思い出のプロ野球選手、今回は 「片岡新之介」選手です 

 

1970年代から80年代にかけて、3球団に在籍し貴重な控え捕手として、また代打要員として活躍した選手です。

 

【片岡 新之介(かたおか・しんのすけ)】

生年月日:1947(昭和22)年11月5日

入団:西鉄('69・ドラフト5位) ※入団は1971年
経歴:倉敷工高-芝浦工大中退-クラレ岡山-西鉄・太平洋('71~'75)-阪神('76~'80)-阪急('81~'86)

通算成績:716試合 打率.239 344安打 36本塁打 139打点 6盗塁

 

●個人的印象

阪神の控え捕手、です。

そして阪急のいぶし銀、でしょうか。

阪神の頃は、怪我の多かった田淵幸一選手の欠場時は先発出場していましたが、その時は片岡という名前の捕手がいるな、という程度でした。(フルネームまで知りませんでした)

阪急時代は当時球団発行の「イヤーブック」に勝負強い打撃のいぶし銀なる紹介文が書かれていました。そこで初めてこの選手の顔と名前が一致しましたが、以後一軍戦に出場する機会がほとんどなくなってしまいました…。

 

歌舞伎役者で俳優としても活躍する片岡愛之助という人物が有名になり始めた頃、真っ先にこの選手の名前が自分の脳裏には浮かびました。そういう血筋の人物ではないでしょうが…。

 

●プロ入りまで

高校は岡山県の倉敷工業高校で、同期の松岡弘投手や1学年上の星野仙一投手は倉敷「商業」高校でした。

そんな倉敷工で、2年まで捕手で3年生では投手を務め、その松岡投手や平松政次投手といった球界を代表する面々と共に「岡山四天王」と称されたといいます。

残念ながら甲子園出場はならず、芝浦工大へ進学するも中退し、社会人のクラレ岡山へ進みます。ここでは門田博光選手が同級生にして同僚となりました。ちなみに「クラレ」というのは「倉敷レーヨン」の事なんですね。

 

都市対抗に毎年のように出場したことが認められてか、1969(昭和44)年に西鉄ライオンズよりドラフト5位指名を受けましたが、翌1970(昭和45)年に入団せず、社会人でこの年いっぱいプレーすることを条件に西鉄入りする事となり、1971(昭和46)年に入団となりました。

 

●西鉄~太平洋時代

という事で1971年がルーキーイヤーとなりますが、この当時の西鉄ライオンズといえば「黒い霧事件」で揺れまくっている真っ只中であり、当時のレギュラー捕手がこの年限りでトレードに出される等で熾烈なレギュラー争いに参戦する事となります。

1年目は29試合の出場で、17安打で打率.258、3本塁打9打点の成績を残しました。

 

2年目1972(昭和47)年が結果的にはキャリアハイの年になりましたが、唯一の100試合越えとなる111試合出場で、65安打10本塁打30打点もキャリアハイでした。そんな実りある1年を過ごしたものの、球団が西鉄としては終了となり太平洋クラブライオンズへと変わっていきました。

 

太平洋初年の3年目1973(昭和48)年からは熾烈な正捕手争いとなり、この年はベテラン宮寺勝利選手としのぎを削りますが出番は半減し、1974(昭和49)年は更に楠城徹選手が入団しライバルが増えますが少し盛り返して5本塁打22打点を残しています。

 

1975(昭和50)年は前年に宮寺選手が引退しましたが、若手の楠城選手が急成長してほとんど出場していた為、片岡選手の出番が激減してしまいました。入団以来最少の24試合出場、12安打、初の本塁打ゼロにおわり、最低のシーズンになってしまいましたが、皮肉なことに打率は.353をマークしていました。

 

●阪神へ

西鉄~太平洋と激動期を過ごしましたがライオンズでの在籍は5年間となり、1976(昭和51)年には加藤博一選手と共に阪神タイガースへ移籍しました。

 

当時の阪神といえば、田淵幸一選手が主砲として、正捕手として君臨していました。

が、その田淵選手より1歳年下になりますが、田淵選手はなにより怪我が多く、欠場機会も多かったので、控えの捕手が必要という判断だったのかなと思います。

 

この時期田淵選手が前年1975年から2年連続で130試合フル出場していた為、あまり出番はありませんでしたが、移籍2年目の1977(昭和52)年は田淵選手が故障し102試合しか出られず、彼に代わり先発マスクを務める機会が増え、50安打で打率.270、10本塁打27打点を記録しました。
10本塁打は2年目1972年以来5年ぶり2度目、これが最後の2ケタ本塁打となりましたが、30歳を迎えるシーズンに一定の成績を残して、30代でもまだまだ現役でやれると確信したのではないかと思います。

 

翌1978(昭和53)年は、かなり数字は落としたものの前年に近いレベルの出番を得て控え捕手として存在感を示しました。そしてこの年オフ…衝撃の田淵選手トレード通告がありました。

片岡選手にとってはライバルどころか絶対的な存在である田淵選手が新生・西武ライオンズへトレードとなり、これはレギュラー奪取のチャンス、と思ったのでは思います。

しかし、田淵選手とのトレードで阪神へやってきたのは、かつて太平洋で同僚であった若菜嘉晴選手で、若菜選手は片岡選手が阪神へ移籍後、球団が太平洋から「クラウン」になった頃に正捕手となっており、新進気鋭の若手捕手として移籍先の阪神では正捕手に固定され、逆に片岡選手の活躍機会がかなり限定的になってきました。

結果として急速に出番が減る事となり、1980(昭和55)年にはわずか19試合とプロ入り最低の出場数となり、これもプロ入り初の1ケタ安打(4安打)に終わりました。

 

この年のオフに捕手同士の交換によるトレードで、巨人から移籍したばかりで出番に恵まれなかった笠間雄二捕手と交換の形で阪急へ移籍しました。この巨人↔阪急のトレードでは、阪急・柳田真宏選手と巨人・永本裕章投手が交換されていますが、この2人は前年にも同じ組み合わせで交換され、2年連続同じ組み合わせの出戻りトレードという大変珍しい例となりました。

 

●阪急時代

1981(昭和56)年から阪急でプレーする事となりましたが、当時の阪急はV3も過ぎ去り、リーグ優勝からも離れていくようになり、まだまだ強い球団ではありましたが全盛は過ぎており、チーム全盛時の主力が続々と引退を迎えようとする、まだ戦力転換のなされていない状況でした。

 

捕手では、ひとつ年上の中沢伸二捕手が正捕手として君臨し、控えや代打などで活躍したひとつ年下の河村健一郎捕手(片岡選手とは芝浦工大の同級生)がいましたが、どちらかというと指名打者での出場が多く、捕手では若手の笹本信二捕手が中沢選手を補う形で出ていた格好でした。

そんな中に34歳になる年で移籍してきました。

 

移籍した1981年はそこそこ出番があり、29安打で打率.302をマークし、捕手としては少ないながらも盗塁阻止率.500(26-13)をマークし、攻守に存在感を見せました。

1982(昭和57)年からは出番が減りだしますが、1983(昭和58)年はそれまで本塁打がずっとありませんでしたが、4年ぶりの本塁打を放つと、最終的に4本塁打をマークし、4本塁打5打点という妙な記録を残します。打点がほとんどホームランによるものという事です。

 

36歳になる年でもこのようなしぶといバッティングを見せていた片岡選手でしたが、翌1984(昭和59)年から2年間一軍出場なしに終わりました。

それまで君臨していた中沢選手も38歳になる年で、ここへ23歳になる新鋭の藤田浩雅捕手が抜擢され、チームは6年ぶりのリーグ制覇に湧き、藤田選手一本立ちの感すらあり、この年新人王も獲得しています。

そんな中で中沢選手が控えに回る事になり、その控えであった片岡選手の出番が無くなってしまったという事でしょうか。当時の阪急では若手の長村裕之選手(後にオリックスの球団本部長に就任)も将来を期待された選手の一人で一軍戦に出だした頃でもありました。

 

しかしそれでも現役は続行となり、1985(昭和60)年も一軍なしながら引退とはならず、逆に控えに回って一軍戦にも出ていた中沢選手が39歳で引退し、1986(昭和61)年には7試合だけ出場し、2打席で三振と四球1個ずつを記録して39歳で引退しました。ほぼ控え捕手としてのキャリアであったため、16年間の現役生活で規定打席到達は一度もありませんでした。

捕手というのは実績がなくても、いなくなると困るポジションなので万一の為に残っていたのかもしれませんが、それでもラストイヤーに7試合だけでも出られる事になってよかったと思いました。

 

 

1985(昭和60)年の選手名鑑より
阪急の捕手として在籍していました。

誕生日は同僚の福本豊選手と同い年で、彼より2日早く生まれています
かなりお酒が強いようで。製図が得意なのは工業系の高校・大学の経歴からでしょうか。

前年1984(昭和59)の成績は★が付いていまイブシすが二軍での成績で、この年一軍戦出場はありませんでした。当時二軍は80試合制だったので8割は出ていた事になります。

「イブシ銀の打撃を眠らせておくのは惜しい」とコメントがありますが、一軍戦に出られなかった事に対するコメントであることを感じます。

( )内の通算成績を見ても、最下の通算成績表と比べてほぼ変わりなく、1986(昭和61)年の実績がわずかに上積みされたのみで、この翌年に引退しています。

 

その後翌年からの広島コーチ就任は驚きでした。

出身が広島ではありますが、阪急のコーチにならず、他の西武や阪神などの在籍した球団でもなく、それらの関係者がいたとも思えない広島でなぜコーチになったのか?と。当時の広島首脳陣が彼に目を付けたのでしょうか?未だに謎ですが…結局ここで1

7年間もコーチを務める事となりました。

しかし更に驚きは73歳で高校野球の監督になった事でした。

呉港高校の野球部監督に就任し熱血指導を行っているとの事で、76歳になってもまだ指導者の第一線で活躍されているのは素晴らしいですね。この夏の広島大会では今回出場した広陵高校に敗れましたが、準々決勝まで進出していました。

 

 

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