思い出のプロ野球選手、今回は「外木場 義郎」投手です。
広島カープを弱小期から優勝へ導き、日本プロ野球界において最多の3度のノーヒット・ノーラン(うち1回は完全試合)を成し遂げた大投手です。
【外木場 義郎(そとこば・よしろう)】
生年月日:1945(昭和20)年6月1日
経歴:出水高-電電九州-広島('65~'79)
通算成績:445試合 131勝138敗3S 2,419 1/3投球回 118完投 27完封 1,678奪三振 防御率2.88
タイトル:最多勝 1回('75)、最優秀防御率 1回('68)、最多奪三振 1回('75)※当時連盟表彰なし
表彰:ベストナイン 1回('75)、最優秀投手 1回('75)、沢村賞 1回('75)
記録:完全試合 1回('68.9.14)
ノーヒットノーラン 2回('65.10.2、'72.4.29)
オールスター出場 6回('68~'70、'72、'74、'75)
節目の記録:勝利-100勝('75.4.5)
奪三振-1,000奪三振('72.8.14)、1,500奪三振('75.8.8)
●個人的印象
かつての広島の大エース、でした。
自分がテレビで見るようになった頃は既に晩年で、殆ど出番のない状態でしたが、当時の野球ブック(永岡書店?)みたいなもので、かつてすばらしい記録を成し遂げていたような事が書かれていて、往年の大投手みたいなイメージを持っていたと思います。
ただ、当時のカープは古葉(コバ)監督で、その球団にいたこの「外コバ」という名字の投手は、古葉監督の関係者?みたいな、側近?みたいな感覚で幼少時勝手に見てました。
あと、彼に関する新聞記事で覚えが鮮明にあるのは「抹消」の文字を生まれて初めて見た事です。
たしか「外木場、登録抹消」みたいな記事でした。多分、引退した1979年の新聞だと思います。当時小3で、この漢字の読みも知らなければ意味も知りませんでしたが、バッドニュースであろう事はなんとなく感じ取りました。案の定、この年に引退していました…。抹消が即引退では全然ないんですが。
●入団
高校時代は鹿児島の出水高校というところで、甲子園は惜しくも逃しており、そのまま社会人の電電九州へ進みました。「電電」の響きが懐かしいですが、今でいうNTTですね。
都市対抗には出たそうですが、それほどの実績がなく、それでも4球団の誘いを受け、そのうちの広島を選んで入団したといいます。
●初勝利がノーヒット・ノーラン
1965(昭和40)年がルーキーイヤーでしたが、1年目からそんなに出番があった訳ではなく、4月に初登板は果たしていますが、ポツポツとリリーフで数試合投げていたような感じで、9月下旬にようやく初先発を果たしました。この年先発を7度も記録しているので、これ以降の日程でまだ試合がある程度残っていたのでしょうか。
そして…10月2日。
2度目の先発となった阪神戦で、初勝利を挙げただけではなく、初完投・初完封、さらには「初勝利でノーヒット・ノーラン」をやってのけました。完全試合1回を含む、3回のノーヒット・ノーランのうち、最初は初勝利の時だった訳です。
しかもこの年は2勝1敗の成績で、うち1勝がノーヒット・ノーランなのだから驚きそのものでした。
●意外と振るわず
そんな鮮烈の初勝利を挙げ、オフを過ごした後2年目を迎えた外木場投手でしたが、1966(昭和41)年はまさかの0勝に終わりました。
先発も殆どなく2試合のみ、全25試合ので32 1/3回に終わり、3年目1967(昭和42)年も2勝3敗で、先発は10試合に増えたものの、最初の3年間では63試合で4勝5敗という成績で、パッとしない状況でトレードの話が持ち上がるほどになりました。
●ブレイク
大投手へと躍進したのが4年目1968(昭和43)年の事でした。
それまでの長谷川良平監督の下では「干されていた」とも言われるほどでしたが、この年新監督に就任したのが、後に西武王国を築き上げた根本陸夫氏で、これが転機となり、いきなり21勝を挙げ防御率はナント1.94で最優秀防御率のタイトルを手にしました。それまで年間で100㌄を投げた事がありませんでしたが、この年は300㌄以上を投げました。逆にこのペースの酷使ぶりが選手寿命が延びなかった要因かもしれませんが、それまでの相当な走り込みが制球力を生み出し、この躍進にもつながったといいます。
そして、2度目のノーヒット・ノーランをこの年達成し、それは「完全試合」にもなりました。
この年の記録でもうひとつ驚きなのが、「先発40試合」です。先発だけで40試合って中何日なんだよ?って話ですが、今の時代では到底考えられない記録です。
ともあれ、この年カープは球団創設以来19年目にして初のAクラス入りを果たし、それまでずっとBクラスでお荷物球団とも揶揄されたりしましたが、彼の快投がチームをAクラスへ押し上げたといっても過言ではありませんでした。
●低迷期の奮投
1969(昭和44)年以降は再び、チームは低迷期に入りBクラスが続いていく中、先発の柱として負け越しを重ねながらの奮闘が続いていきます。
1971(昭和46)年は惜しくも9勝に終わり、この年10勝していたら、翌年以降の5年連続を含む9年連続2ケタ勝利となるところでした。
この間、1970(昭和45)年には阪神・田淵幸一選手のこめかみへの死球禍があり、耳から流血する大怪我となり、これが耳当て付ヘルメットを着けるきっかけとなったといい、そんな事があって耳当て付になったんだ!と知りました。
今ではもっと耳の先からあごの近くまで突き出たヘルメットになっていますが、いろんな先例があって形が変わってきている訳ですね。
そんな中、1972(昭和47)年4月29日に実に3度目のノーヒット・ノーランを達成しました。これは日本プロ野球2人目の大記録であり、もう一人は伝説の投手・沢村栄治であり、50年を過ぎた今でもこの2人だけの記録です。
また、この年は節目となる通算1,000奪三振を達成しました。
●栄光の'75
1973(昭和48)、1974(昭和49)年はいずれもチームは最下位に沈み、そんな中でも2ケタ勝利をマークし続け、一方この2年間で35敗もしましたが、変わらず先発の柱として投げ続けました。
そして迎えた1975(昭和50)年、広島は外国人のコーチだったジョー・ルーツを新監督に据えた新体制でスタートしました。
その際に外木場投手は20勝をノルマとされ、4月にはルーツは監督を辞任してしまいますが、これを引き継いだ古葉竹識監督のもと、カープは遂に初のリーグ優勝を成し遂げます。球団創設26年目、ほとんどAクラスになった事のない状態での悲願達成、となったのでした。
そしてこのチームを支えた外木場投手になっても最高のシーズンになりました。
30歳を迎え脂の乗り切った時期、まだルーツ監督のいた4月に通算100勝を達成し、8月には通算1,500奪三振を達成しました。
そして最終的に自身2度目の20勝を挙げ、ベストナイン、最優秀投手、沢村賞と表彰関係はほぼ総なめで、当時連盟表彰のなかったという最多奪三振も記録しました。チームが初優勝に沸く中、外木場投手の輝かしすぎる実績はまさしく選手としての「絶頂」を迎えていました。
●晩年
カープ初優勝の1975年が明け、1976(昭和51)年のチームは貯金3で勝ち越すのがやっとで、外木場投手にとっては転換点となる1年でした。開幕前から肩の痛みでシーズン中はごまかしながらなんとか10勝を挙げましたが、10勝5敗。明らかにそれまでの活躍とは違う、なんとか最低線を守った感じで、しかしもうこれが限界でした。この年31歳でしたが、これが最後の2ケタ勝利となり、その後は勝ち星を2つ積み上げただけ。
1977(昭和52)年は1勝2敗、1978(昭和53)年は1勝3敗と、この時期が個人的に野球を見始めた時期で、彼の存在を知った時期でしたが、既に往年の姿は見る影もないベテラン投手となっていました。
そして1979(昭和54)年、カープは4年ぶりにリーグ優勝を果たし、前回果たせなかった「日本一」の美酒も味わう事となりました。前回優勝時に主力として絶頂を極めた外木場投手でしたが、4年後にはもう彼の活躍できる機会はなく、10月に1試合1㌄投げただけで、チームの日本一を花道に34歳で引退しました。実質31歳までがまともに投げられたかな、という太く短く燃え尽きた投手生命でしたが、そんな中で築いた通算131勝の輝かしい実績は、まぎれもなくカープの歴史に深く刻まれたたいへん印象深いものとなっています。
◎「カープ手帳'81」の名鑑にあった外木場氏です。
当時はコーチ2年目、36歳になる年でした。