浜崎あゆみの新曲「Nonfiction」が配信リリースされた。
ここで先日の 24周年ライブの話に戻るのだが、そのライブで過去にもやった「最後の晩餐」を思わせる演出があった。そのときに背景に「最後の晩餐」の絵画らしきものが映し出されたと思うのだが、中央のキリストが居なかったように思うのだ。映し出されたのは一瞬で、そのとき見た記憶だけだから確かではないのだけど、何か違和感があった。ちなみに、ここで言う「最後の晩餐」はレオナルド・ダ・ヴィンチの絵画のことである。
浜崎あゆみの他にダンサーが 11人だったから、これはキリストを除いた「使途12人」を表わしているのだと思った(「最後の晩餐」はキリストと使徒12人を描いたもの)。映し出された映像にキリストがいなかったことから、ここはキリストがいない世界、キリストがいなくなった後の世界なのだと。
“前回「最後の晩餐」を取り入れた演出をしたときはダンサー12人だったよな確か…だから、今回 1人減ってるんだ…そういうことだ!”
・・・と大発見をしたつもりでいたが、やっぱり物事、ちゃんと調べなくちゃダメですね。
前に「最後の晩餐」をやったのは、2017~2018年の Just the beginning ツアーでだった。長いツアーで、第1章・第2章・第3章にわかれていた。その第1章の最初と第3章の最後(つまりツアーの最初と最後)で「最後の晩餐」の演出をやった。自分も足を運び実際にこの目で何回か見たはず。それを映像で今再び確認した。
そしたら、第1章ではダンサー11人、第3章ではダンサー10人だった!!
なんということだ! これは一体どういうこと!
最初から 11人だった? さらに、第3章では 10人になっている?
いやいや、4~5年前の話だぞ? 貴方は何を見ていたの? 当時からあゆは「トリックが隠されている」と言っていたじゃないか。
そう、あゆもそう言っていたことからわかる通り、たまたま 11人だったとか 10人だったとかじゃなく、意識していたに違いない。しかも「最後の晩餐」をやるんだったら、人数を意識しないわけがない。
今考えてみる。
①最初からキリストがいなくなった後を描いていた(キリストに取って代わったあゆ)
②12人目は目に見えないところに潜んでいる(そしてそれが裏切り者だ)
③12人目はオーディエンスの貴方である(そして貴方こそが裏切り者である)
そして、第3章で 1人減っているのは、第2章に「sacrifice(犠牲、生け贄)」という副題が付いていたことから、1人犠牲者が出たということ?
(そういえば、第3章から RIKIさんがいなかった)
映像で見返して思ったのが、同じ「最後の晩餐」でも第1章のときはダンサーはアイマスクをしてるし正装風で、第3章だとアイマスクはしておらずあゆも露出の多い格好で第1章のときとは別人のようである。第1章のときは本性を隠して抑え気味で、第3章では動きも激しく挑発的で野性的で解放的? 第1章のあゆを葬ったのは第3章のあゆじゃないか?というくらいに――。
(“どの私を殺そうか” の大森靖子「流星ヘブン」はこれらと同じことを表現しているのでは!?)
なに、表と裏? 時間が逆流? テネット?
そして今回は、あゆとダンサー11人だった。人数でいえば、第1章のときと同じである。そういえば、始まりの場面ではあゆの周りに 11個の棺があった。そして、その棺から 11人が出てきたのであった。
この「最後の晩餐」の演出の後に、新曲「Nonfiction」が初披露された。
(そして MV もダンサー11人)
「犠牲」で思い出したが、以前私は、浜崎あゆみの音楽は、「自分を犠牲にして生きています」というものではなく、「犠牲にした自分を甦らせてくれるものであり、自分を犠牲にする勇気をくれるものである」と書いていた。 → さいたまスーパーアリーナに四月の風が吹く
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ここまで書いて思うのが、最後の晩餐~最後の晩餐~言ってるけど、どの曲でのことなんだ? 一体、どの曲でそんなことをやってるんだ!ということ。
それはこの曲です。「ourselves」
ちなみに、その前に歌った「Free & Easy」もつながっていました。
一体、この曲のどこが「最後の晩餐」なんだ? 曲と関係あるのか?
MV を見れば、“関係なくはない” と思えるかも知れないが、では曲は? 歌詞は? つまり、
“曲と関係ないじゃん。もはや曲はどうでもいいんじゃないか? 曲が置き去りになってないか?”
そんな突っ込みが出てくるんじゃないか。
(でもさ、沢田研二「カサブランカ・ダンディ」のお酒とか梓みちよ「二人でお酒を」の胡坐とかと同じことかも知れないよ?)
そう考えると、浜崎あゆみって意外と “歌詞” じゃないんじゃないか? という疑問が出てくる。
浜崎あゆみは歌詞についてよく語られるし、「あゆは歌詞」と言うファンも多いだろう。「自身による作詞」というところも大きいわけだし。
しかし、意外や意外、浜崎あゆみは歌詞を重んじてないんじゃないか。歌詞に重きを置いているなら、こんな(曲と関係なさそうな)演出をしたりしない。というわけだ。
しかし、やはりあゆは歌詞を大事にしていると思う。けど、「あゆは歌詞じゃないんじゃないか」という指摘もわかる気がしてしまうのだ。
それはどういうことかというと、、、
例えば、テレビの音楽番組などでアーティストが歌っていてそれを見ているとき、「表示される歌詞ばかり見てしまっている」自分に気付くときがある。「表示される歌詞を追ってしまっている」というか。目の前で歌っている歌手よりも、字幕(歌詞)を追ってしまう。もちろん歌手を見ているのだけど、字幕(歌詞)の方に答えを求めてしまうというか、字幕(歌詞)の方に答えが書いてあるような気がしてしまうというか。
それは、それだけその歌手が興味深い歌詞を書く(歌う)からでもある。だからこそ、そこにどんな真理が書いてあるんだろうと読みたくなる。
けれど、ふと字幕を追ってる自分に気付いたとき、自分は音楽を聴いているというより歌詞を読んでいるのでは?と。
浜崎あゆみだと、そうはならない。
そういう意味では、歌詞に重きを置いてはいないのかも知れない。
素晴らしい歌詞であっても、歌詞だけですべてを説明できてしまう、歌の意味が歌詞以上でも歌詞以下でもない。
また、歌詞の意味はよくわからないけど、なんとなく雰囲気が良さげ、意味ありげという歌詞もある。
浜崎あゆみはそのどちらでもない。
それと、浜崎あゆみの歌詞はちっとも凄くない。「凄い」言葉なんて全然出てこない。だから、「凄い歌詞」でもない。「凄いことを言ってやろう」という気配もない。
かといって、意味の無い言葉ではなくて、「意味」はちゃんとある。
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歌詞に重きを置いていない(かも知れない)のはわかった。だから「最後の晩餐」ができてしまうのもわかった。でも、それなら曲はなんでもいいんじゃないかという疑問は残る。
そこで私は、昔、ネットで読んだ浜崎あゆみのライブの感想で「どう見せたいかは伝わってくるが、何を見せたいかが伝わってこない」というのがあったことを思い出した。
“なるほど。最後の晩餐。確かに凄そうだね。でも、だから何?” というわけだ。
これは、水野敬也が村上春樹について書いてたことと同じじゃないか? そして私も、村上春樹に対して同じように思っていた。
え? 浜崎あゆみは村上春樹なのか? 私は村上春樹、苦手なのに?
どう見せたいかばかりで何を見せたいかが伝わってこないというのは、それは「空っぽ」ってことだ。ええ格好ばかりしてるけど、中身がないってことだ。
でも、あゆは「歌詞」を伝えようとしているのではない。
かといって、「演出」を見せようとしているのでもないと思う。
よく、浜崎あゆみのライブのことを「ライブというよりショー」と言う人がいる。
だけどやはり、私にとって浜崎あゆみのライブは「ショー」ではない。
だってそしたら、「ショー」に行けば良いんだもの。それに、それなら私ももっとショー好きになっててもおかしくない。
「ourselves」と「最後の晩餐」は、関係ないかも知れない。
けど、ライブの演出と「ourselves」、すっごく合ってるんだよね。他の曲じゃダメなんだと思う。
それはこちらに何かを伝えてきてるし、伝わってくる。そこには何か、「重さ」のようなものがある。
それは「歌詞」ではないし、「演出」でもない。
それを受け取ろうと必死だよ。
伝えようとする何かがなければ、受け取ろうとする何かがなければ、きっとこんなに必死にならない。
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それにしても新曲「Nonfiction」、あの曲とサウンドで “嫉ましい” とか歌っちゃうの流石あゆだと思う。あんなに楽しい “しんどい” もない。あゆの、音楽に言葉を乗せるセンス。
(「最後の晩餐」「マスク」はケンドリック・ラマーも? その場所の名は?)