『太郎吉とお松』
読了【民話 伝承の現実】
書承文芸と口承文芸は、交錯しているんですね。
書籍を読み語る、というのは時代をさかのぼると一般(ほぼ農民)ではありえ
ないんですね。読み書きがままならない農民も多い時代ではやっぱり、語り
部のおばあちゃんのまわりに子供たちが集まって、その話しを聞く、という図
式が当たり前だったわけだ。
ところが、近代は違うんですね、けっして一方通行ではない。
研究者のみなさんは、草の根を分けて口承文芸を集めているんです。
○○村に○○さんという語り部がいる、と聞くとどんなところへも行ってその
話しを聞いてくるんですね。そういうことが行われている。それが文章になる。
現代では録音、録画の手段でデジタルソースになっていろんな媒体で公開、
供されることになっているわけなんだね。
しかしまぁ、研究されてる方々の努力というか、探求心には頭が下がります。
すごいです、ほんと。いろんなことに没頭する人って偉大だと思う。
「翻案」ということばに惹かれました。 「翻訳」ではないんですね。
外国の小説とか戯曲とか、あらすじや事件の概要はそのままに地名とか、
風俗とか、登場人物の名前などをすっかり自国用に改作することを「翻案」と
いうのだそうだ。知らなかったぞ。
また、「民話」は古い継承だけを指すのではなく、現在進行形も対象とされて
いるのが意外、というかよく考えれれば、○年前までが民話、ってことはなく
て当然だよな~。
グリム童話が日本の文化に入り込んで、様々な物語りを派生させているのは
知られたところですが、様々なシュチエーションの中で、とてもスムーズに
享受される地域があれば、逆に排斥されてしまう、若しくは全然違う物語りに
変わっていってしまう地域がある、というんです。
おもしろいなぁ、これ。
1902年翻案された『ヘンゼルとグレーテル』は、『太郎吉とお松』に変わってる
のだ~ 笑 研究者は、やはり、こういった「翻案」がいつ、だれによってなさ
れたかを重要視してます。
富山の薬売りも一役買っているって。特別話し好きな薬売りも居たわけだな。
中盤の章に「現代の視座」“「語り口」論”がありました。
「口承文芸の時代はすでに終わったか、終わろうとしている」
著者の大島氏は、『日本文芸研究』に掲載されたという、とあるこの著名な
研究者の話しに異を唱えていらっしゃる。
語り部は確かに少なくなった。けれども、現代でも方言か標準語なのかを
区別する必要がありはすれど、大人が子どもに語り聞かせる、読み聞かせ
る機会というのは皆無ではない。現代も継承されていて、憂うことではない、
というような意見が述べられています。わたしも同感。
読みながら 『あぁ、ズボさん、この本読んでるのかな~』 と独り言。
彼はすでに八割がた、ここで論ぜられている正統法をすでに実践していま
す。もし読んでいなければ是非に読んで欲しいなと思うところ。
岐阜で、むかしばなしを弾き語る、歌うたいのズボさん。
彼は、実行者のひとりだ。とてもすばらしいことです。口承文芸法によって、
自分たちの故郷の昔話しを聞くことができる子供達はラッキーだとも思う。
だってそんな機会は今の時代、なかなかないから。
ズボさんのむかしばなしを聞いた子供たちが、大人になって息子、娘に
話してあげる。希望としては、同じように語り部として口語文芸を継承する
語り部になってくれるものなら申しぶんないね。そんな未来の情景を思うと、
ズボさんには、すごいぞ、もっと頑張れ!とエールを送りたいと思うのです。
http://blogs.yahoo.co.jp/katarinagara
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残念だったのは、
“以下話しを要約する”ってことでストーリーを箇条書きに説明されて
しまっていて、頁の都合ということは理解できなくも無いんだけれど、
やっぱり、引用されているたくさんの民話は、オリジナルストーリで
読んでみたいよな~と思った。
けっきょく、なんだ、
小泉八雲 『Yuki_Onna』 読んでみたくなったね (^∇^)
電車に和服の女性達と乗り合わせた。
多分お稽古ごとのお帰りの様子。レベル低めて聴いているWALKMAN
の音楽に重なって、なにげに聞こえてくる会話から先生と生徒と思しい。
着物に詳しくなくても水商売かどうか分かる気がするんだけどなんか
独特の着崩し方でもあるんだろうか。 化粧が濃いめかどうか ... 笑
それともなんかアイテムに違いがあるのかね。
『いい女』 といえば基本、容姿を以って『美しい女性』のことになると、
思う。ところが 『いい男』 となると、見てくれよりも男気だったり、気っ風
の良さなど、その性分を語ることのほうが多いと思う。
『イイヒト』 となると、善人でしょ?
お人よしを意味することもあるし、恋仲の相手も 『イイヒト』 と言うな。
(恋仲って... 昭和初期までの小説ぐらいだろ~ 笑)
概して女性は同性に対して 『あの人イイオンナよね』 と言わないと思う
けど、『あいつはイイオトコだよな』 とは普通に言う。オトコ連中は。
オトコーオトコ目線と、オンナ―オンナ目線は違う、のだね。
おもしろいね。 この違いは何なのか?という点をほじってみたい。
で、和装の女性をして 『小股の切れ上がった』という形容があるが、ものの
本によると、股間から骨盤の頂点をつなぐ線あたりらしい。 (ほか諸説あり。
足袋の指割れ部分とか、同じく足袋の踵から着物の裾までの間とか ... )
分かりやすく言えば、両サイドのビキニラインということだな、うん。だから
後ろ姿で、小股の切れを語れないのだね。女性の和装でどこがイイかと聞
かれた男の大半は”ウナジ”と答えると思うけどね。
そこでだ、美人なら切れ上がっているはずの肝心の小股の具合はどんな
裁量を肝要とすべきか!ということになるのではなかろうか諸君!
(なんかいきんでるし 笑)
しかし早々疑問に直面するのだ。和装では股間どころか歩行中のミアシの
動きさえ把握シガタイではないか!で、自説となえますれば、階段ののぼり
おりや座するさいなど、裾さばきが必要な時などに生じるその周辺の生地の
引き攣れで、初めて意識できるコカンセツ、ダイタイブの接続状況を以って
概要とするのはどうだろうか!
ある程度ふくよかでなければ、なだらかな曲線や、腰部周辺をトレスするよう
な稜線は、小股には顕れないんではなかろうか。痩せていては直線しか出て
こないだろうし、ふくよかも過ぎると鈍角なキレだろうし、で当然、鋭角ならイイ
と言うものでもないだろうな。
和装は文字通り日本の文化。伝統と異する新しい意匠もあったり個人的に
はそれは否定的な意見なんだけれど、近代日本語と同じで変わり行くところ
も含めて寛容でなきゃいかんのでしょうね。文化伝承は永遠と紡いでもらい
たいと願いながらも、いくら伝統を重んじたところでユーザがチョイスしなき
ゃね、特に服飾は。マスメディアとマニュファクチャを抜きに流れ行く伝統は
もう語れないよなー、と言う話しでした。
あれ?でした、って最初と話し変わってきてるし。
イイオンナもイイオトコも、どっかいっちゃったよぅ ... (^▽^;)
※アルコールでキータッチもスムーズだと、なんか、”まとめた風”だけど、
阿呆なこと書いてるような気がするぞお
京極夏彦は妖怪である。
読了(先週分こみ)
中田耕治【五木寛之論】
北山修 【心を癒す音楽】
野崎六助【京極夏彦読本超絶ミステリの世界】
有栖川有栖【暗い宿】
京極夏彦読本、面白かったですー。
ミステリ度
逆 説 度
カルト度
妖 怪 度
心 霊 度
情 報 度
以上を1~5の指数で評価。
野崎さんの京極作品に対する造詣の深さには呆れました (゜ρ゜)
ミステリ小説の評が、一冊の本になってしまうのですから凄いのですが、
もとより、京極さんの作品がそんなに多くないから対作品に費やしている
頁数が多いわけです。
こう言う評というのは、評される側としてはどんなだろうなと想像します。
すべてが論ぜられたままにその通りなのだとすると、きっとなんかイヤ
だろうな、と。どこまでアウトラインが設定されていてリアルな執筆が進ん
でいるものか。野崎さん曰く、感性で書き進めながら最後には予想どおり
にピタリと筋が合わせることができる、合ってしまうところが
天才的所以と。
鉄鼠の檻、止められなかったなぁ。思い出します。
基本、通勤読書なんですが、改札でてからも止められないから駅前で立ち
読みする始末でした 笑
時代に取り残された禅宗の寺で起こる奇怪事件。野崎さんもおっしゃってま
すが、京極さんはどこまで情報量をもっているんだか底知れない。
ちなみに「鉄鼠の檻」は情報度5。
置く場所が無くなるから、読み終わった本は処分しないとならなかった中で、
京極シリーズを手元から離さないでいるのは、絶対再読すると思っているから。
おかげさまで、図書館通いで、処分の面倒や心残りに残念がる必要も減った
し、何よりお財布の負担が減ったよ ♪
但し、地元の図書館では小説の類が、絶対量少ないのが分って、そんなで、
文庫本の蔵書も豊富だった江戸川区の図書館をナツカシんでしまうのでしたー。
【暗い宿】はBOOKOFFで。
単行本も文庫本でも読んでないアリスさん350えんで発見!でした。
最後の「201号室の災厄」は、火村助教授が主役のストーリ。
めずらしくもアクション系ハードボイルドだった。おもしろかった ♪
MySound 閉鎖を前に。
岸部さんの「夢」と、トラッドの「Rising Sun Blues」、アップしました。
http://players.music-eclub.com/?action=user_song&user_id=186041
“作品名:****”をクリックすると、コメントもあります (^-^)ヾ
自己流で試行錯誤しながらも、やっぱり数をこなすと、アタリ(見当)を
出せるようになる、と言うか、ああするよりこうした方がいいんだな!と
いうレベルでマイクとレコーダのセッティングができるようになってきた
感あります。(あいかわらず、ミストーンは無くなりませんけど 汗)
よくなってきたかな、というところで、
利用サイトは閉鎖が告知されました。
せっかく、ステキなプレイヤーさんたちとも縁ができたのに。
残念です。 (このさき、やっぱYoutubeしかないのかな ... )
仕事都合、夜更けに弾くわけにはいかないのでサンデープレイヤー。
時間をかけないと上手くはなれないんですが、残念ながら弾けるのは
土日だけ。それもなかなか納得できるような時間はとれませんね。
毎回、演奏前に爪を切らないとならないというのが “弾かなさ”を物語る
のですが弾くのは楽しいので、それは機嫌よく爪切りしてるはずです 笑
Martin D-18、というギターです。
D-28というモデルがマーティンギターの代名詞というか、一番支持されて
いるのですが、歌のための伴奏(歌と一緒に、ではなくて、歌を引き立てる
と言う意味で)だけに限るとイチハチに分があると自分は思っています。
それだけシンプルで、でしゃばらない音色、とでも表現しましょうか。。。
「Rising Sun Blues」のような伴奏がD-18に向いている曲のひとつだろうと。
キラリン感のあるニッパチの音色では雰囲気が変わるはずです。
でも、わたしのイチハチ素敵ですよ~、音色 笑
(フレットほかもろもろ状態には問題アリですけど)
ごく当たり前に、録音データはエフェクトするのが定石のようですが、
わたしのアップデータは、リサイズだけ(スキルも無いので 笑)ですので、
ギターのそのままの音色に近いと思います。
だぁ、歌もそうだ。エコーとか全然かかっていない、素の声だし 笑
素直な高音域、 バランスのよい中音域、 ピアノライクな低音域 ...
休日は、イチハチくんが、癒してくれます。 音楽っていいなぁ ♪
わたしのブラフォー
今日の独り言:
歌詞を見ただけで、
気持ちよく口ずさめるメロディ。
イントロを聴くだけで、
カーステレオで聴いた恋人とのあの日のドライブ。
曲のタイトルだけで、
自分だけのベスト集のカセットテープに丁寧に曲目を
手書きした中学生時代を思い出すんだ。
そう、音楽は心をいやしてくれるんだ。
以前にも書いたじゃないか。クリエイティビティにはピークがあるんだ、って。
枯渇しないのは“普通じゃない”人たち。曲が作れないって、それはしかたない
と思わなきゃ。先生、センセって、高いところに持ち上げられてしまっていると、
はい、もうできません!って言えなくなるものなのだろうか、な。
なんの因果なのか、わたしの手元には、
加藤和彦さんと時代を歌った北山修さんの本がある。
北山修 【心を癒す音楽】
カバーの折り返しには、
「たった一つの曲が日々をうるおし、人生までも変えるのはなぜだろうか?」
ヒーリングミュージックとは何か?ということを 九州大学人間環境学研究院
北山研究室のプロジェクトとして、精神科、神経科、心理学科などの教授、
医者など35名の“こころの専門家”が自らの体験、この一曲を語ったもの。
ブラームスの交響曲第四番とか、
カザルスの無伴奏チェロ組曲とか、
ブラームスの子守歌とか、さすがにクラッシックが大半の模様。
でも、
ヘレンメリルのYou'd be so nice to come home to. とか、
サザンの素敵な夢を叶えましょう や、
かぐや姫の22才の別れ、なんてのもあったり。。。
北山修さんも精神分析医として、そして唯一のミュージシャンという特異な
立場で選曲。「わたしのブラフォー」として
“海原越えて”。
フォーク・クルセダーズがどんなバンドかを知っているとすれば、あぁ、
ブラザース・フォー、そうだよね、となると思う。北山さんは「わたしの癒しは
(ほとんど遊びと言い換えていい)ライブにある」、と言われています。
そしてプロフェッショナルとして同じ曲をずっと歌っていかなければならない
(遊びではない)音楽への失望。
本文では、ビートルズの影響についても相当語られていますが、
やはりブラフォー。
えっと、しゃんはいさんの一曲は、言われれば。。。
一曲だなんて決められない。 十曲なら絞り込めるかなぁ~ 笑
あの素晴しい愛を .
中島らも兄ぃの「明るい悩み相談室」は二階トイレの常備書籍なのだ。。。
http://ameblo.jp/larryboy/entry-10306874474.html
シリーズ第四弾に新潟の16歳の少女からの相談があります。
「けっきょく死ぬと思うと何もかもむなしい」という相談に、らも兄ぃは
突然の“うろ”に「葬儀屋さんが儲からないから」とトンチで返して
冒頭おちゃらけますが、本文はすこぶるまじめに回答します。
簡単に紹介します。
DNAには「成長-衰退-死」がプログラムされている。
種は存続のために、個体数をたくさん分けながら生殖して死ぬ。
それは、ニンゲンという個ではなく細胞単位のこと。
三ヶ月の新陳代謝でニンゲンは生まれ変わっている。
いつも元気でいるために小さな死は必要。
そのおかげで大きな(細胞の集合)僕らは生きている。
小さな個でも生きているうちには生きてて良かったという瞬間は訪れる。
明日かもしれないし十年先かもしれない。
だからとりあえず、今日はごはんを食べて明日まで生きてみましょう ♪
これは、福岡伸一さんの「生物と無生物のあいだ」の読みすがら、すぐに
思い当たったのが、この中島らもさんの回答でした。
メッセージの本質は同じ。動的平衡(ダイナミック・イクイリブリアム)に支配さ
れている生命体はこのために有用なのですから。
細胞のマクロを地球サイズに置き換えれば、人類が生き延びるために生命は
誕生と死のリレーションを繰り返しているというわけなのですね。
「けっきょく死ぬと思うと何もかもむなしい」という相談を今日、
この悲しいニュースを知った 今日に 思い出した のは、
実は本文ではなくて、このイラスト、西原理恵子さんのホントあたたかいカットを
どうしても今日、ここに残したかったから。。。
「神様が いいよというまで生きるのが
人間の仕事なんだと おばあちゃんが 言った。」
だめだ、目から汗出てきたし。
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本文のイラストはなんと、中島らも本人を含めて7人のイラストレータで
書きつながれています。みなさんイイ雰囲気を出してます。
純情 『すなおという心』
丸山俊雄【万人幸福の栞】
「本をあげる」 という行為はけっこうしている。
最近を思い出しても、車好きの同輩へ浜島裕英氏の本をあげたり、息子さん
が工作に夢中だという若いお父さんにペーパークラフトの本あげたり、
入院のお見舞いにもあるな。退職するコーフレンドへも贈った。
カバンに2,3冊入っていることもままあるので、話題が本になると面白かった
から読んでみて、と渡すこともあります。大概が戻ってはきませんけど 笑
もちろんそのときは、差し上げるつもりではいますが、音沙汰ナシというのは
気になりますよね、やっぱり。おもしろかった、とかダメポだぁ、とかでいい。
「本をもらう」 というのは、どうだったろう。
記憶にある限り、1冊しかない。。。 (バランスぜんぜん良くないし 笑 )
どうしても【万人幸福の栞】の引用話しをしたかった (選んだのは自分で
他のものでもよかったレベル)ので、朝の時間に本棚を探って通勤バック
の本と入れ替えた。
【万人幸福の栞】は、結婚のお祝いにと、人生の先輩がくださった。
見返しには、筆書きで家内の名前と連名で宛てて頂いている。
もう二十数年前だ。のち二年経たずに逝かれてしまったけれど。
目次の十七ヶ条には、選ばれて、八つのマル印が付けられています。
当然、五番目の「夫婦は一対の反射鏡」の項は含まれていますね。
各条の概要が読めます。
http://www.rinri-jpn.or.jp/profile/j-rinri.htm
「読まない」よりも、「読んだほうがいい」文章はあると思います。
丸山俊雄氏について知るところはなかったのですが
この人も九州なのですね。。。なんか九州づいてます、最近。
特に選んでる気はないのですが不思議。 笑
批評は内面の旅である。
文学評というのに縁がなかった、
というか興味が向かなかったのでずっと読んでなかった。
その取っ掛かりを五木寛之論としたのは良くなかったかも、と反省気分。
中田耕治さん凄すぎる。
自分の読み方では、五木寛之を読んだことにはならないんだろうなぁ。
ムズカシイね。
だって人生かけて著者の作品全域、まるで髄まで語るごときを読んで
いると、とてもとても共感まで届かない。
単に読み足りない、字ズラ撫でる程度の読み方しかしていないなぁ、と
自己嫌悪ですわ。
時系列に作品並べて、感じ入る行に金糸を通していくような、
なんかそんな行為が真っ当な評論だとすると、
「あーおもしろかったぁ」なんて言えないね。
もっと著者の心の葛藤とか、時代背景まで透かし見て、
行間から読み取るものとかがないと読んだことにはならないのかしらと。
私の批評は内面の旅である。
そう、でもそう言いながらも連綿と評を綴るという行為は外へ向いている
メッセージではないのか。
評は読み手で変わっていいのではないか。
読書に正解がある?間違った読み方ってのはありえる?
読み手の数だけ評価はあっていいものではないのかしら。
でも好きだから。
五木寛之さんの「雰囲気が好き」だから。 (チョー単純 笑 )
今度順を追ってしっかり読み通してみたいとも思った。
小説現代新人賞が1966年だから、当時わたしはハナタレ園児だ。
『さらばモスクワ愚連隊』からも一回読んでみよう。
読書ってなんだろう?
そんなことを考えるきっかけを貰ったことはありがたい気がする。
ゲラゲラ笑える、おーこわーとぞくずくする、そーだよなぁと考えさせられる、
そんな本を満員電車の中ででも、わたしは楽しく読みたい (^O^)






