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木漏れ日の海

フィギュアスケートの羽生選手を応援しています。
プログラムの感想を中心に語ります。

「notte stellata 2024」で披露された「Carmina Brana」は、明確に演技をするプログラムという点において、羽生君としても初めての挑戦かもしれない。

 

今までも、ある人物をイメージさせるプログラムはあった。

 

「ロミオとジュリエット」

「オペラ座の怪人」

「SEIMEI」

 

でも、明確に「誰」を演じているわけではなく、滑っていたのは羽生結弦だったと思う。

また、これらは競技プロなので「演じる」ということに振り切るわけにはいかない。

 

一方で今回の「Carmina Brana」では、明確にある人物(1人の青年)を演じていたように思う。

 

配信の感想でも「演劇っぽいプログラム」と書いたけれど、そう感じたのは、真正面から「演じる」ということに取り組んでいたからかもしれない。

 

小中学生のころ、よく演劇を見に行っていた。

 

演劇の俳優さんの迫力はすごくて、舞台のうえに「人生」が現れていた。

本当にそういう人がいて、今、舞台の上で生きているように感じた。

 

今回の「Carmina Brana」もそういう演目だったと思う。

 

それにしても、羽生君は演技もうまいのだなと思った。

 

前々から「憑依型」と言われていたけど、今回の演目は憑依というよりも、明確な「演技」だったように思う。

1人の青年の人生を「演技」として表現していたと。

 

大地真央さんとのシンクロは迫力があった。

 

演劇でも、登場人物同士のセリフのやり取りが勢いやリアリティを生む。

やり取りを聞いているうちに、どんどんと引き込まれていく。

 

「Carmina Brana」にも、そのエッセンスがあった。

 

通常のプログラムで羽生君が1人で作り出す世界とはまた違って、大地真央さんとともに作り出す世界。

 

フィギュアスケートにこんな見せ方があったのかと。

新しい境地だと思う。

「notte stellata」3月10日公演の見逃し配信を繰り返し見てる。

 

「Danny Boy」を見ていて、このプログラムはとても挑戦的なプログラムかもしれないと思った。

 

まずは1つ1つの振付。

全ての動きが、いわゆるフィギュアスケートのオーソドックスなポーズや動きとは違うように思える。

 

「阿修羅ちゃん」のようにダンサブルな方向に違うのではなく、あくまでフィギュアスケートのエレメンツなのだけど、どのポーズも「普通のポーズ」にはしていない。

 

例えば、スピン。

スピン自体はフィギュアのエレメンツだけど、回っている時の姿勢や、スピンそのものの長さがオーソドックスなものとは違う。

 

通常のプログラムだと、「ここはスピン」と決まっていて、姿勢を変えながらそれなりに長い時間がスピンにあてられる。

 

でもこの「Danny Boy」では、プログラムの中にスピンが溶け込んでいて、「ここはスピン」という感じがない。

 

例えば、ジャンプ。

このプログラムには2本の3回転ジャンプが入っているけど、どちらも降りた後の動きが独創的。

ランディング姿勢はとらない。

 

1本目のジャンプは、降りた後の足さばき(滑り)が複雑で、ジャンプの直後とは思えない動きで、次につながっていく。

 

一方で2本目のジャンプは降りた後に一瞬、ピタッと止める。

 

そして後半のイナバウアーのような滑り。

まずこのエレメンツの時間が、通常のイナバウアーよりも長い。

時間をかけて、リンクのかなりの部分をカバーする。

手の使い方や上半身のそらせ方も、通常のイナバウアーとは違う。

 

そして音楽。

 

この音源はピアニスト、キース・ジャレットの演奏だという。

私は音楽に詳しくないので、よくわかってないかもしれないけど、ジャズピアニストというだけあって、この演奏にはテンポにも音の強弱にも、「ゆらぎ」があるように思う。

 

なので、この演奏にのせて滑るのは、かなり難しいのではないかと。

 

そしてプログラム全体へのエレメンツの散りばめ方も、いわゆるフィギュアスケートという感じではない。

 

全てのエレメンツが流れるように、さりげなくつながっていく。

「ここでこのエレメンツを見せる」という感じではなく、全てのエレメンツがピースとしてピタッ、ピタッとはまりつつ、シームレスにつながっていく。

 

そう考えると、このプログラムは「フィギュアスケートの当たり前」をできるだけ踏襲しないようにしているかのような、挑戦的なプログラムに思えてくる。

 

しかもすごいのは、ダンスのように全くフィギュアとは違うものを持ち込むのではなく、あくまでフィギュアのエレメンツなのだけど、当たり前ではないようにしているところ。

 

そしてやはり、羽生君のスケート技術がすごい。

当たり前の動きやタイミングではないプログラムを、これだけシームレスに美しく滑りこなす。

 

ところどころ、「どうなっているの?」という超絶技巧が織り込まれている気がした。

 

かなりの距離を移動しながら回るツイズル。

後ろで両手をつないだまま回るスピンなど。

 

「阿修羅ちゃん」のように分かりやすく違うわけではないけど、「Danny Boy」は、すごく革新的なプログラムのような気がする。

 

そしてこのプログラムを見ながら思ったのは、演奏家との心の通わせ方。

 

同じ曲でも、演奏家によって全く違うように聞こえるのが音楽。

 

おそらく羽生君のスケートは、演奏家とも心を通わせている。

 

「バラード第一番」はツィマーマンの演奏だという。

ツィマーマンという人の演奏だからこそ、あの演技があるのかなと思う。

 

そして、「春よ、来い」や「序奏とロンド・カプリチオーソ」は清塚さんの演奏。

 

そう考えると、この「Danny Boy」もキース・ジャレットの演奏だからこその響きあいがあるのだろう。

 

それにしても、羽生君はいつも新しい境地を見せてくれる。

決して1つ所に留まらないのが羽生君のスケートなのだろう。

 

常に人生の旅路の中にあるかのようなスケートだと思う。

「notte stellata 2024」初日のディレイ配信を見た。

 

今日という日に届けてくれたのかなと思う。

 

冒頭の「notte stellata」。

 

初日ということもあったのか、まるで、この場所で滑っていいのかを確かめるように、丁寧に丁寧に滑っていく。

そこに込められた祈りは深い。

 

そして、昨日、3月10日の滑りとも相通じるところがあるように感じた。

去年の滑りとは少し印象が違う。

 

今年の「notte stellata」は、悲しみや鎮魂というよりも、深い祈りを感じた。

ひょっとしたら、「RE_PRAY」での祈りが、この場所までつながっているのかもしれない。

 

「RE_PRAY」で繰り返し祈ってきたことによって、祈りが深くなったのかもしれない。

 

そして、「Carmina Brana」。

 

現地で初日に見た方は、さぞ驚いただろうと思う。

 

昨日の配信に続いて、見るのは2回目。

 

昨日はできるだけフラットに見ようと思って、羽生君のインタビューで語られたプログラムのコンセプトをあまり意識せずに見た。

 

一方、今日は2回目なので、コンセプトを思い浮かべながら見た。

 

最初の羽生君だけのパートで鳥の声が聞こえたような気がする。

こういう音の使い方が、とても演劇っぽいと思った。

 

そして、コンセプトを思い浮かべながら見ると、まさに「残酷な運命」が降ってくる様子がまざまざと浮かんだ。

今日が3月11日だからかもしれない。

 

ある日、突然、なんの前ぶりもなくやってくるのが地震。

あっという間に世界が壊れる。

 

この演目に羽生君を投影して見てはいけないのかもしれないけど、若き日に突然、襲い掛かってきた運命のように見えてしまった。

 

しかも、他の人は逃れているのに、自分だけは逃れることが許されない残酷な運命。

若い人にとって、それはどれだけつらく過酷だったか。

 

そして、プログラムの最後には「運命の女神」が黒い姿から、白い姿に変わる。

運命はいつまでも残酷ではないのだと、暗示するかのよう。

 

この短い時間のプログラムの中に、壮大なストーリーが見えた。

 

そして、最後の演目「Danny Boy」。

 

初見の昨日は、あれよあれよという間に終わってしまって、かすかな残像しか残らなかったけど、2回目の今日はもう少しよく見ることができた。

 

静かなピアノの調べにのって滑られるのだけど、1つ1つの動きに意味と心がこもっていて、とても密度が濃い。

(終わった後の羽生君の汗を見ると、スケート技術的にも濃いのかもしれない)

 

振付の1つの所作のなかに、ものすごく意味がこめられているような気がする。

1つ1つの動きが、まるで必然のように配置されているというか。

 

その必然性が、冒頭の「notte stellata」、そして「Carmina Brana」を経て「Danny Boy」にたどり着いたような。

この3つのプログラムが必然性をもって、つながっているような、そんな気がした。

 

深い祈りで始まった冒頭の「notte stellata」。

降りかかる運命に抗い、受け入れた「Carmina Brana」。

そして、たどり着いた「Danny Boy」。

 

「Danny Boy」にこめられたものは、とても大きいように思える。

 

いつも羽生君のスケートは全身全霊だけど、この「Danny Boy」はまた違った次元での全身全霊。

 

静かな中に、ものすごい比重の願いや祈りが込められているような気がした。

 

「notte stellata」というアイスショーそのものも進化していた。

今年の「notte stellata 2024」も素晴らしかった。

「notte stellata 2024」最終日を配信で見た。

8日と9日は見れなかったので、今日が初見。

 

何も知らずに見ると、たとえ配信でも理解が全く追いつかない恐れがあるので、あらかじめ演目やセットリスト、初日・2日目のインタビューといった情報を入れてから臨んだ。

 

今年も最初に滑られるのは、羽生君の「notte stellata」。

この3月というときに、この場所でアイスショーを開催するにあたっての、土地への挨拶、地鎮、魂鎮めのように、いつも感じる。

 

昨年は3月11日にライビュで、12日は配信で見た。

 

昨年は3月11日に黙とうする羽生君の姿もあったので、東日本大震災の押しつぶされそうな悲しみを感じながら見ていた。

この日に、この場所でアイスショーをして大丈夫なのかと案じながら。

 

だけど今年は、3月11日よりは前の日程ということと、昨年を経ての2回目ということもあり、東日本大震災のことを強く意識せずに見ていた。

 

アイスショー全体を通して、たまに震災のことがよぎるくらいで。

 

でもその見方は、羽生君の心情に寄り添っていなかったなと、終わってから思った。

おそらく羽生君にとっては、この「notte stellata」というショーは、その全てに東日本大震災への思いが詰まっているはずなので。

 

そんなわけで、プログラムの感想は軽々しいものになってしまいそうだけど、初見の感想を書いておきたい。

 

冒頭の「notte stellata」。

 

去年の3月12日の「notte stellata」に大変感動して、何回もその録画を見てきた。

 

だけど今年は「notte stellata 2024」。

昨年とは違う印象を受けた。(羽生君のスケートは、滑られる度に違う印象を受けることは珍しくないのだけど)

 

昨年の「notte stellata」は、悲しみの絶頂にありながらも、なんとか前を向いて歩いていく、希望を見出していくという、そのぎりぎりのはざまにあるようなスケートだった。

 

かろうじて一歩を希望に向かって踏み出す、でもその一歩が途方もなく大きな一歩というイメージで、丁寧に丁寧に滑られていた。

 

今日の「notte stellata」は、さらに一歩、希望に向かって進んだようなイメージ。

悲しみを振り払う必要はないけれど、希望を怖れる必要もない。

希望の中に歩み入ったような、そんな滑りに思えた。

 

相変わらず、スケーティングもツイズルもジャンプも極上だった。

 

そしてドキドキしながら待っていた「Carmina Brana」が始まった。

 

冒頭の大地真央さんの登場で、配信の映像なのに、その存在感の大きさを感じた。

よく言われる「スターのオーラ」を。

 

そして羽生君が登場する。

 

冒頭の振付や表情を見て、演劇のようだと思った。

演技の仕方、表情の作り方が演劇っぽいなと。

 

私は小中学生のころ、両親の趣味が観劇だったこともあり、よく演劇を見に行っていた。

当時の、日本を代表する演劇俳優の様々な舞台を見た。

 

演劇というのは、生で見るための総合芸術。

ライティングや音楽、そして何よりも俳優さんの存在感が素晴らしかった。

 

そして、演劇特有の見せ方があったように思う。

舞台で生身の人間が演じて、中ホールや大ホールの観客に、その肉声と演技のみで伝える必要がある。

 

しかも、映像作品のようにカット割りされるわけではなく、舞台はずっと続いていく。

主演俳優はでずっぱりということもよくあった。

 

そして舞台という限られた空間の中で展開しながらも、観客を全くの別世界へ連れていく必要がある。

それは生身の俳優と観客との真剣勝負の場でもあったと思う。

俳優の存在感、説得力があってこそ、観客の心にうったえかけることができる。

 

そういった演劇のエッセンスが、この「Carmina Brana」には詰まっていたように思う。

なので、この演目は生で見るのが一番良いのだろうなと。

 

大地真央さん演じる「運命の女神」と羽生君の動きがシンクロするシーンが圧巻だった。

そして、シンクロしながらも全く同じ動きではない。

それは運命に抗ったり、自分なりに受け入れたりする過程を表現しているのかもしれない。

 

それにしても、これだけ演劇的な演目だと、もっと長く見てみたいという贅沢な思いがよぎった。

 

そして後半、こちらも待ちかねた「Danny Boy」。

 

「おげんさんのサブスク堂」でおげんさんが、人生の一曲として紹介していた曲。

 

元々はアイルランドの民謡に新しく歌詞をつけて歌われた曲だそう。

 

民謡といえば、イングランド民謡がもとになっている「グリーンスリーブス」や「埴生の宿」など、外国の曲だけど、どこか懐かしく心に染み入るような曲が多い。

 

この「Danny Boy」も、そういう旋律を持つと思う。

 

羽生君が真っ白な衣装で登場して滑り始めると、あっという間にリンクが別世界になったように感じる。

アイスショーのリンクではなく、全く別の時間と空間に入り込んだような。

 

「あの夏へ」も別世界感がすごいけど、この「Danny Boy」も、「あの夏へ」とはまた違う世界に入り込んだような感じがした。

 

静かなような激しいような、悲しいような希望があるような、不思議なプログラム。

 

民謡というのは、長い時間の中で、たくさんの人の悲しみや希望、思いがこめられて歌い継がれてきた音楽。

そういうものが羽生君のスケートによって表れてきているような気がした。

 

そしてフィナーレへ。

すっかりおなじみになった「希望の歌」。

いつものメンバーとの「ありがとうございました」を聞いて、フィニッシュ。

 

今年も「notte stellata」を開催できてよかったと羽生君も宮城の方たちも思っているといいなと願う。

 

今年は3月11日よりも前の開催になったので、本当に乗り越えなければいけないのは明日なのかもしれない。

そんなことも最後の羽生君の挨拶とインタビューで感じつつ、今年の「notte stellata」が閉幕した。

「RE_PRAY」の大きなテーマは「祈り」。

 

改めて「祈り」について考えてみた。

 

自分の生活の中でいうと、めったに「祈る」ということをしない。

 

神社に行ったときに手を合わせて、大切な人や日本・世界の平穏を祈るくらいで、日常的に「祈る」ことは、ない。

 

どちらかというと日常、ともにあるのは「願い」のほう。

 

仕事をするときや人と接するときに、根底に「願い」があるかなと思う。

 

例えば、仕事のときには、つくったものを見てくれた人の役に、少しでも立てばいいなと思う。

 

人、特に子供や若い人に接するときには、相手の成長や人生経験に少しでも足しになればいいなと思う。

 

そういうふうに、いつも意識しているわけではないけど、根底にはそういう気持ちがあるかなと。

 

そして、その気持ちは、言葉にすると「願い」かなと思う。

自分のしていることが、直接的に作用してほしいというのは「願い」かなと。

 

一方で「祈り」というのは、自分には手に届かないこと、自分の力ではどうしようもないことを願うときにでてくる言葉というイメージがある(個人的に勝手に抱いているイメージだけど)。

 

例えば地震や津波、台風といった自然災害。

そして日本や世界の平和や、多くの人の心の平穏。

 

こういったことは、人間の力ではどうしようもない部分がある。

どんなに頑張っても達成できない部分がある。

 

それでも、その成就を願う場合、「祈る」という行為が生まれるのかなと。

 

つまり、「願い」があるから「祈り」がある。

 

まずは達成のために願い、頑張っている。

それが前提にあって、それでも力が及ばないことを「願う」場合に、「祈り」があるのかなと。

 

「RE_PRAY」を見ながら、そんなことを考えた。