村賞 2回('66、'72)、ベストナイン 2回('72、'74)、Gグラブ賞 7回('72~'78)

記録:、オールスター出場9回('66、'68~'75)、100勝('72.6.9)、150勝('75.5.17)、200勝('80.6.2)

 

 

●ヤジ将軍

自分が野球を見始めた頃の「巨人のエース」といえばこの人でした。

正確にはエースと呼ばれていた人、だった感がありました。当時の実質エースは先発に抑えにフル回転していた新浦壽夫投手だったり、阪神へ移る前の小林繁投手だった、そんな感じでした。

往年の名作アニメ「侍ジャイアンツ」では、昭和40年代半ばのV9時代が描かれ、そこでは巨人のエースとされていますが、昭和50年代に入ると変わらず先発ローテーション投手ながら、絶対的な雰囲気ではなくなってきていました。

後から知った感じですね、こんなすごい成績を挙げてた投手なんだ、というのは。

 

一方で、当時見ていた小学館の学習雑誌だったかで、彼の事を球界きっての「ヤジ将軍」と記したものを見た覚えがあります。この時に「ヤジ」という言葉を覚えたのですが、そういうキャラの人なんだな、という事をその時に知ったりもしました。

 

●巨人初のドラフト1位

高校時代は1年生から甲子園大会に出場していますが、「甲子園に出たけど、甲子園に行っていない」珍しい経験をしており、当時の大会が甲子園球場と阪急西宮休場とに分かれ、彼らの甲府商高は後者に出ていた為で、甲子園の土を踏むことなく高校生活は終わったといいます。

そして1965(昭和40)年度に高校三年生となり、高卒にしてドラフト1位で巨人に入団、記念すべき巨人のドラフト1期生となりました。

 

●ルーキーから快進撃

1966(昭和41)年、高卒の18歳にして開幕から13連勝という前人未到の記録を打ち立てて、最終的に16勝2敗、防御率1.39、勝率.889という、いずれも驚異的な数字を残して堂々の新人王獲得となりました。

彼のキャリアで特に光るのは、この年と1972(昭和47)年で、この時は唯一の20勝越えで26勝をマークし、312回を投げ完投も勝利数と同じ26をマークしています。沢村賞もこの2度受賞し、'72年はMVPも獲得、彼のキャリアの絶頂期であったといえ、タイトルのほとんどをこの'66年、'72年で獲得しています。

 

●73年から

最後の優勝、いわゆるV9を達成した1973(昭和48)年頃から少し陰りが見え始め、入団以来2ケタ勝利は続きましたが、プロ入り最低タイの12勝(12勝が最低というのがすごいですが…)で、問題はここで入団8年目にして初の負け越しとなった事です。

そしてこの年から明らかにそれまでと違ってしまったのは「防御率」です。それまで最低が3.30('68年)だったのが、4.52に跳ね上がりました。

翌1974(昭和49)年はV逸となりましたが皮肉にも19勝11敗とキャリア2位の勝ち星を挙げて復活、防御率も2.66と2点台に戻りましたが、これが最後の2点台となりました。

 

●昭和50年代

長嶋監督が就任して球団初の最下位に転落した1975(昭和50)年は10勝18敗と大きく負け越し、そのチームの力に流されるようになってしまい、プロ入り最低の10勝(最低が10勝ってすごいですが…)に終わりましたが、この年終了時点で27歳にして通算150勝をクリアしていました。10年目での150勝、凄いペースですね。

最下位から一転し、V9以来のリーグ優勝を果たした1976(昭和51)年は14勝6敗と久々の高勝率(.700)をマークしたものの、それまでずっと200回を越える投球回を記録していたのが、ほぼ200回を越える事がなくなりました。リーグ連覇となった1977(昭和52)年は3Sを挙げるなど抑えにも出てきていました。

1978(昭和53)年、30歳の年に12勝をあげますが、これが最後の2ケタ勝利にして、最後の規定投球回到達となりました。

 

●200勝そして引退

1979(昭和54)年は4勝7敗に終わり、防御率も6.70と散々な成績となり、30歳を過ぎて急速に衰えた感がありました。この当時は江川投手が新人として入り、新浦、西本、加藤…といった先発投手陣が居て、まさに徐々に出番を取られていっていた感じでした。

1966年の入団以来、新人の年から13年連続で記録してきた2ケタ勝利も遂に途絶え、実質的に以後は戦力になったとは思い難い状況でした。

それでも200勝が目前に迫っており、そこへ向けての執念があったと思いますが、翌1980(昭和55)年にようやく通算200勝を達成し、晴れて名球会入りを果たしました。しかしその年は3勝5敗でした。

そして藤田監督に変わった1981(昭和56)年からは3年間で24試合2勝3敗、ほとんどがリリーフでの登板でした。正直この当時は殆ど印象になく、引退してたんじゃないか?ぐらいな感じでしたが、現役ラストは1983(昭和58)年、この年に少し見かけて「まだ現役だったんだ」とか思った覚えがあります。

 

この年35歳で引退しました。35歳での引退も少し早いと思いましたが、30歳以降のキャリアがあまり伸びなかったのも残念でした。それでも200勝したのは、新人から若手時代に積み上げたキャリアがあまりにも大きいものであり「巨人のエース」たるにふさわしいものだった、という事だと思います。

 

 

 

 

 

 

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