この記事を読んで改めて考えた。
今さまざまなところでジェンダーギャップやジェンダーロールなどジェンダーのことが話題になっていて、これに対して、「さすが宮本浩次、時流に乗っている」と思うのも思われるのも違うと思ったし、誰かの主張や言いたいことに宮本浩次が利用あるいは回収されてしまうことを恐れた。
私が思うのは、宮本浩次『ROMANCE』が女唄なら、エレファントカシマシは男唄なのか?ということだ。
これは前から強く問いかけたいことでもあった。
なぜなら、少し前に「エレカシみたいな、ああいう不器用でぶっきらぼうな男みたいなロックが昔から嫌いだった」という声を見かけたのだが、私は、そういう人にこそエレファントカシマシを聴いて欲しいと前からひそかに思っていたからだ。
確かに、エレカシの歌から「男たるもの」とか「男とは」みたいなものを感じ取ることはできるだろう。ブラフマンの TOSHI-LOW は『生活』(1990年)のころのエレカシを聴いて、「これ、女の人は聴かないだろう」と思ったというし、また、ポニーキャニオンに移籍してから(「今宵の月のように」(1997年)などがヒットして売れてから)「女の匂いがするようになった」と言う人もいた。それは逆に、エレカシは基本「男の歌」だという認識があったからだろう。
では、エレカシの「男らしさ」とは何なのか。
そして私はなぜ、エレカシにある種の「男らしさ」を認めていながら、前述の「男みたいなロックが嫌い」と言う人にこそエレカシを聴いて欲しいと思ってしまうのか。
それは、ただ好きだから、自分の好きな音楽を聴いて欲しいということではない。そういう人にこそエレカシは必要なんじゃないか、そういう人をこそエレカシは救うんじゃないかと本気で思っているところがあるからだ。
少し前に「お母さん食堂」が問題になった。
それに関する記事でオノ・ヨーコの文章を引用しているものがあった。
いまのような男性支配の既成社会からは、もはや人間らしい未来をつくる念願は出てこない。出てくるのは幻想ばかりである。いまや、男性そのものが架空的な存在になってしまった。男性は社会に出て、何と闘っているかといえば、観念と勝負しているだけである。名誉とか地位とかお金とか、いずれも観念ばかりではないか。(中略)
男性が架空的存在になってしまったのは、必然なのである。社会は、女が子供をつくることによって継続してゆく。女は社会の継続と直接つながっているわけだ。ところが男のほうは、生まれてくる子供が自分の子だか他人の子だかわからないし、自分のお腹のなかで実際につくるわけではないから、非常に不安定な立場にある。そのため、女が生命を創造している間に、自分たちも何かを創造しなくちゃならない気持ちに当然なってくる。そうしたところから、男は幻想的なものをつくるしかなかったのだ。いわば、いまの男性社会は、女の現実的な形態に対抗するためにつくり上げたものなのである。
(オノ・ヨーコ)
随分とラディカルな文章だと思うが、「男は何と闘っているのか」に既視感を抱かざるを得なかった。
宮本はエレカシ「地元のダンナ」(2006年)で “いつでもさうさなにかと戦った気分で生きてゐる。” と歌っている。「戦っている」ではなくて、「戦った気分で生きている」なのだ。
「ファイティングマン」(1988年)だってそうだ。“正義” ではなくて、“正義を気取るのさ” なのだ。「ファイティングマン」はエレカシのデビューアルバム 1曲目、それはもう最初からだったのだ。
戦っていながら、戦うことの空しささえ歌っている。
観念ばかり? 架空的存在? 幻想的?
そのとき、私の頭の中でエレカシの「武蔵野」(2000年)が鳴った。
“汚れきった魂やら 怠け者のぶざまな息も
あなたの優しいうたも 全部 幻 そんなこたねえか...”
全部、幻。そんなことないよな?と歌う宮本の声は、いつになく弱々しく、か細く消えてしまいそうで...。
私ははじめて、その心象に触れられたような気がした。「全部幻だったらどうしよう」なんてそんなこと、考えたこともなかったかも知れない。いや、考えたことはあっても、そこまで真には迫っていなかったかも知れない。
ああ、これが「男」なのか?
はじめて思った。
『ロックンロールは男の甘え。現代アートは女の甘え』
大森靖子のライブで読まれたという増田ぴろよの言葉である。
これについてエレカシファンの方(男性)と話をした。「ロックンロールは男の甘え」はエレカシにすら当てはまると。
宮本浩次が『ROMANCE』でおんな唄をカバーする中で、「女性のダンディズム」という言葉が出てきた。「化粧」とか「わかれうた」の主人公は、一晩泣いたら意外にけろっとしてそうで、女性のダンディズムというのはリアリズムではないかと。
私はエレカシを聴いていると、男のロマンに酔いそうになって女性歌手に助けを求めるときがある。まぁ、女性歌手といってもあゆのことで、私の中でエレカシに対抗できるのはあゆくらいしかいないのだけど。
そのエレカシファンの方に教えてもらったのだけど、桑田佳祐が昔「ロックロックって言ってたらメロディが甘くなった」みたいなことを言ってたらしい。理想を追い求めると「甘く」なるのか。
女性のダンディズムとするなら、男性のロマンティシズムだろうか。
宮本浩次がおんな唄を歌ったアルバムのタイトルは『ROMANCE』だ。
女性のダンディズムに飛び込んだ宮本浩次が次にどんな歌を歌うのだろう。
そして、エレファントカシマシは男唄なのか?だ。
“男らしさは扱いが難しい。EMI時代のエレカシは「男らしさ」のせいで生じる色々な面倒くさいところに身一つで天然で特攻し続けてた気がする。『扉』(2004年)を聴いて、「そうだよな。日本の男はそういう感じでなんかよく分からんけど辛いよな」って思った。”……という男の人のつぶやきを見たことがある。
エレファントカシマシは男唄か。
大いに賛同するが、私には 1ミリほどの違和感がある。
その 1ミリほどの違和感を大事にしたい。
確かにエレカシは「男唄」かも知れない。
しかし私には、「男らしくあろう」としながら、「けっ、男らしさって何だよ」と言ってるように聞こえるときもある。そもそも、男らしいのであれば男らしくあろうとしないし、男らしくあろうとしているということは男らしくないとも言える。(つまり「男らしさ」から一定の距離がなければ「男らしさ」は歌えないのでは?)
上記の男の人のつぶやきもよく読んでみて。「男らしさ」を歌いながら、「男らしさ」に特攻してたとあるよ?
男たるもの。男とは。
エレカシは、「男」を歌いながら、同時に「男らしさ」のくだらなさも(そしてもちろん尊さも)歌い、そこからの脱却をも歌っていたのだと思う。
だとすれば、いま宮本が女唄を歌うのも同じことではないのか?
エレカシそして宮本は、「男」を歌っていたのではなく、「男とは何だ?」を歌い続けてきたのであり、しかしそれは、「自分とは何だ?」でもあったのだろう。
30年かけて「男らしさ」と対峙し、抗い続けてきたからこそ見える(歌える)景色があるのだ。
だから私は言いたい。
「男らしい宮本浩次はどこに行っちゃったの?」と淋しがる必要も、「宮本浩次は時流に乗っている」と得意がる必要も、ないのだと。