栃木県出身で、大正から昭和初期にかけて活躍した画家というば、清水登之の名を想起する。この登之の作品を精力的に収集している美術館は栃木県立美術館である。

栃美以外に、登之の作品を収蔵している美術館は、竹橋の東京国立近代美術館や群馬県桐生市にある大川栄二氏が作った大川美術館がある。

 

実は我が家には、その清水登之の油彩作品を一点所蔵していた。肖像画であるため、コレクションとは言うものの、あまり自宅の壁に掛ける機会はなかった。その作品のキャンバス裏には「1933年」と言う制昨年と共に、「重吉の肖像 68歳」とモチーフとなった男性の名前と年齢が書いてあった。この肖像画は1933年頃の展覧会に出品していた登之の作風とは異なり、明らかに注文により描いた作品と思われるものだった。すでに同県立美術館の収蔵品になっている1934年に描かれたYA氏夫妻の肖像画よりは、この作品の方が清水らしい正確で熟達した佳品だと勝手に自負していた。

 

清水の肖像画で神品と言えば、先に紹介した大川美術館が収蔵している、清水の息子の清水育夫の肖像だろう。育夫は昭和20年終戦の年に戦死した。戦死の報を受けた登之は最愛の息子を失ったことに絶望する。登之は絶望のあまり精神を病み、狂ったように育夫の肖像画を制作する。その制作の仕方もキャンバスに碁盤のようなマス目を細かく入れて、海軍の士官服を着た育夫の肖像を写真を見ながら僅かな狂いもなく忠実にトレースして描いたという。しかも何枚も描いたと言われている。

 

画家として、父として、息子の存在をこの世に正確にと留めておきたいと思ったのだろう。しかし8月15日の登之の日記には、息子について『犬死のように思われて悲しい』と書いている。息子を描く事で心を癒されることは無かったのだろう。その育夫の肖像画を登之は未完成だと言っていた。しかし、大川美術館に展示されている育夫の肖像画を見たとき、登之の悲しみが胸に迫り、涙なしで見ることが出来なかった。育夫の死で、強度の精神疲労によって誘発された白血病にかかり、その年の12月に息子の後を追うように逝ったのである。享年59歳だった。


所蔵作品の「重吉の肖像」については後日談があり、栃木県立美術館のH学芸課長と研究員のBさんに作品を所蔵している事と作品の写真を送ったところ、登之の日記の中にこの肖像画のモデルの人物や描いた時期が書かれていた。来歴の確かな作品であることが分かり、美術館側の要請により美術館に寄贈することにした(無償で・・・)。いつか所蔵品展で展示されたなら、作品も登之も我が家から脱出できたことを心から喜ぶに違いない。(笑)