1991年、新潟明訓と神奈川明訓が対戦した時、小林幹英と山田太郎、岩鬼正美、殿馬一人、里中智は皆高3で同輩だった。彼らの誕生日は1973年4月2日から1974年4月1日までの間で、イチローと同学年であった。
 
 
新潟明訓が甲子園に初出場した1991年当時、プロ野球編の山田太郎は15歳の鷹丘中学3年生で、まだ神奈川明訓高校に入っていなかった。プロ編の土井垣は2歳年上なので'91年当時高校2年であり、「新潟明訓対神奈川明訓」の時の渚と同学年だったことになる。
 
1998年夏の球宴。小林幹英と山田太郎の対戦は、1991年の高校3年同士の対決から7年ぶりだったはず。小林幹英は'92年春に新潟明訓高校を卒業して6年が経過していたが、山田太郎は'95年春に神奈川明訓高校を卒業してまだ3年経っただけだった。
 
「ドカベンプロ野球編」で小林幹英は「7年ぶり」に勝負した山田を見て「しかし山田、3年の間に凄い迫力が身についたな」と評していた。ここでは山田太郎プロ入りから3年ということだろう。
山田太郎 小林幹英 3年 迫力」の検索結果 - Yahoo!検索
 
「大甲子園」で巨人学園の真田一球・呉九郎が藤村甲子園と会った時、巨人学園の岩風前監督の話がまるで出なかったのは不思議だ。
青田×クリーンの試合で右投げ投手の中西球道は左腕を負傷し、左腕を包帯で吊って登板。投手守備が弱点となりクリーン打線にそこを突かれた。こういう時こそ赤城山の国定と木下のように投手の真後ろに野手を配置したらよかった。
「ドカベン(番外編)」で神奈川明訓と新潟明訓の試合は山田太郎が高3の夏だったが甲子園大会ではなく、夏の甲子園出場校を決める予選より前の練習試合だった。「大甲子園」単行本4巻によると山田高3夏の甲子園に出場した新潟代表は「上越高」だった。
 
1991年夏、新潟明訓が甲子園に初出場した時、「ドカベン」の番外編で神奈川明訓と新潟明訓が行った試合は甲子園大会ではなく、予選の前の練習試合だった。「大甲子園」の単行本5巻(1984年)で山田太郎高3夏の甲子園大会における新潟代表は上越高校となっていた。
 
Wikipediaに「ドカベンシリーズの世界における年表」があるが、これはプロ野球編の設定である。プロ編だと山田太郎の明訓高校入学は1992年になるが、これは甲子園球場からラッキーゾーンが撤去された後なので、高校野球編に度々ある「打球がラッキーゾーンに入ってHR」というのは別の時間軸の話である
 
【ドカベンの時代設定】
神奈川明訓と新潟明訓の対戦は1991年夏の予選の前の練習試合であった。劇中で山田太郎は高3で小林幹英と同学年。
 
【ドカベンの時代設定】
『ドカベン』では、里中智が高3春のセンバツ終了後に野球部を一時、退部(山田太郎の計らいで休部扱い)して、『大甲子園』では高3夏の予選の決勝から復帰。『新潟明訓対神奈川明訓』では予選の前の練習試合に里中が登板し、小林幹英と投げ合っていた。
 
【ドカベンの時代設定】
「ドカベン プロ野球編」22巻では、1998年のオールスターで、新潟明訓高校出身の小林幹英が広島カープの選手として出場、当時・西武ライオンズの山田太郎と対戦した。
20:08 - 2018年1月2日        
 
【ドカベンの時代設定】
「ドカベン プロ野球編」の山田太郎は1976年(昭和51年)5月5日生まれで、神奈川明訓高校に入学したのは1992年春。新潟明訓高校の小林幹英選手は1991年度で高3だったようなので、92年春に卒業。ほとんど入れ替わりであった。
 
 
tweet(1) tweet(2) tweet(3) tweet(4) tweet(5)〕〔TWEET(6)〕〔TWEET(7)〕〔TWEET(8)〕
 
前後一覧
2018年6月(Y!Blog)
平成30年6月〕(AmebaBlog)
 
関連語句

参照
イメージ 1