『ドカベン』の時代設定(1980年代)…『大甲子園』と『ドカベン プロ野球編』における

山田太郎の学年、現実の野球界と対照

 

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『ドカベン』の時代設定(1980年代)…『大甲子園』と「プロ野球編』における山田太郎の学年、現実の野球界

 

『ドカベン プロ野球編』の山田世代が小学生だった1980年代半ば、『大甲子園』の山田世代は高校3年で、高校生活最後の夏の予選と甲子園大会に出場していた。
『プロ編』の山田世代は『大甲子園』における山田サチ子とほぼ同世代。
 
1980年(昭和55年)
『ドカベン』本編で山田高2。明訓が弁慶高校に敗れ、土井垣が日ハムに入団した直後。
太平監督就任。北、石毛、仲根、今川がレギュラーから去り、上下、香車、蛸田がレギュラー入り。
山田高2秋、白新高校戦の時、夏子がニセ大学生(実は高校生)と付き合い、岩鬼が失恋。夏子とニセ大学生はインベーダーゲームのある喫茶店に入っていた。なお、ニセ大学生の招待を暴いたのは南海権左。夏子は指文字で岩鬼に別れを告げたが、岩鬼は愛の告白と勘違いして本塁打。
1980年、長嶋監督辞任、王貞治引退、原辰徳ドラフト指名。
『プロ野球編』』の山田太郎は1976年生まれなので1980年当時4歳。なお、『プロ編』の山田太郎が高2から高3に進級したのは1994年。
 
1981年(昭和56年)
高3春センバツ(明訓vs通天閣~花巻~土佐丸~石垣島~北海大三)。
里中が退部(実は休部扱い)。
『プロ野球編』』の山田太郎、5歳。
 
1982年(昭和57年)
1986年(昭和61年)6月1日初版の『大甲子園』第19巻154~157ページ、延長14回表。中西が奪三振数で新記録。作中のアナウンスによると1958年(昭和33年)第40回大会、徳島商×魚津戦で、徳島商の板東投手が延長18回で25個の三振を奪い、中西はそれを24年ぶりに更新したらしい。すると1982年の試合である。
『プロ野球編』』の山田太郎、6歳。幼稚園または保育園の年長組(卒園の1年前)。
 
1983年(昭和58年)
『大甲子園』の山田高3夏予選。準決勝の明訓×横浜学院を里中がテレビ観戦。決勝の白新戦(横浜球場)から里中復帰(1巻)。
1986年(昭和61年)2月5日初版の『大甲子園』第17巻、夏の甲子園、明訓×青田の準決勝、3回表。明訓の攻撃で中西球道が9連続奪三振を達成。9番目の三振は渚。
作中のアナウンスによると、1926年(大正15年、昭和元年)の第12回大会で和歌山中の小川投手が打ち立てた記録を中西が更新。これが57年ぶりらしいので、1983年の試合か。
『プロ野球編』の山田太郎が白山小学校に入学。野球をやろうとしたが野球部が学校に無く、リトルリーグは4年からなので、太郎は相撲を始める。相撲で5年生に勝つ。
 
1984年(昭和59年)
『大甲子園』の山田は高3、夏の甲子園開幕。明訓×室戸(『大甲子園』5巻)。
『プロ編』の山田太郎は小2。相撲で5年生に勝つ。
 
1985年(昭和60年)
『大甲子園』の太郎は18歳、』明訓が青森りんご園農業高校に勝利。「山田がロッテを逆指名」騒動。ロッテは当時、オリオンズ。阪急がオリックスになる前((『大甲子園』第12巻 1985年4月5日刊行))。
江川卓は巨人所属。
土井垣は日ハム在籍、本拠地は後楽園球場だったらしい。
『プロ編』の山田太郎は9歳、小3。相撲で中学生に勝利。
 
1986年(昭和61年)
『大甲子園』第21巻(1986年11月1日刊行)では、太郎は高3。明訓×青田。里中の見た夢では、作中の大会の翌年、西武に清原が在籍。岩鬼が昭和60年時(1985年当時)の中日の小松の真似。
『プロ編』の山田太郎はは9歳→10歳、小3→小4。春の新学期直前、『プロ編』の太郎とサチ子がバスの事故に遭う。太郎が野球を始める。両親没。
 
1987年(昭和62年)
明訓は青田、紫義塾を破って夏の甲子園V。『大甲子園』終了。
江川卓引退。
『プロ編』の山田太郎は小5に進級、11歳。
 
1988年(昭和63年)
『プロ編』の山田太郎は小6。12歳。
プロ野球、阪急ブレーブス→オリックス、南海ホークス→ダイエー、親会社変更。
 
1989年(昭和64年、平成元年)
『プロ編』の山田太郎が中学に進学。
 
1980年から1989年まで、『プロ編』の山田太郎は4歳から13歳に成長。
『ドカベン』本編の山田太郎は、まず、1980年代初めに17歳(高2)から18歳(高3)になり、『大甲子園』では山田太郎はずっと18歳、1980年代のほとんどは18歳、高3であった。
 
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関連語句
大甲子園(ものがたりの歴史III)

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