糸井さんとの対談、第2回がリリースされた。
今回、前々からずっと不思議に思っていたことの理由が1つ、明かされたような気がした。
以前、このブログで「野生という魅力」という記事を書いた。
羽生君のスケートを見ていると、「理性」と「野生」という、2つの相反するものが同居しているように見える。
羽生君のスケートは現代的で理性的。
と同時に、本来、人間がもっている「野生」のパワーをまとっている。
それが非常に魅力的なのだけど、なぜ可能なのだろうと不思議に思っていた。
その理由の一端が、今回のインタビューの羽生君の言葉から垣間見えた。
「いまは、社会的なこととか、知識とか、いろんなことを知ってしまっているので、そこが子どものころとは違うかもしれませんね。自分のことばとか行動に、無駄な意味づけをするようになっているというか。たとえば、『今日は雨だ』っていうときに、ただ空から雨粒が落ちてくる、湿度が高い、暗い、というくらいの意味しかないのに、そこになんとなく自分が『憂鬱だ』とか、『ちょっと体が重い』とか、そういう意味づけを、大人になるとしてしまう。それを、知性と呼ぶこともできるけど、でも、本来はなくてもいい、邪魔な概念なんだろうなとも思うんです。」
「自分と対象のあいだにいろんなレンズが入ってくることで、焦点が合わなくなってしまう感じがしていて。」
「だからなるべくそのレンズを外してあげて、それから突き進む、というのが、なんか、たぶん、ぼくが幼いころから、ずっと続けてきたことなんだろうなと思います。」
自分の言葉や行動に意味付けをする。
大人になると自然にすること。
それを自覚したうえで、外すことを意識的に続けてきたという。
しかも羽生君の場合は、色々と思考したうえで、レンズを外すのだ。
なるほど。
だから、羽生君のスケートからは「理性」と同時に、人間が本来もっていた「野生」のパワーを感じるのかもしれない。
燃えるような情熱。闘争心。生命力。
内からあふれてくる力を、まっすぐに開放する。
そのまっすぐなパワーが見る者を引きつけるのだろう。