僕の友人でリアル脱出ゲームを作った加藤隆生さんという人がおりまして、


「リアル脱出ゲームとは?」
 


彼は初対面のときに


「水野さん、情熱大陸に出ても『モテ』には一切関係がないよ。俺が生き証人だから」


と熱弁するのを聞いて


(ああ、これは間違いなく信用に足る人物だ)


と感銘を受けて以来、10年近くの付き合いになるのですが、


「友人」と呼ぶにはあまりにも深い関係であり、生み出す作品で常に刺激をくれるライバルであり、ときに僕を導いてくれるメンターでもある特別な存在です。


そんな彼とはとんでもなく波長が合って、会うたびに必ず話が盛り上がるのですが、


彼との関係の中で、1つだけ、ずっと疑問だった、まさに「謎」だったことがあります。


それは、彼は、


「詩」と「村上春樹」


をこよなく愛しており、一方、それこそが、僕が最も生理的に受け付けない対象だということです。


彼とお酒を飲んでいると自然とモノづくりの話になるのですが、


詩と村上春樹


の話になると、もう、びっくりするほどかみ合わず、


ただ、会うたびに「最近ではあの作品が素晴らしい」「あの作品の素晴らしさはここだろう」などと世のエンタメを語り合っている僕たちにこの問題を放置することは許されず、


加藤さんが最も愛している谷川俊太郎の詩を解説してもらったり、


村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』を精読して、各描写について加藤さんが一晩かけて解説するという


『ダンス・ダンス・ダンス』勉強会


が開催されたりしたのですが、正直、まったくピンと来ず、ただ、さすがに「加藤さん、ピンと来ないっすわ」とは言えないので、


その日、僕は人生で一番、「なるほどですね」という味気ない返答を繰り返す夜になりました。



そのそも、僕が詩(と表現すると広すぎるので、ここでは谷川俊太郎に限定しましょう)と、村上春樹の作品に感銘を受けない理由は、読み終わったあと、必ずと言っていいほど、







で?






となってしまうんですよね。



で?結局あんたは何が言いたいの?

で?俺はどうしたらいいの?

で?……


だから、僕は谷川俊太郎と村上春樹の、それぞれ全著作の3割くらいは読んでいると思うのですが、


今、この瞬間、何も思い出せません。内容がほぼ思い出せないのです。


それくらい、僕の人生には何の影響も与えていないし、はっきり言って「必要ない」。


僕が求めているのは、この息苦しい現実を変えるための、具体的な「答え」であり「行動の指針」だからです。


でも、彼らの作品は圧倒的にメジャーであり日本最高峰だとされているので、「現実を変えたい僕」は、その理由を解明しようと頑張って読むのですが、やっぱりどうしてもイラついてしまい、

重い足をひきずって谷川俊太郎展に行ったものの、めちゃくちゃお洒落に「カッパ、カッパラッタ」と表示されているのを見て心の底から「スベってるなぁ」と思ったし、村上春樹の『1Q84』について感想を聞かれたときも、「あの本が出た時期、合コンで『月が2つに見える』って言ったらウケたんですよね。そんなメジャーな文学作品は存在しないし、それがあの作品の最大の価値だと思います」と答えていました。


こうして、「詩と村上春樹問題」に関しては、ずっと答えが出ないまま放置していたのですが、


先ほど、この謎が、解けたんです。


――この解答はあまりにもあっけなく、今、この文章を読んでいるあなたが聞いたら「なんだそんなことか」と拍子抜けすることになるかもしれませんが、


僕にとってはすごく大事なことなのでここに書いておきます。


先ほど、僕は「詩」について調べていました。今書いている本に必要だったので「詩の定義」を調べたのです。



詩とは何か。



それは、




世界を「間接的に」表現するもの




とありました。


世界の美しさ、素晴らしさを、直接言うのではなく、間接的に、遠回しに表現する。



それゆえ、受け手は、その情景をバリエーション豊かに想像することができるし、さらに言えば、



間接表現とは、解釈を「受け手にゆだねる」こと


です。


だから、谷川俊太郎の『生長』に対して加藤さんが「ここにこういう意味があるんだよ!」と熱弁することになり、

村上春樹の作品に「オチ」がないのも、受け手が自由に解釈できる余地を残しているという点で、村上作品は「詩」だと言えます。



そして、「リアル脱出ゲーム」。



リアル脱出ゲームは、「詩」なのです。


谷川俊太郎や村上春樹のように受け手が様々な解釈をして楽しむものではありませんが、

 

 

構造が「詩」なのです。


リアル脱出ゲームは、すごくシンプルに言うと、何の変哲もない部屋に、


「私たちは今、ここに閉じ込められています」


と、勝手に「解釈」し、遊ぶゲームです。


実際、初期のリアル脱出ゲームは、本当に、何もない会場で行われていたと聞きました。


そこで加藤さんがマイクを持ち、「この部屋に爆弾がしかけられています」と言い(解釈し)、物語が始まります。


それは別に「爆弾」じゃなくて「タイムスリップ」でも「監獄」でもいい。必要なのは「空間」と「解釈」だけであり、加藤さんは日ごろからこう言っています。

 

「リアル脱出ゲームの存在意義は、何の変哲もない世界に物語を生み出すことだ」

 

と。


では、どうして直接表現を求める僕と、間接表現を求める加藤さんがこれほどまでに波長が合うのでしょうか。



それは、おそらく、



僕たちは、この世界が「密室」であり、極めて「息苦しい場所」だととらえているからだと思います。

その理由は様々でしょう。

人間はどうして生まれつきの才能や環境によって人生を限定されねばならないのか。どうして世界はこんなにも理不尽で、不自由なのか。

それは、ときに劣等感であり、焦燥感であったりしますが、


何よりも、圧倒的な、



閉塞感



があり、僕らは、その「密室」を抜け出そうとしてきたし、今も、なおそうしている。


その手段として、僕は、部屋の壁そのものを破壊することを選びました。


才能の壁、環境の壁、年齢の壁……そういった「壁」を「直接」破壊することにこだわった。



だから、ノウハウなのです。自己啓発なのです。



そして加藤さんは、おそらく、こう思ったのではないでしょうか。


この世界には、どうしても壊せない壁がある。人間がどれだけあがいても、壁そのものが破壊できないことがある。


でも、解釈は――想像力は――無限だ。


だから、密室の壁を「壊さぬまま」、無限の想像力を武器にすることで、密室を豊かな世界に変えてしまおうとしたのです。


だから、彼はリアル脱出ゲームを生み出すことになりました。


僕たちは同じ山の頂上に向かって、「間接表現」と「直接表現」という、まったく違うルートを行っているのだと思います。


――そんな僕らは、3月のコロナ禍以降、オンラインで語り合うことになりました。

僕は、このコロナ禍は現在の社会の構造を変えるチャンスだと主張し、彼は、

コロナ禍でも楽しめる飛沫の飛ばないリアル脱出ゲーム、「ある沈黙からの脱出」という素晴らしいゲームを生み出しました。

ここでも、直接表現と間接表現という違いがありながら、世の中の「密室」に留まることを余儀なくされている人を幸せにするという共通の目標に向かっていたと思います。


一方で、直接、壁を突破しようとする僕の仕事「本を書く」と、受け手の「本を読む」はコロナの影響をほぼ受けず、


間接的に豊かな世界を生み出すリアル脱出ゲームは、受け手に「外出してもらい」「直接コミュニケーションを取ってもらう」という、コロナの影響を正面から受ける「三密」の仕事になりました。


僕はこのことに衝撃を受けました。


現実の壁を直接突破することを奨励する僕の作品の消費は、「密室」で行われており、


密室に留まり、想像力で突破しようとするリアル脱出ゲームこそが、受け手の現実の壁を「外に出て、人に会う」という形で、直接突破させていたことに気づかされたのです。


僕は、これはたんなる偶然ではなく、皮肉でもなく、同じものを映す鏡の「鏡映反転」なのではないかと思っています。



だから、今、東京がGOTOに正式追加され外出の空気が高まる中、


僕の文章を好きだと言ってくれる人には、



もちろん、万全のコロナ対策を取っていただきつつ、



ぜひリアル脱出ゲームを体験してもらいたいのです。



僕の文章によって苦しみが癒されたと言ってくれる人に、


あなたが目指す場所には、僕が提供するのとは違うルートがあることを伝えたい。



あなたが登ろうとしているのが、エベレストなのか、富士山なのか、高尾山なのかは僕には分かりません。

 

ただ、一つ言えることは、


登るルートが多いことは、あなたの人生を確実に豊かにします。



もちろん、リアル脱出ゲーム最大の顔である「新宿ミステリーサーカス」にGOTOしても良いですし、
 

 

 




今日、10月2日から「テレビ東京」で始まるドラマ25の「歴史迷宮からの脱出」で予習するのも素晴らしいですが、

 

 



僕が何よりもお勧めしたいのは、このゲームです。


「レッドルームからの脱出」






数あるリアル脱出ゲームの傑作の中で、どうして僕がこのゲームの「冒頭の謎」に圧倒的な感動を覚えてしまうのか。




今回のブログの内容が、その謎を解く最大のヒントに――間接表現に――なっています。