2021 これは同じ戦いだと思った夜 | ラフラフ日記

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主に音楽について書いてます。

あることがきっかけで、『1998 これが世界のビッグヒットだ!』という番組を久しぶりに見返した。

渋谷陽一と渡辺満里奈が司会で、エレファントカシマシの宮本浩次と THE YELLOW MONKEY の吉井和哉をゲストに、イギリスとアメリカの音楽(当時のヒット)を語るという番組だ。もともと友達が録画してくれて見たので詳しいことはわからないのだけど、タイトルにある通り 1998 年ごろに放送されたのだと思う。

この番組での宮本浩次のしびれる発言は、このブログでも何回かとりあげた。

きこえるかいおよびブリットポップとエレカシとで書いた、「もう何年も前から先にやってる!」もそうだし、アルバム『good morning』のことを書いた記事で書いた、「ないです」もそうだ。

それを久しぶりに見返した。

<アメリカ編>の後半にさしかかったころか、

 

「女性アーティストの活躍」

 

の話になった。

マライア・キャリーやホイットニー・ヒューストン、アラニス・モリセットなどが出てきたが、この人の話になる。

マドンナ

「マドンナって、どういう音楽をやってるかより、マドンナだから何やっても OK って感じがする」と渡辺満里奈が言ったのをきっかけに渋谷陽一が語りだす。

「マドンナそのもの…存在が表現になっちゃってる。得なのか損なのか、人生が表現たり得てしまう。そういう意味で、逆に厳しいところにいる。その中で戦う姿勢というのが大きなエネルギーを放出している」

そのときだった。宮本浩次が口を開いた。

「いや、男だってね、生き様そのものが表現になってますよね。女だけじゃなくてね」

隣にいる吉井和哉にも語りかけるようにそう言った。

私は、ああ、なんて差別のない人なんだろう!と感動してしまった。

だってこれね、「女性歌手ももっと音楽で評価するべきだ」あるいは「音楽で勝負するべきだ」という方向になってもおかしくないし、もっと言えば、「女性歌手は音楽で評価されてなくてかわいそう」となってもおかしくないわけだよ。

または、「男性歌手は音楽で評価されている」さらに言えば「音楽は男性歌手が上」となってもいいわけだよ。

「音楽だけじゃなく、ライフスタイルや生き様も表現になっている」「音楽よりも生き様で評価されている」と言うとき、誉め言葉にしろ何にしろ、そこには「評価されているのは音楽じゃない」「音楽はそこまでじゃない」という “差別” 化が潜んでいるときもあって、それを悪いこととは言わないけれど、でも、音楽だけじゃなく、ライフスタイルや生き様も表現になっているのは女性アーティストだけじゃなく、男性アーティストにもいっぱいいるし、誰だって生き様で勝負してるし音楽で勝負してる…と宮本浩次の発言は気づかせてくれる。少なくとも私は、気づかされたの。

私が最初にこの番組を見たときはまだあゆ(浜崎あゆみ)を好きになってなくて、マドンナのこともあまり興味を持ってなかったから、このコーナーはおろか、宮本浩次の発言もなんとなく聞いていただけだった。
でも今見返したら、「おおっ!マドンナだ!ミヤジはなんて言うんだろう!」って前のめりになっちゃうじゃん、そりゃ。それは今見返したからこそだし、見返すきっかけをくれた人にありがとうという感じなのだけど。そこに来て宮本浩次のこの発言で。

しかもこのときの宮本浩次の口調がまた良かった。「男だって勝負してる!」ドン!って感じじゃなく、なんていうか、悔しそうに言ってたものだから、なんだかとてもぐっときてしまった。

それでも、男性アーティストよりも女性アーティストの方が出産とか離婚とかがターニングポイントになるし、良いのか悪いのかは別として、パーソナルヒストリーとともにアーティストに感情移入していく傾向があるという渋谷陽一の話に、「ああ」と頷いていたのもまた良かった。

それでも最後に、

「アメリカの音楽は気合いが違う。ぐっとくるものがある。好きとか嫌いとかとは別次元で真剣味が多いと僕は思うんだな。女性でも男性でも。マジになっちゃう。熱くなっちゃう」

と言った宮本浩次の言葉が結果的にはこのコーナーをまとめていたと私は思ってしまったし、実際、それで次のコーナーにいった。

それにしても、「音楽より存在が表現になってしまってる」という話をしているのに、「男だって生き様そのものが表現になってる」というのはズレているようでズレていないというか、「なってしまってる」とマイナス的に言ってるのに、「男だってなってる」とプラス的に返す宮本浩次最高っていうか、宮本浩次にはそういうところあるよぁ。

マドンナに「男だって生き様が表現になってる」と対抗心を燃やす宮本浩次、最高じゃん。

でも、それもこれも、私が宮本浩次も浜崎あゆみも好きだから気づけたのかも知れない。私があゆを好きになっていなければ、見返してもまたなんとなく見て終わりだったかも知れない。

だから、エレカシもあゆも好きな自分で良かったと心から思うし、そのことで引き裂かれることがあっても、やっぱり二人が大好きだし、二人から教えられることがあまりに多いよ。

 

だから私は、女性アーティストばかりの生き様を評価(という言い方は好きじゃないけど)するのではなく、女性アーティストも音楽で評価するべきだというのでもなく、うまく言えないけど、そうありたいんだよ!

で、さっき、この番組を見たのはあゆを好きになる前と書いたけど、実際に、あゆとかが出てくる少し前の時期だったんだ。渋谷陽一はモニカとブランディーのコラボを「安室と華原」に喩えてて、ああ、この後だよ!あゆとか宇多田ヒカルとか椎名林檎とかが出てくるのはーっ!って興奮しながら私は見ていました。
 

その後、私はこの記事に気づいたんです。
 

 

これは 20年以上前の話ではないです。現在の宮本浩次のインタビューです。

そこにマドンナが出てきます。

あぁ、宮本浩次変わってない!
 

そして、時を同じくして、この記事も読んだんです。

 

 

「誰も言葉にしてくれなかった、そして自分でも言葉にできなかった想いがここにある」

(上記記事より)

 

浜崎あゆみの「A Song for ××」はやはり、発明であり、発見だったんだ。

 

そして、書いてきたような宮本浩次の姿勢は、ここに書いてあるようなことと敵対するような姿勢でしょうか。

 

ともすれば、そう思われてしまうのかも知れません。

「男だって…」って、甘いんだよと。

男はマジョリティじゃないかと、特権を持ってるじゃないかと。

 

でも私は、ここで書かれているようなことも、宮本浩次の「男だって生き様そのものが表現になってる」も、同じ戦いだと強く思うのです。

 

 

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