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木漏れ日の海

フィギュアスケートの羽生選手を応援しています。
プログラムの感想を中心に語ります。

糸井さんとの対談・第5回での羽生君の言葉。

 

「ぼくが目指してたのは、ある意味では、
ジョニーさんが4回転までやれなかった世界、
プルシェンコさんが4回転を3回跳んだりとか、
4回転3回転3回転とか跳んだりとかしながらも
やりきれなかった世界で、そういうことを
ぼくは競技時代にずっと追い求めていて、
いまもそれが続いてるっていう感じはしてます。」

 

この言葉を読むにつけ、「破滅への使者」が鮮やかに脳裏に浮かぶ。

 

このプログラムは、競技時代から今もずっと続いている羽生君の挑戦が具現化したものだと、ひしひしと感じる。

 

6分間練習から「破滅への使者」の本番に至るまで。

そこに流れている時間は、競技時代の本番での時間と全く変わらない。

 

最高の難度のジャンプを、最高の美しさで決める。

1つのプログラムの中に最高のエレメンツを詰め込んで、プログラムを完成させる。

 

そのために注ぎこまれる最高の集中。熱量。

 

挑戦に生きる姿勢。

 

本当に羽生君は変わらない。

 

横浜最終日の「破滅への使者」を見る度に、熱い感動を受け取る。

 

それにしても、羽生君のスケートを見ていると、表現者としての側面とアスリートとしての側面、この2つを同じぐらいの重さで持っているように感じる。

 

そして、それがある意味での「安定感」の秘訣のように思える。

 

表現者の面というのは、それだけを持っていて、それだけを突き詰めるとすると苦しいような気がする。

 

そして、アスリートとしての面も、それだけでは行きつく先に限りがある。

 

ところが羽生君はこの2つの面を、どちらも大きな熱量で持っている。

だからこそ、どちらかだけに引っ張られずに、安定して燃焼していられるというか。

 

「破滅への使者」、特に横浜公演での滑りを見てそう思った。

アスリートとしての面が、羽生君を支えている部分もあるのかなと。

「RE_PRAY」追加公演の発表があった。

 

横浜1日目の羽生君のMCを聞いて、「RE_PRAY」の追加公演は残念だけどないものと思っていた。

 

そうしたら、追加公演の発表。

しかも、場所は宮城。

 

地元仙台や東北の方にも見てもらえるといいな。

 

追加公演をするなら、地元宮城。

 

こういうところもブレないなと。

羽生君に愛されている宮城・仙台という土地がうらやましいなと思ったり。

 

あの素晴らしい「RE_PRAY」が宮城でどのように花開くのか。

 

それにしても、「notte stellata」が終わったら少しはゆっくりできるのかな、と勝手に身を案じていたのだけど、まさか1か月もたたないうちに、あのハードな「RE_PRAY」の追加公演とは。

 

でもそれだけ、心身ともに充実しているのかなと思う。

 

4月にも大きな楽しみが用意されたようで嬉しい。

「RE_PRAY」横浜公演、正面・リンクサイドカメラにはまってしまって、毎日このカメラの映像を見ている。

 

この映像を見ながら、糸井さんとの対談・第5回での羽生君の言葉が思い出された。

 

「ぼくが目指してたのは、ある意味では、
ジョニーさんが4回転までやれなかった世界、
プルシェンコさんが4回転を3回跳んだりとか、
4回転3回転3回転とか跳んだりとかしながらも
やりきれなかった世界で、そういうことを
ぼくは競技時代にずっと追い求めていて、
いまもそれが続いてるっていう感じはしてます。」

 

自分の解釈では、羽生君のスケートは全てを極めようとしているように思える。

 

ジャンプもスケーティングもスピンもつなぎも。

 

音楽との調和も、場の支配も、プログラム世界の表現も。

 

全ての要素で、それぞれの最高を目指す。

そして、全体としての極みを目指す。

 

それは競技時代から変わらないし、プロになってからも脈々と続いている。

 

「RE_PRAY」横浜公演・千秋楽の映像を見ていると、またスケートが上手くなったなと思う。

 

もちろん、「鶏と蛇と豚」、「Megalovania」、「破滅への使者」といった新しいプログラムたちがブラッシュアップされているというのもある。

 

だけど、ブラッシュアップだけでは説明ができないくらい、各エレメンツが上手くなっているのを感じる。

 

例えば、「いつか終わる夢-original-」を見ると、スケーティングが上手くなっていると思う。

よりなめらかに、より深くエッジにのっている。

 

そして、「鶏と蛇と豚」や「阿修羅ちゃん」を見ていると、コンテンポラリーやダンス的な動きが上手くなっている。

体のキレ、動きと動きの間のタメ、1つ1つのポージングが、より効果的に、より美しくなっている。

 

例えば「天と地のレクイエム」のスピン。

より早く、より美しくなっている。

 

ここが羽生君の驚異的なところなのだけど、見る度にスケートが上手くなっている。

それは、初めてファンになった2014年から今まで、変わることがない。

 

一貫して上手くなり続けている。

そして、それは現在進行形だ。

 

プロになった今、より自由に、より深くプログラム世界を表現できるようになった。

と同時に、スケート技術に磨きをかけることを決しておこたらない。

 

それがあるので、過去の数々の演技とプログラムを敬愛しているけど、最も心引かれるのは、最新の演技。

 

今はこんなに「RE_PRAY」に引かれているけど、もうすぐ「notte stellata」が始まる。

なんと贅沢な時間に生きているのだろうと思う。

「every.特集」で「notte stellata」の舞台裏を見た。

 

興味深かったのは、大地さんとの打ち合わせのシーン。

 

羽生君の言葉

「せっかくのコラボだからこその異色感はだしたい」

 

「多分、ぼくがしたいようにすると、すごくフィギュアによってしまう」

 

大地さん

「それ、ダメなんですか?」

 

羽生君(考えこんでから)

「せっかく大地さんがいらっしゃっているので」

 

ナレーション

「フィギュアの枠をこえる、新しい世界観を作り出したいと考えていました」

 

「今回はスケートの振付師に加え、ミュージカル畑の振付師も参加」

 

羽生君

「基本的には多分、わりと無茶を言ってもらったほうが楽しいです」

 

このやり取りを見て、羽生君はまさに「開拓者」だなと思った。

 

フィギュアスケートよりにしたら、やりやすいし、安心できる。

でも、それで作ってしまうと、面白みがないという。

 

とても客観的な視点。

 

人というのは新しいものを求めがちで、思ってもいなかったものに出会って、それが素晴らしいものであると、大いに感動する。

 

そういうことを心底、理解している。

 

そして、新しい世界を開拓することを「楽しい」という。

 

大地さんとの共演というチャンスを生かして、新たな世界を作り出そうとする。

 

その貪欲なまでの開拓者精神に惚れ惚れとする。

糸井さんとの対談、第2回がリリースされた。

 

今回、前々からずっと不思議に思っていたことの理由が1つ、明かされたような気がした。

 

以前、このブログで「野生という魅力」という記事を書いた。

 

羽生君のスケートを見ていると、「理性」と「野生」という、2つの相反するものが同居しているように見える。

 

羽生君のスケートは現代的で理性的。

と同時に、本来、人間がもっている「野生」のパワーをまとっている。

 

それが非常に魅力的なのだけど、なぜ可能なのだろうと不思議に思っていた。

 

その理由の一端が、今回のインタビューの羽生君の言葉から垣間見えた。

 

「いまは、社会的なこととか、知識とか、いろんなことを知ってしまっているので、そこが子どものころとは違うかもしれませんね。自分のことばとか行動に、無駄な意味づけをするようになっているというか。たとえば、『今日は雨だ』っていうときに、ただ空から雨粒が落ちてくる、湿度が高い、暗い、というくらいの意味しかないのに、そこになんとなく自分が『憂鬱だ』とか、『ちょっと体が重い』とか、そういう意味づけを、大人になるとしてしまう。それを、知性と呼ぶこともできるけど、でも、本来はなくてもいい、邪魔な概念なんだろうなとも思うんです。」

 

「自分と対象のあいだにいろんなレンズが入ってくることで、焦点が合わなくなってしまう感じがしていて。」

 

「だからなるべくそのレンズを外してあげて、それから突き進む、というのが、なんか、たぶん、ぼくが幼いころから、ずっと続けてきたことなんだろうなと思います。」

 

自分の言葉や行動に意味付けをする。

大人になると自然にすること。

 

それを自覚したうえで、外すことを意識的に続けてきたという。

 

しかも羽生君の場合は、色々と思考したうえで、レンズを外すのだ。

 

なるほど。

だから、羽生君のスケートからは「理性」と同時に、人間が本来もっていた「野生」のパワーを感じるのかもしれない。

 

燃えるような情熱。闘争心。生命力。

 

内からあふれてくる力を、まっすぐに開放する。

 

そのまっすぐなパワーが見る者を引きつけるのだろう。