別々とも思える話を一つの記事に書いています。最後まで読んでくれると嬉しいです。
月曜日。
宮本浩次のカバーコンサート「ロマンスの夜」に行ってきた。
宮本浩次 ロマンスの夜
2023年1月16日(月) 東京ガーデンシアター
これは、昨年 11月に予定していた国際フォーラムでの二日間のライブが、宮本浩次の体調不良により延期になり、振替公演が実現できず、代替公演として東京ガーデンシアター 1公演の開催となった公演である。国際フォーラム二日分の席には足らず、チケットを持ってた人全員が行くことは叶わなかった。
カバーコンサートということで、詳しくはこのレポートを見て欲しい。セットリストも載っている。
当日は生配信もされたし、アーカイブ配信もあったので、見たい人は見ただろうし、細かいことは書かないが、まず、
カバーコンサートってこんなに素晴らしいものなの!?
いや、他のカバーコンサートに行ったことないからわからないのだけど、カバーコンサートでロックってあり得るの?みたいな。
カバーコンサートって言ったら、よくわからないけど、歌謡ショーとか『うたコン』とかそういうイメージだったから。や、最初の方はそんな雰囲気もあったかも知れない。はじまる前も大人っぽくてお洒落な音楽かかってたし、「お洒落して来て下さい」って雰囲気あったし、ディナーショーかよ!みたいな。で、それで良いのよ? そういうのをやるんだと思ってたし、やりたいんだとも思ってたから。
そしたらさぁ。ロックなんだもん。
いや、「ロック」って言葉が正しいかはわからない。
ただ、当たり前のことだけど、名曲しかなくて。ずっとクライマックスでずるい!とも思ったけれど、なんていうのかなぁ、歌謡曲がいかに素晴らしいかってことが、いろんな素晴らしい作詞家、作曲家、編曲家、歌手、そういう人たちのロマンや情熱や魂、夢と挫折、戦いの歴史、生き様、そういうのがどわあぁーーーって伝わってきて。そういう作り手ばかりでなく、その曲を親しんで来た人々の思いや暮らしや時代背景みたいなものまでそこに息づいてるようで。だからこうも思った。
歌謡曲ってロックだったんだ。
そして、ああ、宮本浩次はそれを伝えられる歌手なんだって。
それで、ソロツアーのときよりも、バンドの凄さがわかったっていうか、バンド凄い!って思った。それは、カバーであることによって、曲との距離が宮本浩次もバンドメンバーも一緒なんだよね。だから、よりバンドの音楽的な凄さがわかるっていうか。
でも、不思議で。
私が今まで観てきたような「バンド」って感じでもないし、『うたコン』とかで演奏してるようなバックバンドって感じでもないし、ソロ歌手のバックバンドって感じでもないの。カバーされる曲は名曲ばかりだから色褪せないのは当然っちゃ当然なんだけど、それをメンバー全員で「生き返らせてる」って感じがした。そう、死んでないのよ。
ああ、そうか。カバーって、曲を一回死なせるものなのかなぁ? それで、その死んだ状態で楽しむのもありなんだけど、これ本当にカバー?ってくらい生きてた。
唯一のオリジナル曲と最後の曲以外はすべて女性の歌だったけど、思ったのは、
宮本浩次は女性を神聖視してるようで神聖視していないってことだった。
そこが宮本浩次による女性歌手のカバーの素晴らしさだとも思った。
女性を神聖なところに追いやるでもなく、生々しいわけでもない。
ただただ真剣に向き合ってる。それって結局、男性に対しても誰に対しても同じかもね。
(さすが、マドンナに対抗心燃やして「なんて差別のない人なんだ!」と思わせた人だ → 2021 これは同じ戦いだと思った夜)
それで、最後の最後が沢田研二のカバー「カサブランカ・ダンディ」。
女性の歌をさんざん歌った後にこの曲ってとこも、宮本浩次がこの歌を歌ったことも、じわじわ来てる。
何この歌詞!だよ。笑えて(泣けて)来ちゃう。
現代のジェンダー観ではありえないとかいう声も見かけたけど、「あんたの時代はよかった 男がピカピカの気障(きざ)でいられた」って、今歌ってるみたいじゃん!
ここまでずーーーっと女唄を歌ってきてわかったとおり、女もめんどくさいけど、男もめんどさいな!
時代がいくら変わっても変わんないじゃんそんなの。人間ってめんどくさい!
それをこんな風に表現してしまえるなんて、音楽最高!プロ最高!スーパースター最高!エンターテインメント最高!
女性カバーのラスト、つまり、『ロマンスの夜』のラストは「木綿のハンカチーフ」だったとも言えると思うんだけど、私前に書いてた。 → ある秋の夜長に
“「木綿のハンカチーフ」のカバーを、エレカシからソロへと旅立つ心情に重ねる人もいるけど、ソロからエレカシへと旅立つ心情にも重なるんじゃないか?”
「感情移入すればするほど、ダサくなるように感じて。私のいつもの手法が全く通用しなかった」
宮本浩次はこう語っているし、確実に新しい扉が開いたのだと思う。
今回のカバーコンサートだって、え?ロマンスの夜?って小バカにしてた人もいると思うんだよ。それだけじゃなく、ソロ自体をどこか小バカにして見てる人もいるかも知れない。でもね、エレカシのときからそうだったじゃない? 小バカにしてるようなところに飛び込んでいくっていう。
思ったのは、カバーはこれで確立した、エレファントカシマシは不動のものとしてある。では、宮本浩次ソロは? そこはまだ飛び込んでいない世界があるような気がするようなしないような…。
PV に出演しているのは、お笑いコンビ・紅しょうがの熊元プロレスさん。
出演の経緯をあゆがインスタグラムに綴っている。 → https://www.instagram.com/p/CnhTOkVDi_0/
まず、私があゆの好きなところ、
真実は必ず伝わると信じ続けているところ。
答えをすぐに求めない。
それはなんと忍耐強いことだろうか。
皆の声なんて SNS上ではハッキリと見えない。
でも、あゆは千里眼。きっと見えている。
20年くらいあゆの歌を聴き続けてるけど、はじめての体験に思えた。今まで以上にあゆの歌声に触れられたような。PV にあゆの歌ってる姿がなかったことで、「浜崎あゆみが全力で歌いかけていること」が伝わってきて、私の胸にダイレクトにあゆの歌声が飛び込んでくるよう。
もしあゆが歌っている映像だったなら、「浜崎あゆみが私に歌っている」止まりだったというか、もちろんそれで良いのだけれど、今回は、「ああ!そうか!浜崎あゆみの歌声は私の心の中に存在しているんだ!」と思えたというか。
突拍子もないことを言うようだが、私は手塚治虫の『ブッダ』を思い出した。浜崎あゆみの「Pray」が映画『ブッダ』の主題歌になったとき、原作の手塚治虫『ブッダ』を読んだ。その中で、「そうか!神は人の心の中に存在しているんだ!」とブッダが発見するシーンがあって、それがずっと心に残ってる。それを今、思い出したのだ。
“浜崎あゆみの歌声は私の心の中に存在している”
熊元プロレスさんが、ただ歩くのではなく、全身全霊でリップシンクしてることで、それぞれの心の中に「浜崎あゆみの歌声」が存在していることを感じられたんだと思う。
でも、こんなにもあゆが「歌っている」のを感じて、そうじゃないんだって、今はまだうまく言えないけど、思った。
主役ってなんだろう……考えさせられた。
「みんなの声を聴かせて」とあゆ、「あゆの声が聴きたい」とファン。
なら、どうすればいいんだ?
それで私は、鳥羽和久さんがシェアしていた UseMe の話を思い出した。いわゆる「推し」がいる人は見てみて欲しい。
もうひとつ、「平行線」に関連してRMがLYツアーで呼びかけたUseMeと、推しの「使用」について。こちらも #推しの文化論 の中で大切にしている箇所です。ナムジュンの思考は底なしの深みがあり、掘れば掘るほど新たな発見があります。 pic.twitter.com/mtJyYOEUEw
— 鳥羽和久 KAZUHISA TOBA (@tobatoppers) July 4, 2022
「使用」への自覚が不十分なときに「支配」関係に陥る。
「使用」に無自覚な人は、他人が使用できなくなったと感じた瞬間に、他人に対して攻撃的になる。
「使用」に飽き足らず、相手を「支配」しようと試みる。
けれど、「支配」だからダメというのでもなく、「支配」ではなく「使用」であればよいというのでもなく、
支配関係の中で、それでも抵抗しながら、相手を傷つけながらも、自分で自分自身をエンパワーするということ。
息を吐くように他者を支配しようとする私たちが、どのような他者との関係性を築くことができるか、ということ。
思ったのは、浜崎あゆみのことを何も知らなければ、この歌声を聴いて、ああ、この人はたった一人でステージに立ってマイクを持って歌うんだろうな、そしてそれは心を打つだろうなって思うってこと。
しかし実際は、ダンサーやコーラスを引き連れて、様々な衣装、演出ありのライブをする。そこに “ギャップ” がある。もしかしたら、その印象しかない人があゆの歌を聴いたら、こんなにも地味な歌を歌う人だったのかと思うかも知れないし、歌の印象しかない人だったら、こんなにも派手なライブをする人だったのかと驚くかも知れない。
だからこそ戸惑う。
でも、そこが面白くもあるし、そこに真実があるような気もする。
でも、だから、理解されにくいだろうなとも思う。思うけれども、理解したいって思う。
一生かけて理解したいって思えるような歌手、一生で何人出会えるかわからない。
大森靖子が言ってた。「人生賭けて歌に責任持ってくれる歌手がどうしても好き」って。「でもみんなそんなつもりで歌ってなかったよねごめんねーボロボロになっちゃうよねごめんねー勝手に信じて勝手に裏切られてごめんね」って。「ただ音楽だけが残る虚しさそれは美しいけどでも だって」と。
大森靖子をそんな気持ちにさせたのは浜崎あゆみだった。浜崎あゆみのライブに行ってそんな気持ちになったって。
人生賭けて歌に責任持ってくれる歌手なんているの?
一生好きで居させてくれる歌手なんているの?
浜崎あゆみはそんなことを思わせてくれる歌手なんだね。