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統一原理の生活化

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「恩讐をを愛する」と言う言葉は真の愛をテーマにする食口には、大きな課題である。

信仰生活で、このテーマにぶつかる事がある。愛そうと努力をしても、どうしても愛せない人や出来事がある。頭ではわかるが、とても無理と思うのが本音かも知れない。

どうすれば乗り越えられるのか?全ての解決は、み言の中にあると言われている。創造原理では、愛と美の中に「主体が対象に授ける情的な力を愛」とある。

愛とはエネルギーであり、具体的な行動である。愛と心情は違う。恩讐をを恨みがあり、その心が消えないとしても、相手に言葉や行動で喜ぶことをする。これが愛である。

お父様も恩讐を愛してこられた。ただお父様も完全に怒る思いが全くないとは言えない。お父様は怒る思いや恨む気持ちがあっても愛する事で乗り越えてこられた。

ダンベリーの時、裁判を勝利する事を信じて、卓球をしながら裁判結果を待っておられた。しかし敗訴の伝えを聞かれると、アメリカは何をするのかと、激しい怒りをぶつけられた。それでもアメリカを怨むと天運が去ると思いアメリカに対する怒りを乗り越えられた。

その心情を勝利されて「愛天日」を定められた。そのような思いを何度も通過されたのがお父様である。

その事を思うと、私たちは相手に対して怨む気持ちはあっても愛を行う事が重要であり、蕩減復帰の観点から見ても、怨む心がある相手に愛を投入すると、自分の中から怨む心が消えていくようになる。

このような観点から、心から愛する思いがなくても愛の行動をとる事で真の愛の人になっていくのである。
(知人の体験談)
私は産まれてすぐ親に離婚され、両親共引きとろうとせず、施設に預けられました。三歳の時に、今の親に貰われたそうです。

当時の私には記憶は無く、その親を本当の親と思って中学2年まで過ごしてきました。

そして、突然父が脳梗塞で帰らぬ人になりました。その最悪の時に、私は親戚の方から偶然にも聞いて、知ってしまったのです。

葬儀の後、母を問い詰め、本当の事を聞きました。その時を境に、私は母も死んだ父さえも嫌いになりました。多分、裏切られたとか思ったんでしょう。

元々家が裕福ではありません。父が死んで、母が働きに出ざるを得ませんでした。母は朝は近くの市場で、昼から夜までは、スーパーで働きました。



全て、私の為でした。ですが当時の私には、それすらも、うっとうしく思えてなりませんでした。

時には、登校の時間と母が市場から帰ってくる時間がちょっと重なってしまい、友達と登校していた私は、
ボロボロになった母を知られたくなく「いってらっしゃい」という母を無視し、「誰あれ、気持ち悪いんだけど」と捨てゼリフを吐いていたのです。

それを察してか、次の日にはわざと目を伏せ、足早に私とすれ違っていきました。それでも母は文句一つ言わず働いてくれていました。そんな日が一ヶ月位続いた、ある雨の日。
雨合羽を着て市場から帰ってくる母とすれ違いました。

当然無言です。その姿は何とも淋しく、哀しく辛そうに見えたのです。
涙が溢れました。ぐしゃぐしゃに泣きました。

私は一体何をしているのか。ボロボロになってまで私を育ててくれているあの人に、私は何をうっとうしく思っているのかと、凄まじい後悔が私を襲いました。

私は友達の目も気にせず、母に駆け寄りました。でも何を言っていいのか、、、

その時、ふと口をついた言葉が「いってきます」でした。でも母は一瞬驚き、そして泣き崩れました。

そして何度も何度も「いってらっしゃい」と言ってくれました。私が友達の元へ戻った後も、母は私を見ながら手を振って「いってらっしゃい」と。

今では彼女が本当の私の母親です。
たとえ戸籍上はどうあれ、そう思っています。恩は返しきれない位あります。

母は「これが親の勤めだよ」と言います。今度は子として親の面倒を見ていきたいです。この人が母親で最高に良かったと思っています。







お母さんが帰ってくる!


一ヶ月近く入院生活を送っていたお母さんが戻ってくる。お母さんが退院する日、ぼくは友だちと遊ぶ約束もせず、寄り道もしないで、いちもくさんに帰宅した。


久しぶりに会うお母さんと、たくさん話がしたかった。話したい事はたくさんあるんだ。帰宅すると台所から、香ばしいにおいがしてきた。


僕の大好きなホットケーキのはちみつがけだ。台所にはお母さんが立っていた。少しやせたようだけど、思っていたよりも元気そうで、ぼくはとりあえず安心した。


「おかえり」いつものお母さんの声がその日だけは特別に聞こえた。そして、はちみつがたっぷりかかった。ホットケーキがとてもおいしかった。


お母さんが入院する前と同じ日常がぼくの家庭にもどってきた。お母さんの様子が以前と違う事に気が付いたのは、それから数日経ってからのことだ。


みそ汁の味が急にこくなったり、そうではなかったりしたので、ぼくは何気なく「なんだか最近、みそ汁の味がヘン」と言ってしまった。


すると、お母さんはとても困った顔をした。


「実はね、手術をしてから味と匂いが全くないの。だから料理の味付けが、てきとうになっちゃって、、」


お母さんは深いため息をついた。そう言われてみると最近のお母さんはあまり食事をしなくなった。


作るおかずも特別な味付けが必要のないものばかりだ。しだいにお母さんの手作りの料理が、姿を消していった。


かわりに近くのスーパーのお惣菜が食卓に並ぶようになった。そんな状況を見て、ぼくは一つの提案を思いついた。


ぼくは料理ができないけれど、お母さんの味は覚えている。だから料理はお母さんがして味付けはぼくがする。共同で料理を作ることを思いついた。


「ぼくが味付けをするから、一緒に料理を作ろうよ」ぼくからの提案にお母さんは少し驚いていたけど、すぐに賛成してくれた。


「では、ぶりの照り焼きに挑戦してみようか」お母さんが言った。


ぶりの照り焼きは家族の好物だ。フライパンで皮がパリッとするまでぶりを焼く。その後、レシピ通りに作ったタレを混ぜる。


そこまではお母さんの仕事。タレを煮詰めて家族が好きな味に仕上げるのがぼくの仕事。


だいぶ、照りが出てきたところでタレの味を確かめる。「いつもの味だ」ぼくがそう言うと久しぶりにお母さんに笑顔が戻った。


その日からお母さんとぼくの共同作業が始まった。お父さんも時々加わった。


ぼくは朝、一時間早起きをして一緒に食事を作るようになった。お母さんは家族をあまり頼りにしないで一人でなんでもやってしまう。


でもね、お母さん、ぼくがいるよ。ぼくはお母さんが思っているよりもずっとしっかりしている。


だからぼくにもっと頼ってもいいよ。ぼくがいるよ。いつか、お母さんの病気が治ることを祈りながら心の中でそう繰り返した。