思い出のプロ野球選手、今回は「門田 博光」選手です。

 

常に豪快なフルスイングで、アキレス腱断裂で選手生命も断たれかねない状況を克服してホームランを積み重ねた「アーチスト」でした。

 

【門田 博光(かとた・ひろみつ)】

生年月日:1948(昭和23)年2月26日

没年月日:2023(令和5)年1月(享年74歳)

経歴:天理高-クラレ岡山-南海('70~'88)-オリックス('89~'90)-ダイエー('91~'92)

通算成績:2,571試合 打率.289 2,566安打 567本塁打 1,678打点 51盗塁

タイトル:本塁打王 3回('81、'83、'88)、打点王 2回('71、'88)、最高出塁率 3回('81、'87、'88)

主な表彰:MVP 1回('88)、ベストナイン 7回('71、'76、'77、'81、'83、'88、'89)、カムバック賞 ('80) 

記録:オールスター出場14回('72、'75~'77、'80~'84、'87~'91) 

 

●南海ドラフト2位

 

1969(昭和44)年のドラフトで南海から2位指名されて入団しましたが、この前の年が「超豊作」ドラフトで、実はこの年にも阪急からドラフト指名されていましたが、10位指名というかなりの下位で社会人チームの事情もあり拒否し、翌年南海からの指名で入団した格好です。

 

●初期キャリア

 

新人の1970(昭和45)年こそ規定打席未満でしたが、2年目の翌1971(昭和46)年からレギュラーポジションを確保し、ホームランも31本打って、打点はナント120で初のタイトルとなる打点王を獲得していますが、その後しばらくはホームランはこれ以下で推移し、それほどのホームランバッターではありませんでした。

 

打率では2年目に.300をマークして以降3年連続で3割を記録し、ホームランよりもアベレージヒッターの成績でした。それでも当時の野村監督や、王選手の諫めにも耳を貸さずフルスイングのスタイルは最後まで貫いていたといいます。

 

●唯一の優勝

 

4年目の1973(昭和48)に南海最後の優勝となりますが、これが門田選手の現役生活23年間の中でも「唯一の」優勝機会でした。それも日本一はならず、優勝と縁遠い現役生活であった為、なかなかMVPの機会がなく、40歳になった1988(昭和63)年に、優勝チーム以外から選ばれる形でたった一度の受賞をしています。

 

●呪縛の解放

 

初期キャリアでホームランがそれほど多くなかったのは、当時の野村監督から大振りをすると怒られており、それでもスタイルを貫いたのは先述の通りですが、やはりそこはチームなので無視するわけにもいかず、また野村兼任監督が4番を打ち、門田選手がその前の3番に起用されていたのも、そういう指示につながった(自身の前でヒットを打ってくれさえすればよい的な)のではと思います。

 

そんなこんなで、ある程度従わざるを得なかったものと思いますが、1977(昭和52)年野村監督が解任されると、その「呪縛」から解放された訳です。

後の特徴となる重いバットを使うようになり、本格的にフルスイングを「解禁」し、ホームランバッターへの道を歩み始めました…

 

自分が彼の存在を知るようになったのは、ちょうどこの時期だったと思います。たしかポパイとあだ名されているような事を、当時見た本には書いてあった記憶がありますが、後は全然違うスタイルとなっており、今検索してもそのようなあだ名が出てこないですね。幻を見たんだろうか…と不思議な気分です(笑)

 

●大怪我

 

1979(昭和54)年のキャンプ中に、アキレス腱断裂の大けがでシーズンをほぼ棒に振りました。この時の事をかすかに覚えていますが、南海の中心選手が大けがで試合に出てこなくなった、的なイメージで記憶していて、戻ってくるかどうかぐらいのレベルだったと聞いた気がしました。

 

●ホームランバッターへの開花

 

この怪我と、その前の大振り解禁とが相まって?より一層「全打席ホームラン狙い」へ傾倒していったといいます。

アキレス腱のケガなので、やはり走塁で無理が利かず、それまで外野を守っていたのが指名打者が主戦場となり、また走らない為には「ホームランを打つ」となり、また野村監督がいなくなり、安心して大振りができる、それらが合わさる格好で、成績として初めて現れたのが1980(昭和55)年、32歳のシーズンでした。少々状況は異なるものの、山本浩二選手同様の「遅咲きスラッガー」という事になります。この年は111試合の出場ながら、ホームラン41本と初めて40本の大台に乗りました。ちなみにこの年は「カムバック賞」を受賞しています。

 

●ホームラン王へ

 

翌1981(昭和56)年33歳にして初の本塁打王のタイトルを獲得、2年連続の40本越えとなる44本というキャリアハイを記録しました。翌1982(昭和57)年は、新人の年とアキレス腱断裂した年と引退した年以外で唯一、規定打席に届きませんでしたが、1983(昭和58)年は40本塁打で2年ぶり2度目の本塁打王を獲得しました。

 

この当時背番号がどんどん大きくなっていくのも、殆どの選手とは逆でユニークでしたが、自分が見始めた時は「27」でしたが、「44」となり「60」となっていきました。
 

 

その後しばらくは、本塁打は少し落ち、打率も低調になってきており、年齢相応の衰えが多少なりありながらも奮闘している、そんな印象でした。

 

●不惑の大砲

 

しかし40歳で迎えた1988年は、前年1987(昭和62)年打率.317で6年ぶりの3割をクリアしたところを受けてか?充実したシーズンとなり、打率.311、44本塁打、125打点というプロ19年目の40歳にして、すべての数字がキャリアハイというまさに「偉業」を成し遂げたのでした。

 

この末恐ろしい40歳が、この後どんな活躍を続けるのか??という中で、彼が所属する南海ホークスはダイエーへ身売りする事が決定し、福岡へ移転する事となりました。

 

●移籍

 

ホークスが福岡へ移転する事となり、福岡ヘの移転に色々な面で障害がある、となり関西に残る事が条件となり、結局は1989(平成元)年のシーズンより阪急(新生オリックス)の選手とトレードで移籍する事となりました。背番号はまた大きくなって、コーチ陣がつけるような「78」になりました。

 

オリックスへ移っても、そして41歳になっても、その打棒は健在で当時の「ブルーサンダー打線」の中軸を担う大活躍を見せ、打率.305で33本塁打93打点という、まったく年齢を感じさせない成績を残していました。翌1990(平成2)年は打率こそ.280でしたが、しっかり規定には届き、31本塁打91打点と42歳とは思えない活躍ぶりでした。

 

●最後の球団

 

オリックスのブルーサンダー打線の中軸で変わらぬ活躍を続けた門田選手でしたが、2年でオリックスを離れ、また長年慣れ親しんだ関西をも離れ、最後にまたホークスへ戻る形で福岡へと移りました。ダイエーへの移籍です。

 

1991(平成3)年は43歳のシーズンですが、この年も規定打席に到達、打率.264、18本塁打66打点と、さすがに数字は落ちたものの、43歳という年齢を考えると驚異的なものでした。

 

31歳でアキレス腱断裂の重傷を負って10年余り、第一線で活躍し続ける事自体がもはや尊大なものでした。

 

1992(平成4)年は実に44歳で迎えるシーズンで、さすがに衰えが隠し切れないレベルでしたが、それでも7本塁打23打点を挙げており、代打などでよければもう2年くらいはやれそうでしたが、潔くここでというような形で44歳で引退しました。

 

●本塁打歴代3位

 

通算本塁打567本はNPBで王貞治、野村克也氏に続く歴代3位で、500本越えは8人いますが、550本越えとなるとこの3名だけになります。それだけ偉大なホームランバッターで、またその中でも放物線をきれいに描く、ホームランバッターらしいバッターでした。

 

また通算打率.289となかなかの高率で、規定打席到達での3割を実に9度もマークしています。

 

※2023年1月24日、門田さんの急死が報道されました。74歳でした。

村田兆治さんに続きパ・リーグを賑わした偉大な選手がまた一人、旅立たれました。

謹んでご冥福をお祈りいたします。

 

 

という訳で稀代のアーチスト、門田博光選手でした。

 

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