タタハ クシーヤテー プラカーシャ・アーヴァラナン

呼吸法によって、

冴えた知性の働きを邪魔する

タマス(鈍質、怠惰、眠け、無知)が取り払われます。

 

ヨガスートラ2章52節にはそうのように書かれています。

 

タマス(鈍質、怠惰、眠け、無知)が取り払われると

知性を邪魔する9つの原因は消えてゆきます。(ヨガスートラ1章30節)

①体調不良 

②無気力・心が冴えない 

③疑い・不信感 

④注意散漫 

⑤怠惰 

⑥頑固・イライラ 

⑦歪んだ見解 

⑧達成感がない・欲求不満 

⑨進歩しても継続できない・意欲がつづかない

 

知性を邪魔する9つの原因

わたし個人的には日々消すことを

繰り返さないと

生きている間に

何度でも現れてくるもの

だと感じています。

 

澄んだ静かな水面のように

穏やかで安定した

心の状態を

できるだけ保ちたいから

呼吸法を大切にしています。

 

呼吸の動き

心の動き

肉体の動きは

密接につながっています。

 

心をおさめる瞑想に入る前に、

体はアーサナ(ヨガのポーズ)で

呼吸はプラーナヤーマ(呼吸法)で

静かに穏やかに整えると

心は穏やかに集中して深い静寂にいたりやすく

なることが感じられます。

 

 

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すす大人でも子供でも

これを知っていればどこのお教室でも通用するという

基本マナーをまとめました。

 

最近は、マナーを教えてくれるバレエ教室ばかりでは

なくなったので、マナーを知らない人はそのままになり、

実は白い目で見られていた!という事になってしまいます。

お気をつけてください。

 

<バレエレッスンのマナー>

 

1.挨拶

挨拶には大変厳しい世界です。

子供の頃から徹底します。

バレエはどの時間帯でも基本の挨拶は「おはようございます」です。

先生の他にピアニストさんや助手の先生がいらっしゃる場合も

「おはようございます」「よろしくお願いします」と挨拶をします。

終了後はもちろん「ありがとうございました。」「お疲れさまでした」とご挨拶します。

 

2.更衣スペースでの譲り合い

バレエの着替えはレオタードを着用したり、タイツを履いたり

着替えに時間がかかるものです。

更衣室は大きいところばかりではないので

着替えたらすぐに退出して場所を譲りあいます。

棚やロッカーの前に大きく自分の荷物を広げたり、

床に座っての着替えや、着替え終わってからのお喋りは

迷惑になってしまいますので、更衣スペースの外でお話しましょう。

 

3.私語は厳禁

レッスン中の私語は厳禁です。

振りがわからない時は先生に聞きましょう。

話しかけられた方の迷惑になるような行為はしてはいけません。

バーレッスンとセンターレッスンの間も休憩時間ではありませんので

お喋りを始めてはいけません。レッスンの一部と思います。

みなが集中してレッスンができるように配慮します。

 

4.道具を大事にする

いつもお世話になっているバーや鏡は大事に扱います。

バーにぶら下がったり寄りかかるのはもってのほかで

バーにタオルをかけるのもよくないマナーです。

タオルや水分補給用のペットボトルは床にはおかず

棚の上に置きましょう。

 

また、バーを準備したり片づけることも

協力しあって皆で準備しましょう。

 

5.バーレッスンにおいて

先生が説明をしている時は、鏡と先生の間や先生の真正面には

立たないようにします。

また、後ろの人が見やすいようにも気遣います。

先生に背中を向けて話をきいたり

手を腰にあてて聞くのは

失礼な態度なのでひかえます。

 

6.センターレッスンにおいて

プチ・アレグロやグラン・ワルツのレッスンの時は

途中で振りを忘れてしまったら、立ち止まらずに皆が動く方向へ

一緒に移動しましょう。

次のグループのために自分の振りが終わったら近い方の斜め前か横へ

「バレエの走り方で美しく」走り抜けます。

踊り終わったと思ってゆっくり歩いたりするのはNGです。

 

7.バレエ教室とオープンクラスやスポーツジムの違い

バレエにはオープンクラスと教室があります。

「オープンクラス」は教室に所属する事なく、気軽に一回限りで参加が出来ます。

スポーツジムの中にもバレエクラスがある所があります。

オープンクラスやスポーツジムでは用意された時間枠で、不特定多数のお客様が

バレエレッスンができる場所です。

 

バレエ教室はオープンクラスやジムとは違いますので、お客様とスタッフの

関係ではありません。

バレエ教室はバーの準備やお掃除も、良いレッスンも、講師と生徒さんとで

協力して作り上げます。

 

講師は、参加される生徒さんにとって

①身体的にも知的にも成果がでるように ②バレエ技術と芸術性を高めるための

テーマをもって ③前向きな気持ちでレッスンができる雰囲気づくり 

を考慮してクラスを設定しています。

 

8.人から何か借りた時

うっかり忘れ物をして人から何か借りた時は、

洗濯ができるものは洗濯してからお返ししましょう。

ヘアゴム、ピン、ネットなど消耗品の場合は次回新しいものでお返しするのが

良いと思います。自分の汗がついてしまったものをそのままお返しするのは

美しくない行動と考えるからです。

 

<最後に>

バレエは単なるダンスではありません。

何世紀にわたり洗練されてきた伝統で、芸術様式です。

バレエの世界で重要なのは「尊重」という概念です。

尊重とは

芸術、歴史、仲間、観客、

そして自分自身に対する尊重です

 

「ただ先生が偉いと言っているだけ」

そんな、無教養な浅い考えをSNSで見るたびに

とても残念で悲しい気持ちになります。

 

バレエの「礼儀」と「マナー・エチケット」は

バレエ芸術の一部であると同時に伝統でもあるものです。

 

 

 

バレエの世界では、朝昼夜 時間帯を問わず

「おはようございます」の挨拶が基本ルールです。


これはバレエに限らず、

舞台業界、音楽や演劇の世界でも 一般的に

良く使う挨拶で 

「おはようございます」の由来には諸説ありますが、

挨拶の中で唯一敬語だからという説があります。


挨拶はバレエでは本当に大切な

マナーの一つなので

幼児クラスの生徒さんも

最初に教わります。


スタジオに入るときは元気よく「おはようございます!」

レッスンが始まる時には「お願いします」

レッスンが終わる時には「ありがとうございました」

 

 元気にご挨拶をしてくれます。

 

レッスン開始時とレッスン終了時にはレヴェランスを行います。

レヴェランスはバレエのお辞儀のことで、

フランス語で「崇敬、尊敬」という意味があります。


レッスンでのレヴェランスは、

バレエを教えてくれた教師に対する崇敬、

ピアノを弾いてくれたピアニストに対する崇敬と

いうことになりますが


私は「教師と生徒とピアニストはいないので音楽とが

協調してより良いレッスンをする、または終わった時に

お互いに対する崇敬として」

レヴェランスをしていると考えています。



舞台でのレヴェランスは踊り終わった後に、

観に来てくださったお客様に対して

心を込めて美しく優雅にレヴェランスを行います。


レヴェランスはとても優雅に、心を込めて行うことが大事です。

美しく優雅なレヴェランスができるようになることから

バレエの練習がスタートします。


「ラ・シルフィード」とならぶ

ロマンティックバレエの代表作に

1841年にパリ・オペラ座で初演された

「ジゼル」があります。

(パリオペラ座バレエ団)

 

テオフィール・ゴーティエによって

書かれた「ジゼル」の台本は

「村娘のジゼルが恋する男性の裏切りを知り、

そのショックで命をおとしますが

精霊ウィリになり愛する男性を守る」 という

ロマン主義の時代を象徴するようなストーリーです。

 

(テオフィール・ゴーティエ)

 

 テオフィール・ゴーティエはフランスの劇作家・詩人・評論家で

「レ・ミゼラブル」の原作者ヴィクトル・ユーゴーと出会って

ロマン派の先頭に立って活躍した人で、バレエの評論家でした。

 

 ゴーティエのバレエ評論は、現代の感覚で読むのは厳禁で、

19世紀ロマン主義の時代はこんな感じだったのだろう、、と

想像力をたくましくすることが必要です。

 

 たとえばこんな風です。。。

 

「まず彼女の体つきから語ろうではないか。そして、

次に語られるべきことは才能ということにして」

 

「背が高く、やせていて、骨細で、プロポーションも美しいが、

あの張り付いたようなスマイルをやめたら、もっときれいなのに」 

(ジゼル1幕の衣裳を着たカルロッタ・グリジの版画)

 

そのゴーティエが30歳の時に、初演でジゼルを踊った

21歳のカルロッタ・グリジへの「愛の証」として

「ジゼルの物語」を捧げるのですが、

グリジは「ジゼル」の振付をしたジュール・ペローと

結婚してしまいます。

 

ゴーティエの恋は片思いに終わります。

(ジゼル第2幕のカルロッタ・グリジの版画)

 

 カルロッタ・グリジはイタリア出身のダンサーで、

7歳の時にミラノ・スカラ座の舞踊学校に入学します。

 早くから才能をみとめられ、14歳でイタリア各地を巡演するようになり、

16歳の時にナポリでダンサーで振付家のジュール・ペローと出会うのでした。

 

 一目でグリジに心惹かれ、その才能を見抜いたペローは、

教師として彼女の成長を手助けしながら公私ともにパートナーを組み

イタリア各地やロンドン、ウィーンなどで踊ってきた後に、

グリジのためにパリ・オペラ座との契約を獲得して、

「ジゼル」でグリジの踊りの大部分を振付けたのでした。

 

どうやら初めからゴーティエに勝ち目はなかったようですね。

 

(カルロッタ・グリジとジュール・ペローの版画)

 

ただし、恋敵のジュール・ペローのことをゴーティエはとても誉めています。

 

「静かな敏捷さ、完璧なリズム、そしてゆったりとした優雅さ。

 ペローは軽やかさそのもの、ペローは空気の精、

ペローは男性版マリー・タリオーニだ!」

(エドガー・ドガ「バレエのレッスン」(1874年)の中に

年老いたジュール・ペローが

オペラ座のダンサーに指導をしている姿が描かれています)

 

 

 ロマンティック・バレエ時代は、女性ばかりがバレエの中心になり、

やがて、男性役すら女性ダンサーが踊ることも頻繁になり

活躍の場を失った男性ダンサーの多くはロシアへ渡ります。

 当時のオペラ座の観客の多くは富裕層の男性で、

ダンサーの多くは貧しい家の娘達でした。

エドガー・ドガ「舞台稽古」(1874年)には、

ダンサーの中から愛人を選びにきた男性が、

ふんぞりかえって舞台稽古を見ている姿が描かれています。

 

1870年の「コッペリア」初演を最後に

フランスのロマンティック・バレエは衰退してゆきました。

 

 19世紀の初め「ロマンティック・バレエ時代」

バレエはフランスで繁栄して、

現在のバレエの基礎のスタイルが確率されました。 

 

 そして次の時代がやってきます。

バレエの活動の中心はロシアへと移ってゆくのでした。

URL: youtu.be

参考文献:

バレエの魅力 マーゴ・フォンテーン著

帝室劇場とバレエ・リュス 平野恵美子著

バレエ・ヒストリー 芳賀直子著


 

ロマンティックバレエは

「ロマン主義」がフランスに伝わって

生まれました。

 

期間にすると

1830年から1870年までの

40年間くらいです。

 

それまでのバレエの物語は

神話の神々や王

そうでなければ

農民とか中産階級を主人公にしたもの

ばかりでした。

 

それが

妖精と人間の恋物語

遠い異国の冒険物語

身分違いの恋愛などが

主題になり

 

「ラ・シルフィード」や「ジゼル」などの

数々の名作が生まれました。

 

(ラ・シルフィードを踊るマリー・タリオーニ

 

 

「ロマン主義」は

19世紀ヨーロッパに巻き起こった思想で、

文学、哲学、美術、音楽、演劇、舞踊など

あらゆる芸術におよびます。

 

それまでキリスト教の理念に従い

理性や形式を重んじ

ストイックを美とした

「古典主義」の時代に対して

 

「ロマン主義」は

自由でのびのびとして

自然な欲求に対して素直な

古き良きギリシャ・ローマ時代を

理想としました。

 

(ジゼルを踊るカルロッタ・グリジ)

 

ロマンティクチュチュとトゥシューズの誕生

 

ロマンティックバレエでは

妖精のはかなげな様子や浮遊感を

表現するために

トゥシューズと

ロマンティック・チュチュが生まれました。

 

今では「バレエといえばこれ!」と

誰もが考えるイメージの完成です。

 

女性バレリーナが人気の時代で

たくさんのスターバレリーナが誕生します。

 

1832年に「ラ・シルフィード」で

トゥシューズで初めて踊った

マリー・タリオーニについてはこちらの

記事をご覧ください>>>

 

この時代のバレエ教師と振付家は

つま先で立って踊る技術を競って

研究します。

シューズの改良もくり返されました。

 

 さらには、ダンサーを空中に釣り上げて

フワフワと飛ぶようすや

床の中へ消えていくようすを再現する

舞台トリックは欠かせないものでした。

 

今ではそうしたトリックを使って上演している

バレエ団は少ないのですが、

パリオペラ座バレエ団のラ・シルフィードで

観ることができます。


URL: youtu.be

パリ・オペラ座バレエ団「ラ・シルフィード」

 


参考文献:

バレエの魅力 マーゴ・フォンテーン著

ダンスハンドブック ダンスマガジン編

バレエ・ヒストリー 芳賀直子著

 


 

 イサドラ・ダンカンのダンスは

あまりにも自然で、テクニックに凝らないものだったので

人間の動きを詩人の言葉に置き換えて表現するようで

「動きの詩人」と呼ばれることもありました。

 

 マーゴ・フォンテーンは著作の中で

「行き当たりばったりに、とんだり、跳ねたりしていた

だけのイサドラ・ダンカンを

モダン・ダンスの母と呼ぶことには賛成しかねる」

とまで書いています。

 

 このように、モダン・ダンスはおろか

クラシック・バレエとはまったく無縁のように考える人も

いるイサドラ・ダンカンなのですが

 

1904年12月の終わりにロシアで公演をしています。

 

この時代

帝室バレエ(現在のマリインスキーバレエ)では、

「眠れる森の美女」をはじめ多数のバレエ作品を創作して

クラシック・バレエの確固とした形を確立させた

マリウス・プティパが

34年間務めたバレエマスター(振付家兼芸術監督)を退職したばかりでした。

(プテイパ振付「眠れる森の美女」初演(1890年)の写真)

 

34年間は長いですよね!

それだけの長きにわたって同じ振付家・芸術監督だった後に

プティパより62歳も若いミハイル・フォーキンが

新たなバレエマスターに着任したので

フォーキンにとってはプティパのバレエは古めかしく

大袈裟に感じられました。

(ミハイル・フォーキン(1880年 - 1942))

 

 フォーキンが1904年に帝室劇場に

バレエ改革の具体的な提案を示すために書いた手紙には

次のように書かれています。

  

 「相変わらずの短いスカート、ピンクのタイツ、サテンのバレエシューズなどはもはや必要ない。自由な芸術の空想に任せればよいのだ。

 バレエの動きは踊り手が観衆の拍手に応えることで中断されるようなものであってはならない。

 バレエでは体のリズムを通じて概念や、情緒、感情を表現することが可能となる。踊りは動きの詩である。」

 

 1904年に、既にそう感じている人がいたんですね。

 フォーキンは当時としてはかなり新しい考えの人だったんですね。

 

フォーキンはこの年、イサドラ・ダンカンの公演を

セルゲイ・ディアギレフと観に行きました。

この時にイサドラがフォーキンに与えた影響を

ディアギレフはこのように書いています。

 

 「私はフォーキンとともに彼女の第1回目のコンサートを観たが、

フォーキンは全く彼女に夢中だった。

ダンカンが彼に与えた影響は、実に彼の創造のすべての基盤となっている」

 

 ディアギレフは、この5年後、

1909年にバレエ・リュス(ロシアバレエ団)を結成します。

ミハイル・フォーキンはバレエ・リュスで「レ・シルフィード」「ダッタン人の踊り」「シェヘラザード」「火の鳥」「バラの精」「ペトルーシュカ』という

現代でも再演されているバレエの傑作をつぎつぎと振付けて大成功をおさめますが

フォーキンはその後の創作にイサドラから大きな影響を受けていました。


 

  バレエ用の音楽ではなく、ショパンのピアノ曲で即興的に踊ったイサドラからの影響は

ウェーバー作曲の舞踏への勧誘に振り付けたフォーキンの「バラの精」などにみられますし、「エウニス」の振付では裸足で踊る振付けをしようとして、劇場サイドから許可がおりず、しかたなくタイツに足の指を描いて踊ったほどでした。

 

 (タマラ・カルサーヴィナ(1885年 - 1978年))

 

 バレエ・リュスのバレリーナ、タマラ・カルサーヴィナもまた

1904年のイサドラの公演を観ています。

カルサーヴィナの感想は、世の中の動向も把握しながら、

冷静に新しい芸術を受け入れる度量のある、理性的なものです。

 

 「イサドラは、瞬く間にペテルブルグの劇場世界を制覇した。

もちろん保守的なバレエ愛好家たちもいて、彼らにとっては裸足の舞踊家などというのは芸術の第一原則である神聖にも反する事だった。けれどもこうした考えは一般の意見とはおよそかけ離れたもので、目新しさを求める雰囲気が人々の間にはあった。

初めて彼女の踊りを観た私は完全に制服されてしまったのを覚えている。彼女の芸術と私たちの芸術との間にはほんのわずかな敬意も感じられなかった。互いの領域にとって有益となる余地のようなものが感じられて、相互に学べば多大な効果が得られるだろうと思われた」

 

 

 イサドラ・ダンカン本人が踊るダンスがどのようなものだったのか

今ではそれを残す映像は、隠し撮りされたごく短い断片しか残っていません。

URL: youtu.be

 けれども、今もイサドラに触発されて後世に作られたバレエ作品が

生まれ続けています。

 

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フレデリック・アシュトン振付

「イサドラ・ダンカン風のブラームスの5つのワルツ」

 

 


参考文献:

「踊るヴィーナス イサドラ・ダンカンの生涯」 フレドリカ・ブレア著

「ニジンスキー頌」市川雅 編

「バレエの魅力」マーゴ・フォンテーン著

「バレエヒストリー」芳賀直子著

 

 

 

 フランス革命(1789年)以前のヨーロッパのバレエは

たいへん大がかりで豪華絢爛な舞台装置をつかい

物語の主役はギリシャ神話に出てくる神々や

王や姫君で、今私たちが知っているバレエとは

違いました。

URL: youtu.be

この動画は、BBC制作

マーゴ・フォンテーン The Magic of Danceより

1956年にメアリー・スキーピングが

当時のバレエを再振付した

「Cupid out of his humour」です。

 

音楽はヘンリー・パーセル作曲

スウェーデンにあるドロットニングホルム宮殿劇場で

スウェーデン王立バレエ団が踊っています。

 

 スウェーデンにあるドロットニングホルム宮殿劇場は、

1766年にロヴィーサ・ウルリカ女王のために建てられた

劇場ですが、今も18世紀当時そのままの舞台を

体験することができる貴重な劇場です。

 

 王宮の傍らの静かな庭園と散歩道に面して建っていて

時の国王グスタフ3世( 1746年- 1792年)によって1777年に

最初の全盛期を迎えました。

 役者、作曲家、振付家、建築家の協力を得て、王はドロットニングホルムで

スウェーデンの演劇とオペラ芸術を創造しました。

 しかし、1792年に、仮面舞踏会でグスタフ3世が暗殺されると

劇場の建物は忘れさられたままとなり、

そのまま100年の月日が経ったのです。

 

 

(グスタフ3世)

100年の眠りを覚ましたのは、文学史家のアグネ・バイエルでした。

 そこには、1700年代の終わりから手つかずのユニークな劇場が見つかりました。

ロープを引いて手動で動かす舞台装置も、照明に使われていた燭台も、

なにもかも元のままのこっていたのです。

  機械のロープを交換し、電灯を設置し、劇場は再開されました。

      

  今でも18世紀の舞台装置をつかって、当時の世界そのままで

オペラや演劇、コンサートが行われています。

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参考文献:

マーゴ・フォンテーン著「The Magic of Dance」

ドロットニングホルム宮殿劇場

 

 


 

クルト・ヨース(1901年 - 1979年)は、

クラシックバレエと演劇を融合させた

「タンツテアター」の創始者で、

ドイツのバレエダンサーであり

振付師です。

 

主観的で抽象的なテーマで

独特なスタイルを確立した

イサドラ・ダンカン

マリー・ヴィグマンなどの

モダン・ダンスの先駆者達とは異なり

 

ヨースは筋書きのないダンスを嫌い、

社会的で道徳的なテーマを好みました。

 

シュツットガルト音楽学校で

ルドルフ・フォン・ラバンに師事し

1924年にミュンスター私立歌劇場で

バレエマスターに就任します。

 

1927年にはフォルクヴァング芸術学校

フォルクヴァング・タンツビューネと

いうカンパニーを設立し、

そこで作られたのが

ヨースの振付作品の中で最も重要な作品である

「緑のテーブル」です。

 

1932年にパリのシャンゼリゼ劇場で行われた

新作振付国際コンクールで1位を獲得しています。

 

 

 

「緑のテーブル」ははっきりとした反戦声明でした。

アドルフ・ヒトラーがドイツの首相になる

一年前のことでした。

 

(緑のテーブル(1932))

 

1933年、ナチスから

ユダヤ人の作曲家フリッツ・コーへンとの

絶縁を命じられ、

それを拒否したことをきっかけに

祖国からイギリスに亡命します。

 

第二次世界大戦の終結後

ヨースは1949年にイギリスを離れ、

ドイツのエッセンに戻ります。

 

フォルクヴァング芸術大学(Folkwang Universität der Künste)

で、再びディレクターとして教育に力を注ぐと同時に

新たな舞踊団も起ち上げ、引退にいたるまで振付家、

指導者として精力的に活動し、

1979年に亡くなるまで、

芸術に人生をかけた人でした。

 

この時期の最後の生徒の一人が振付家の

ピナ・バウシュです。

 

ピナ・バウシュは、クルト・ヨースの

「普通の人々を中心にしてダンスを表現しよう」

という考えを受け継いで

踊りと演劇を融合させた「タンツテアター」を

成熟させ、コンテンポラリーダンスが誕生する

次の時代へつないだ正当な後継者といえるのでは

ないでしょうか。


 

アメリカでイサドラ・ダンカンが裸足で踊り出した

ドイツには、また別の流れがありました。

 

「表現主義」という

建築、舞踊、絵画、彫刻、映画、音楽など

第一次世界大戦前に始まり1920年代に最盛となった

各分野にわたり「黄金の20年代」と呼ばれた

ベルリンを中心に花開いた前衛芸術の運動です。

 

 客観的表現を排して内面の主観的な表現に

主眼をおくことを特徴とし、表現主義舞踊は

ノイエ・タンツとも呼ばれました。

 

 

マリー・ヴィグマン

 

マリー・ヴィグマン(1886年 - 1973年)は

ドイツ表現主義舞踊の代表的なダンサーで振付家です。

 

子供のころバレエを習っていましたが、

教師はヴィグマンが骨っぽい体つきと

男性っぽい容姿を観てバレエをやめたほうが

いいと言ったそうです。

 

それでも踊りたかったヴィグマンは

エミール・ジャック=ダルクローズに

師事します。

 

 ジャック=ダルクローズはスイス出身の

作曲家・音楽教育家で、

運動を通じて音楽を学ぶ、

音楽学習の一つ「リトミック」を発展させました。

 

 ヴィグマンは更に、モダン・ダンスの革新者

ルドルフ・フォン・ラバン(1879年 – 1958年)にも

師事しています。

 

ラバンが情緒と表現の理論を作り上げようと

必死になっている一方で、

ヴィグマンは即興的に感情の表出をしよう

とするので「あなたはグロテスクな怪物で、

私の理論を破壊しようとしている」

そう、ラバンにののしられたといいます。

 

 ルドルフ・フォン・ラバンは後に

ラバノーテーションというダンスの動きを

記録するための記譜法を考案し、

バレエと心理学、哲学、神秘論を結び付け、

モダン・バレエの舞踊理念を打ち立てました。

 

 

 

 ヴィグマンは1931年 ニューヨークに

「マリー・ヴィグマン舞踊学校」を設立し

ルドルフ・フォン・ラバン(主にダンスの記譜法)と

エミール・ジャック=ダルクローズ(主にリズム感)の理論を

融合し、ダンス界に革新の風を起こしました。

 

1942年 には第二次世界大戦の影響で

「マリー・ヴィグマン舞踊学校」を閉鎖しますが

1950年 西ベルリンのスタジオを中心に教育活動を

続けました。

 

 

(1959年 ベルリンのスタジオでヴィグマンと生徒たち

 

 

ダンスの記譜法によって、「ダンスをシステム化し、

他人にもそれを教える事ができる」、「誰にでも踊る事が出来ることを証明」

し、クラシック・バレエに対する抵抗(レジスタンス)として、

モダンダンスの裾野を広げました。

 

 1936年 ベルリン・オリンピックでは、オリンピック競技場でで舞踊劇

「死者の嘆き」を公演しています。

 

 

参考資料:「バレエの魅力」 マーゴ・フォンテーン著

     「ダンスハンドブック」 新書館


 

 

ルイ14世によってアカデミー設立が設立され

バレエがオペラ座で商業化された最初の9年間は

女性役は若い男性が演じていました。

 

それまで宮廷内で踊っていた貴婦人方は、

宮廷の外で舞台で踊るなどというはしたない真似は

とうていできず、

プロの女性バレリーナはまだいなかったのです。

 

その頃の劇場は照明も不十分で、

座り心地の悪い椅子に腰かけた観客の半分は

大体酔っ払いで、大声で誉めたり、

けなしたりして上演中も騒いでいたのです。

 

初めて女性バレリーナが登場したのは1681年。

26歳のマドモアゼル・ド・ラフォンテーヌ

(1655-1738)が

リュリの「愛の凱旋」を踊りました。

 

1681年から1693年の間にパリ・オペラ座で

少なくとも18の作品で主要なバレリーナとなり

「バレエの女王」と呼ばれました。

引退してからは修道院の尼僧となり祈りの生活を

おくりました。

 

 

パリ・オペラ座ガルニエ宮のホワイエには、ラ・フォンテーヌをはじめとする

初期の女性バレリーナ達の肖像画が飾られています。


ラ・フォンテーヌの次の世代。

マリー・アンヌ・ド・クピス・ド・カマルゴ(1710 - 1770)は、

イタリア人のバレエ・マスターを父に持ち

英才教育を受けて、1726年、16歳でオペラ座デビューを果たし

すぐスターになりました。

 

 それまでは男性だけが踊っていた素早いアントルシャ・キャトルを

踊った最初の女性バレリーナです。その見事なテクニックと軽快な

エネルギーで観客を魅了しました。

 

 

 それまでのバレエで履かれていた大きなバックルがあり

高いヒールのあるシューズから

現在のバレエシューズに近いシューズに変え、

衣裳のスカート丈をくるぶしの少し上まで短くしました。

 

すべての新しいファッションには彼女の名前が付けられ

彼女のヘアスタイルは、宮廷の誰もが真似するという

ファッションリーダー的な人気がありました。

 

(カマルゴの素描)


マリー・サレ(1709 - 1756)は、マリー・カマルゴのライバルでした。

子供時代は旅芸人一座の子役として巡業し、

夏には大都会パリの街で芸を披露しました。

 

踊りが非常にうまく、才能があることを見抜いた両親は

彼女にバレエを習わせ、

カマルゴのデビューから1年後にデビューしました。

 

 

 活発なテクニック派のカマルゴに対してマリー・サレは

優雅でドラマティックな踊りをみせるバレリーナでした。

 

 また、女性振付家の草分け的存在であり、衣装などを

作品のテーマに合わせて改革し、

当時使われていた重いバレエ衣装を廃してシンプルな

チュニックやサンダルで舞台に立ちました。

 

(マリー・サレの素描

 サレと親しく交流した芸術家の中に、

バロック期を代表する作曲家ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルがいます。

ヘンデルは、オペラ『忠実な羊飼い』(Il pastor fido)を改作して、

サレのために1734年にバレエ曲『テルプシコーレ』を追加作曲しました。

 

 この作品はサレとヘンデルの双方にとって申し分ない出来栄えのものとなり、

大成功を収めました。

(G.F.ヘンデル)

 

参考文献:バレエの魅力 マーゴ・フォンテーン著

 


 

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