思い出のプロ野球選手、今回は吉岡 悟選手です。 

 

長年の下積み生活を経て1976(昭和51)年に突如現れ、打率.309で首位打者を獲得した「控えの星」的存在で、主に福岡でのライオンズ時代に活躍しました。

昭和24年生まれの選手の記事はこれで最後となります。

 

【吉岡 悟(よしおか・さとる)】

生年月日:1949(昭和24)年4月14日

入団:ロッテ('71・ドラフト10位) 
経歴:富山商高-東京・ロッテ('68~'74)-太平洋・クラウン・西武('75~'79途)-日本ハム('79途~'81)

通算成績:546試合 打率.247 314安打 12本塁打 89打点 39盗塁

位置:内野手 投打:右左 現役生活:14年

規定打席到達:2回('76、'77)

タイトル:首位打者 1回('76)
表彰:ベストナイン 1回('76)

記録:1試合3三塁打('76.6.20) ※日本記録、パ・リーグ記録

 

個人的印象

クラウンの内野手、です。

首位打者を獲った時はリアルでは知りませんでしたが、その後太平洋からクラウンになった時のレギュラー内野手としてのイメージがあります。キャリアのほとんどを控えとして過ごしていましたが、一番良い時を偶々知ったのだと思います。

その前にロッテにいた事を全然知りませんでしたし、その後日本ハムへ移籍していたのは後で知りましたが、その時にはもう引退していました。

 

プロ入りまで

高校は富山県の強豪校・富山商業高校で、3年の春夏連続で甲子園に出場しています。

春の選抜は初戦敗退でしたが、夏は勝利を挙げ3回戦での敗退でした。

ちなみに富山商高は甲子園常連校の割にプロ野球OBがほとんどおらず、近い世代にも目立ったOBは確認できませんでした。後に広島に入った浅井樹選手は20歳以上年下です。

1967(昭和42)年のドラフト会議で当時の東京オリオンズから10位指名を受けて入団しました。この時のロッテは12位まで指名していますが、当時は入団拒否も多く、下彼より下位指名の2名も拒否していて、指名されて入団した選手の中では最下位でした。ちなみに1位はあの村田兆治投手でした。

入団時の背番号は「31」で、ロッテ在籍時はずっとこの番号を背負う事になります。

 

初期キャリア

こうしてロッテに入団した吉岡選手でしたが、二塁のポジションは3つ年上の山崎裕之選手がガッチリつかんでいてなかなか出番がなく、1年目の1968(昭和43)年は一軍出場なしに終わり、初めて一軍戦に出たのは2年目1969(昭和44)年でした。

この時もわずか2試合のみの出場で、2打数無安打に終わりました。

 

3年目1970(昭和45)年もチームはリーグ優勝に盛り上がっていたのに、自身は1試合のみ打席1で四球のみでした。

 

初安打は4年目の1971(昭和46)年で、この年は10試合に出場し10打数2安打(打率.200)を記録し、2安打のうち1本は三塁打を記録しています。

しかし5年目1972(昭和47)年は1打数無安打で、ここまでのプロ5年間で17試合出場、13打数2安打で0打点の成績であり、同級生の大卒選手も入団してきており、そろそろ猶予ならなくなってきた感がありました。

 

1973(昭和48)年ににようやく待望の初打点、初本塁打を記録し、45試合出場と大きく機会が増え、20打数4安打(打率.200)で1本塁打1打点を記録、初打点がソロホームランによるものでした。

そうして、ようやく戦力になっているだろうか?と思われましたが、1974(昭和49)年は4試合のみの出場で、12打数3安打(打率.250)で2打点に終わりました。この年はチームは日本一に輝きますが、4年前同様ほとんど戦力になっていませんでした。

 

ここまでの7年間でトータルして66試合で45打数8安打、1本塁打3打点と、既に25歳になっていて、なかなか一軍の戦力としては厳しい状況を迎えていました。

 

太平洋へ、そして開花

1975(昭和50)年にトレードで太平洋へ移籍となりました。背番号は「22」となりました。

と同時に、ロッテではなかなか巡ってこなかった出番が回ってくるようになりました。

ここでは、前にいたロッテの先輩二塁手・山崎裕之選手がライオンズへやってくる前の二塁手として基満男という選手が君臨していましたが、幸いにも出番が得られ、69試合に出場し、105打数23安打(打率.219)で2本塁打7打点と、初めて100を越える打席に立ち、8年目にしてようやく戦力らしい活躍をし数字を記録できた感がありました。

 

首位打者獲得

75年の太平洋移籍で戦力として台頭してきた吉岡選手ですが、1976(昭和51)年は正二塁手である基選手が故障欠場した事もあり、5月から代役とはいえ先発出場する日々を過ごしました。

彼の選手キャリアの栄光のほとんどがこの年に凝縮されているといっても過言ではないくらいの大活躍を見せますが、6月20日には「1試合3三塁打」という日本記録を打ち立てました。尚、シーズンでは13三塁打を記録し、リーグ最多となりました。

シーズン途中から定位置に就いたので、当初は規定打席に届いていませんでしたが、8月中旬には規定打席に到達し.275の打率で11位につけました。この年のパ・リーグは元々3割打者がほとんどおらず、この時点で門田博光選手(南海)だけが3割打者という状況でした。

9月7日に3割に到達し、更には中旬に門田選手を抜き、遂に首位に躍り出ました。3割そこそこの低打率での争いで、他には藤原満(南海)、加藤秀司(阪急)といった以前からバリバリのレギュラー選手ばかりがライバルとなりました。

 

そしてこの4人は、最後の最後129試合目を終わった時点でも、すべての選手にタイトル獲得の可能性のある状況で、シーズン最終戦を迎えました。しかし他の3選手はすべて、その日の打率10割にしないと吉岡選手に届かず、結局は全員が追いつかない形となり、翌日に最終戦を迎えた吉岡選手は4打数3安打で締めくくり、110試合に出場し382打数118安打で.309の低打率ながら見事「首位打者」のタイトルを手にしました。

この当時の活躍の要因を「野村克也さんのリードが読めるようになったから」と後に本人が述懐しています。

 

当時は打率.310以下で首位打者を獲得した選手は2リーグ制以降では、セ・リーグでは森永勝也選手(広島)の打率.307がありましたがパ・リーグでは初めてでした。昨年2023(令和5)年にオリックスの頓宮裕真選手が.307で更新するまで、47年間もリーグ最低打率首位打者の記録でした。

この首位打者には他にもいろいろな「初めて」要素があり、右投げ左打ち選手のパ・リーグ初の首位打者でもあり、最少本塁打(2本)の首位打者でもありました。この記録は11年後の1987(昭和62)年に正田耕三選手(広島)が0本で更新しますが、今でもパ・リーグ最少記録としては残っています。更には併殺打「1」も最少タイ記録です。

こうして史上最低打率の首位打者として脚光を浴びた吉岡選手、この年唯一のベストナインも受賞しました。

 

クラウン~西武期

1977(昭和52)年、球団は太平洋からクラウンとなり、打率は大きく下がりましたが、2年連続で規定打席に到達し114試合出場、387打数88安打、6本塁打36打点と、打率と安打数以外の多くの項目で、実はキャリアハイを記録しています。ただやはり打率は前年の.309から.227と大きく落としており、前年に浴びたほどの注目は感じられず、平凡な印象に終わった感がありました。

腰痛の影響もあり、これを最後に再び控えに戻る形となり、1978(昭和53)年は100試合には出たものの207打数49安打(打率.237)で0本塁打12打点で、それまで2年連続で2ケタ記録していた盗塁もこの年は3個のみでした。

 

そしてクラウンの2年間が終わり、新生・西武ライオンズとなって所沢へ移転した年となりましたが、この時に阪神から電撃トレードで田淵幸一選手を獲得したことで、自身がつけていた背番号22を田淵選手に譲る格好となり、新たに「8」というレギュラークラスの背番号を得ました。

移転した新生球団での定位置争いに燃えていましたが、この1979(昭和54)年西武で19打数2安打に終わると、シーズン途中に行沢久隆選手との交換トレードで日本ハムへ移籍する事となりました。

 

日本ハムでの晩年

こうして1979年途中から日本ハム在籍となった吉岡選手は、レギュラークラスの背番号「4」を与えられ、移籍直後こそ3安打猛打賞を記録するなど結果も残したものの長続きせず、日本ハムでのこの年の成績は40試合で101打数23安打(打率.228)で1本塁打4打点、ホームランはこの年の1号が現役最後のものとなりました。

1980年代に入るとほとんど出番がなくなり、翌年との2年間とも10試合余りの出場で10ほどの打数で1安打ずつ上積みしたのみで、1980(昭和55)年の3打点が最後の打点となり、翌年共々1割にも満たず、1981(昭和56)年に32歳で引退しました。

 

 

優勝との縁

ロッテ時代に2度、日本ハムで1度、チームは優勝していますが、いずれの年も自身が活躍機会に恵まれず、活躍した時が弱小球団での低迷期で、優勝に直接貢献できなかったのはたいへん残念でした。

 

引退後は福岡に戻り、その後解説者を主としていました。近況として昨年オリックスの頓宮選手が自身の首位打者最低打率を更新した事に際してインタビューに答えた記事が載っており御健在であることが分かりました。

 

 

↓1981(昭和56)年の選手名鑑より。

 この年に引退する事となますが、当時の日本ハム内野手は若く、32歳で内野手では最年長でした。

      

 

 

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