言葉の宝石

言葉の宝石

ティーンエイジの娘と話す時間の無かったお父さんが娘と日常に話したかった事をブログります(2011年9月から3年間限定)

Amebaでブログを始めよう!
あなたの持っているもの、いろいろありますが
その中でもっとも価値のある大切なものは何だと思っていますか

それは「時間」です

これを持っていない人はいないから、誰にでも共通の「もっとも価値のあるもの」なのです。
大切なものです。

「本当の友達とは誰か」に書きましたが
本当の友達は その人の大切な物を自分の為に分けてくれる
 それは「時間」
 自分と一緒に過ごしてくれる時間をくれる

のです。

あなたの為に自分の時間を使ってくれるのが本当の友達です。

他人のために自分のもっとも大切なものを使うことほど尊いものはありません。




時間というものがそんなに尊いものだということを
普段はあまり気がつかないかも知れません。
有難いと思うこともないかも知れません。


昔、ミニー・リパートンという歌手がいました。
ガンで31歳で亡くなりました。
亡くなる前にこの歌を歌いました。


Yes, time is a treasure that we cannot buy
Time measures a life and I don't know why
My love, before I met you I could not give
Then you touched my heart
And you taught me to live
You are the sun, gentle and warm
You make my life complete
Give me time to show what you mean to me

Time is you, don't you see
I need you to give me time
To show what you mean to me



昔、エヴァ・キャシディという歌手がいました。
メラノーマで33歳で亡くなりました。皮膚ガンの一種です。
余命数ヶ月で、コンサートの最後にこの歌を歌いました。

What a wonderful world.

この歌も私は好きです。




余命というのは、気がつかないだけで実は誰にでもあるのです。
時間というものは、誰もが持っているもので一番大切なものです。
それを、他人のために使うことほど尊いものはない。
あなたの持っているものはすべて、あなたの本当の友達にあげなさい。


余命を覚悟した人の音楽をまさか実際に自分が聴く経験をするとは思っていませんでした。
高橋光太郎さんがスキルス胃癌で余命いくばくもない時に、最後に「愛の悲しみ Liebesleid」とサン・サーンスの「白鳥」をアンコールで弾きました。
あんな幽玄な音楽を聴いたことが無いとそのとき思いましたが、死を覚悟した人の音楽には共通したものがあるようにも思います。


人間が持っているものでもっとも価値のあるものは、
他の人にあげるためにあるのです。戴いたらそれを愛しなさい。




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2011年9月から3年限りの予定で始めましたが
予定外の事に時間を取られて書く時間が足りない3年間でした。
特に今年(2014年)は9回しか書けず。

来年(2015年)はその「私を2年間悩ました問題」が解決する見込みなので
そうしたら書き残したことを書き足そうと思います。


じゃ、今年最後のブログです。

「分かる」について。

「分かるとはどういうことか」を2011年10月に書きましたが(←リンク)
「分かる」という事には二つの種類があると思います。

ひとつは「理解」です。
英語だとunderstand が近い意味です。それは「外から来たものを理屈として解する、つまり理解」です。その能力のことを理解力(英語だと comprehension )と言います。それは「能力」なんです。

誰かが言っていることを「理解する」のは、理屈が飲み込める、知る、記憶できる、ということです。(話が聴き取れていても理屈が理解できないときはその人が実際に何と言っていたかは記憶できないものです)

「理解」するには予備知識や材料や資料や相手の説明やプレゼンテーションが必要で、理解とは「脳の力」でするものです。



もうひとつの「分かる」というのは、理屈でするものではない。外からの情報でするものではない。それは「自分の中にあるものと一致して納得する」ということです。英語だとconvinced が近い意味です。(convince の受動態)日本語だと「腑に落ちる」です(本来は「腑に落ちない」というのが成句ですが、落ちても良いでしょう)

それは、「人から聞く前に最初から自分の中にあったもの」です。知っていたのです。ただ、今までそれを見つける機会がなかっただけ。いま、気がついたのです。それは誰かに説得されたから「分かった」のではない。そういう「分かる」ことって、子供の時からたくさん経験しているはずです。しかし「そのことを気がつくレベルに達していないとき」にはまだ「分かる」ことができない。あなたが今そのことが「分かる」のは、そのことを分かるレベルになっているからです。去年のあなたには、同じことがまだ「分からなかった」。



「分かる」ことの中身は、初めから自分の中にある。
「全ての答え」は初めから自分が持っている。


それを取り出す時期が来れば分かるものです。

子供のときだって、分かることはあったでしょう?
大人は子供より賢いわけではありません。
ただ経験値が少しだけ多いだけです。

何もかも分かる時がいずれ来ます。


それではまた来年。
教育とは何か?

教え育む(はぐくむ)と書きます。

子供は教育を「受ける」立場です。
教育を受ける事を「勉強」だと思っている人もいるでしょう。
学校に行くのは「勉強」しに行くため。
(実際は友達に会う為ですが)

だから学校でしていることが「教育」だと思っている。
思ってませんか?

学校の勉強は楽しかったですか。


学校の教育の仕方も、国によっていろいろあります。
私は自分の子供を三ヶ国で教育を受けさせたので、
国による、つまり文化による教育方法の違いというものを
実体験として子供と共有しました。

国によって、こんなに違うんだ、という事を身に沁みて感じた、ということです。
どこがいい悪いの話です。

私は日本の学校はまったく楽しくありませんでした。
小学校のときから、授業の内容と教師に対して疑問を持った。

そういう子供は必ず先生に虐められます。
先生の知らない事を知っていたり、先生が答えられないような質問をするからです。

先生というのは、およそ、世間知らずです。子供相手に毎日暮らしているからです。そういう事は、子供自身も気がつきます。「この大人の言ってる事はおかしい」と。


そんな人間から一方的に何かを記憶するように毎日言われ続ける事が、楽しい筈がありません。
日本の学校はまったく楽しい思い出が私には無い。

だから、自分の子供には、「勉強というのは楽しい物だ」という事を教え育んでやろう、と心掛けた。勉強というのは、本来、楽しい物なのです。何故かと言うと、知の地平線が広がるからです。色んな事がもっともっとよく見えるようになるからです。世界が広がるからです。できなかった事ができるようになるからです。世の中をもっと良くするアイデアが浮かぶようになるからです。女の子の気持ちも分かるようになればどんどんモテるようになるからです。楽しくない訳が無い(笑)


さて、「教育」です。
さっきも書いたように日本の教育は「知識のつめこみ」「覚える事」ばかりです。受験に勝ち残るには「テクニック」というものがあるらしく、それを身につければ本当は何も考えてない人間でも合格します。日本には医者にも弁護士にもバカがたくさんいますが、それは日本の仕組みだとバカでもなれるからです。

(バカとは:人間としての品性が無く常識に欠け物事の理解力に劣り他人を見下し人の気持ちを想像する意思も能力も無い人のこと)
注:この場合は常識も重要です。コミュニティのメンバーとしての適不適を見られるからです。

そんなテクニックを覚え身につける事が楽しい筈が無い。テクニックで知の地平線が広がる事はない。そういうのは「教育」ではないのです。


教育とは、「何かを覚えさせる」「知識を与える」「自分の価値観を相手に植え付ける」ことではないのです。

子供というのは、バカではありません。
子供を育てた事がある人は気がついているでしょうけれど、子供は何でも分かっています。理解する能力は大人と変わらない。むしろ言語習得能力などは子供の方が優れている事が分かっています。私の息子は三歳の時に既に相手の話す言葉が何語かを耳で聞いてから英語と日本語とを使い分けていました。「この世界には異なる言語を話す人間のグループがいる」という事を理解していたのです。子供はなんでも分かっている。ただ、この世界のルールについての経験値が少ないだけで、脳みその能力は大人と変わらない。

そういう子供に「何かを教える」というのは、「何かを覚えさせる」「知識を与える」「自分の価値観を相手に植え付ける」ことではない。子供には既にすべての事を理解する能力がある。子供とは「空っぽの入れ物」ではありません。もう、十分なにもかもが入っているのです。その何もかも入っている引き出しの中身を、子供が「これは何か?」と思った時にそれに答えて子供の中にある「腑」に落ちるのを助けてやるのが「教育」なのです。子供は納得したら嬉しそうな顔をします。それが「学ぶ喜び」です。楽しい事なんです。


私の息子は五歳の時中国にいましたが、中国の学校の「おとなしく座って先生の話を聞いて一日が終わる」というやり方に合わず、登校拒否するようになりました。(それ以前がドイツののびのび学校だったので差がありすぎました)
結局転校して解決しましたが、これも国による(文化による)やり方の違いで、自分の努力で乗り越える物では無い、と思います。
(合わないならさっさと学校を代えれば良いということです)

家では私が息子とその友達を相手に毎日勉強させました。
知識を与えたのではありません。

以前書いた記事が見つかったので転載します。これが私の考える「教育」というものです。

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何かを教えたいとき、
一から十まで教えたくなりますが
それだと本人は

「ああしろこうしろ」を聞くだけの人間 になり、

自分でものを考えなくなります。

わたしの 親としての

「子供を育てる上での本当に重要な目的」は、

自分で人生を切り拓くサバイバル能力を身につけてもらう事
です


暗記しても「知恵」はつきません


子供に何かを教えるとき、
必ず自分で答えを言わせました

考えるヒントは提供します

○○だとこうなるね、
△△だとこうなるね、
□□したいときは、どっちがいいかな?


のようにです。

すると、必ず
自分で考えてから
答えを言います

それで、そのとうりやってみます

結果が分かります

自分の選択が正しかったら
眼が輝く
そして 自分から
「もっとやろう」 
と言います


自信もモチベーションも上がる


「部下を育てる」とかいう本がたくさん売っていますが
わたしはビジネス書は読まないので確証はありませんが
書いてある事はこれと同じ事だと思います



これで、子供は
自分がしたいことを自分で見つけて行く
という「人生に対する態度」が
身に付きます


あとはほっておいても大丈夫です


人を動かすというのは
そういうことだと思います
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知の地平線を広げる
それは楽しい!

息子とともだち




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日本語でよく「普通は」という言い方をする人がいます

それはどういう意味でしょうか。

「普通」とは何か?という話です。


「普通」とは何か、考えてみた事ありますか。
私は「普通」という言葉は「定義できないもの」と思います。
どういうものが「普通」なのか、定義できない、ということです。


誰かが「普通は」と言い始める時、それは自分がこれから言おうとしている事が既に「正しい」ことを担保するときです。

「担保」というのは難しい言葉ですが、もともと日本語には無かった言葉ですが、「保証する、確実にする」という意味のようです。銀行員が得意に使う言葉です。


だから「普通は」と誰かが言うときは、「これから私が言う事はすでにこの世の中では支持されている、誰でも同じように思っていてそのとおりだと同意されている事ですが」という意味です。「普通は」という言葉とこれを入れ替えてみても意味が変わらない筈です。


「これから私が言う事はすでにこの世の中では支持されている、誰でも同じように思っていてそのとおりだと同意されている事ですが」と誰かが言うときは、それはそのまま信じては危険です。これからその人が言おうとしている事は「裏付けする事を省略して良い事だとその人が自分で思っているだけの事」だからです。

「普通」なんてものは存在しません。「常識」と同じです。
(常識とは何かについては過去に書きました)
つまり「限られた範囲の中だけで通じる限定的なものであって誰もが認めているものでは無い」ことが「普通は」の中身なのです。日本人は「他の人と違うことが恥ずかしい」という気持ちを持っている人がいるので「普通は」と言われるとそれに逆らえずに「普通は」と言われた中身を前提にしてしまい勝ちですが、「普通」という言葉の強制力を認める必要はありません。

「普通」という枠に押し込もうとしている相手の言うことを鵜呑みにしてはいけない。
「普通」なんていうものは無いのです。定義できないからです。


そう言うと、「じゃ、一般的には」と言い換える人がいます。
これも同じことです。一般的というのは統計でも取って裏付け資料を見せなければ「一般的」とは言えないものです。しかも「統計」というのもいくらでも目的に応じて操作できるものですからスグに信じてはいけません。(頭のいいヤツは必ず人を欺く方法を持っているのです)


英語に「普通は」という意味の言葉があるでしょうか?

英語の「普通」はなんですか。
Normally
Generally
ordinary
usually
common
どれも文脈に応じて使い分けられますが、
「これから私が言う事はすでにこの世の中では支持されている、誰でも同じように思っていてそのとおりだと同意されている事ですが」という意味では無い。

Normallyというのは「Normal」という基準がある場合を前提としています。
「この場合のNormalとは何か」という前提があるのです。
例えば「ノーマルな人は同性愛には走らない」などと誰かが言えば必ず「そのノーマルとはどういう意味か」と問われることになります。それは差別的な考えである危険性があるからです。何かを「Normal」と呼ぶには必ず検証が必要です。これを日本語で「普通は」と誰かが言う時、「その普通とは何か」と問う人はなかなかいない。それは検証を予め省略するという前提で言っているからです。Normallyとは意味が違うことが分かりますか。

Generally も「General」という状態が定義されていることが前提です。「普通は」とは違う。

ordinary は Ordinary Peopleというアメリカ映画のタイトルを「普通の人々」と訳した人がいるのでOrdinary=普通 と思う日本人がいますが、ordinaryというのは「特別ではない、単純な、特徴の無い」というはっきりした意味を持っている物であって「普通」のような定義の無い曖昧な単語ではありません。

usually というのは 「通常の手順」「一定の環境」という既に決まっているものがあって、その中で行なわれることについて言うときの言葉です。Usualというものが何か、話者の間では明確に共有されているものです。

common というのは common senseを日本語で「常識」と訳しているので誤解がありますが、「地域の共同体が共有するもの」という大前提があります。「そこでだけ通用するもの」という認識がくっついているのです。「常識」は違う。日本人が「常識」と言うときはまるで「宇宙の法則」「知らないなら覚えておきなさい」という一方的な強制力が伴う物です。「常識」とは「日本人なら当たり前に認識していなければならない事」なのです。それは違うでしょう?日本人だっていろいろな考え方も価値観もあるのです。「みんなが一緒」というものでは無い。


誰かが「普通は」と言い始めたら、「これから私が言う事はすでにこの世の中では支持されている、誰でも同じように思っていてそのとおりだと同意されている事ですが」と言っている、と考えると良いです。そして、それは疑問を持って聞きましょう。鵜呑みにしてはいけません。信じてもいけません。

「普通」というものは定義できない物だからです。




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人間はミスをします
ミス=mistake のことです

作業をするときに犯してしまう間違いの事です

人がミスをしたとき、周りの人はどうするか?
(1)助ける
  これは助ける事ができる能力があるなら当然の事です
(2)叱る
  これは「同じ間違いを将来繰り返さないように強力に注意をする」という事でしょう
  ※そういう目的の事を「再発防止」と言います
(3)再教育をする
  これも「再発防止」が目的です

たとえば、毎日の集計表にこういう項目を記入する作業があるとします
____________________________
日付 |入荷 |出荷 |在庫 |記入者|
   |   |   |   |   |
   |   |   |   |   |
   |   |   |   |   |
¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨

このマスに数字を入れて、月末に今月の合計を計算する、という
小学生でもできる作業です。
7/29に品物五個が入って、1個売れたら、こう記入します
____________________________
日付 |入荷 |出荷 |在庫 |記入者|
7/29| 5 | 1 | 4 |くろの|
   |   |   |   |   |
   |   |   |   |   |
¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨

次の日の7/30には1個も売れなかったとき、こう記入するのが正しい記入方法です。
____________________________
日付 |入荷 |出荷 |在庫 |記入者|
7/29| 5 | 1 | 4 |くろの|
7/30| 0 | 0 | 4 |くろの|
   |   |   |   |   |
¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨

ところが、この表に、こう記入するひとが出ました。これは間違いです。
____________________________
日付 |入荷 |出荷 |在庫 |記入者|
7/29| 5 | 1 | 4 |くろの|
7/30| 5 | 1 | 4 |くろの|
   |   |   |   |   |
¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨

7/30の最新の在庫数はあってます。
何が彼女にこう書かせたのか?(書いたのは女性らしいです)

彼女の上司は
「もう二ヶ月前に教育して毎日やってる事なのに。。。」
「何を考えているのか理解できない」
「アタマ悪いのかしら」などと首を傾げるばかり。本人にどう伝えたら良いのか、考えあぐねている。直接叱ったら凹むだろうし、何を考えているのか分からないからどう教えたら良いのかも想像がつかない。



よくあることです。

「なぜこの人はこのような行動をしたのか?」


こういうミスのことを、ヒューマン・エラーと呼んで研究する学問分野があります。

mistake と error の違いは、、、

使用例文
"It would be a mistake to argue with your boss the day before he or she evaluates your performance, but to forget an important step in an assigned task would be an error. "
解説
Although these nouns are used interchangeably in many contexts, a mistake is usually caused by poor judgment or a disregard of rules or principles (it was a mistake not to tell the truth at the outset), while an error implies an unintentional deviation from standards of accuracy or right conduct (a mathematical error).
出所
Oxford American Writer's Thesaurus 3rd edition © 2012 by Oxford University Press

人が間違った行動をしたとき、当人に100%理由や責任があるのではなく、それを引き起こした環境に原因がある、という考え方に基づいてその「原因」を発見し取り除いて再発防止を計る、というのがこの学問の目的です。

つまり、

「叱ったってダメだ」
「本人にしっかりしろなどと気合いを入れても環境が同じなら誰かがまた同じ事をする」
「環境が同じなら今はミスを犯した事の無いあなた自身もいずれ同じミスをするかも知れない」

ということです。


ミスを犯した会社などが「再発防止に努力する」とよく言うが、「社内マニュアルの再教育・再度の周知徹底」などでは「再発防止」にはなりません。徹底していたのに起こったのかも知れない。たまたま一人がバカだった、のが理由では無いかも知れない。

航空事故の場合は「再発防止」というものが徹底的に行なわれます。
原因究明のためには事故の当事者の過失責任を問わずに真相究明に協力させる、という規則まである。


なぜこんな事が起こったのか?
本人ではなくその背景や環境に原因を探す。
そしてそれを排除する事によって、再発を防止するのです。

「そういうミスが起こらない環境を作り直して行く」


以前、ドイツのアウトバーンの話をこのブログに書きました
この本にも書いてあります。
国際結婚・言語・異文化についての言語学的社会学的考察
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アウトバーン(ドイツの速度制限の無い高速道路)の出口というのは60Km制限になっています。
アウトバーンの高速のまま一般道に出てもらっては困るからで、標識にも高速の出口は60Km制限と書いてある。しかし、それだけでは60Kmを越える速度で一般道に突入してしまうミスは防げません。

そこでドイツはどうしているか。
実は、アウトバーンの出口は、必ず半径の小さい急カーブになっているのです。あの急カーブを100Km超でそのまま曲がる事はシューマッハでもできない。(シューマッハ:ドイツのレースドライバー)

これで「ゼッタイにスピードを落として一般道に出る」という仕組みが出来上がっている訳です。

■ 人に何かをさせたいときは「みずからそうしたくなるようにさせるのが唯一の方法」という事がドイツでは実感できます。おそろしい国です。



日本ではスピード違反の多発する道路に数メートルおきに速度制限標識をたくさんたくさんたくさん並べている道路を見た事があります。いやでも目に入る。しかし、有効ですか?

ドイツ人だったら、「道を曲げる」でしょう。ゼッタイに速度を制限したいなら。



さて最初に戻って、あの人はなぜミスしたのか?

これです。
____________________________
日付 |入荷 |出荷 |在庫 |記入者|
7/29| 5 | 1 | 4 |くろの|
7/30| 5 | 1 | 4 |くろの|
   |   |   |   |   |
¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨

正しいのはこちら。
____________________________
日付 |入荷 |出荷 |在庫 |記入者|
7/29| 5 | 1 | 4 |くろの|
7/30| 0 | 0 | 4 |くろの|
   |   |   |   |   |
¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨

ミスの原因を考えてみましょう。
(本人がウッカリさんだから、などというのは「再発防止」になりません)

私の想像では「7/30は何も変化が無かったから前の日と同じと考えた」からです。
このまま月末までいけばちゃんと月間の入荷と出荷の合計がすぐに分かる。足し算しなくて済みます。合理的です。
彼女は7/30に入荷が3個あったら、こう書くのでしょう。
____________________________
日付 |入荷 |出荷 |在庫 |記入者|
7/29| 5 | 1 | 4 |くろの|
7/30| 8 | 1 | 7 |くろの|
   |   |   |   |   |
¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨
計算は合ってます(笑)


★この予想が正しいかどうかは、本人に「7/30に入荷が3個あったらどう書きますか?」と聞いてみれば良いのです。


じゃ、再発防止はどうするか。
私なら(原因が上記のものなら)こうします。
タイトルを変えるのです。
________________________________________
日付 |今日の入荷 |今日の出荷 |在庫 |記入者|


そして、試してみます。

まだミスが起こるなら、また別の原因を探します。
再発防止というのは、永遠に続く作業なのです。


最後までお読み戴き有り難うございました。

誉められて伸びるタイプか叱られて伸びるタイプか
という とってもバカな二者択一の質問を
よく見かけるが


人間は、誉められてのみ、伸びるものです。


叱られて伸びる人はいない。
叱られたことをバネにして伸びる、という理屈を言いたいらしいが
叱られて「ナニクソ」とか思う事はあっても
それが原因で伸びる事は無い

必ず、「誰かに誉められた経験」が人を伸ばすのです
ナニクソで奮起して、何かをして、その結果を「誉められたから」
伸びた、というのが正しい見方です


人は一人では生きて行けないものという話を何度も書きました。
人は、他人(専門用語では『他者』というようです)からの評価で生きている
他者の目で見た自分が、自分を作る
誰かに認められたから、自分が存在するのです
誰かに誉められたから、自分はそれが上手なのです


日本人は「誉めること」も「誉められること」も苦手です。

「誉める」ことがなかなかできない。
それは自分が誉められた経験が無いからです。
人から誉められるとすぐに疑う。
素直に「うれしい」と言えません。
言えますか?

「そんなことありません」と応じるのが良い、と教わりませんでしたか。

「あなたの長所はなんですか」

すぐに言えますか。



美人の人は初めから自分が美人だと思っていません。
人から「きれいだ」「きれいだ」と何度も言われるから
本当にキレイになるのです。

ジャック・ウェルチという人が(知らない人はスルー)
「子供のときママからいつも『お前は賢い』と言われたから賢くなった」と言いました。

私は操縦士の教官をしていたことがあります。
素人を教育するのではなくて、既にベテランの操縦士の機種転換教育をしました。
そんなベテランの人でも、「今のは良かった」と誉めると
本当に上手くなります。そこに自信が生まれるのです。
逆に「ヘタだね」などと言うと(ゼッタイに言いませんが)
まったく伸びないのです。本当にヘタになっていく。(実例を見てきました)


自分が教育を受けた時の事を思い出しても、
「誉められたとき」の事はたくさん覚えています。
そして、そのあと自信がつきました。
「これでいいんだ」と確信を持てた。

あるとき、年配の有名な機長の人がこう言っているのを聞きました。
「パイロットというのはみんな自分が最高だと思ってる。私がそうですから」

日本人はたいてい、自信のある人が嫌いです。
「慢心している」とか「いい気になってる」とか「思い上がっている」とか、
自信のある人を押さえつける言葉はたくさんある。
そんなに自信が嫌いなのは何故か?
それはそういう教育を受けてこないからです。

自信の無い人間に仕事を任せられますか?
「今日の着陸は自信が無かった」などという機長の飛行機に誰が乗りますか。
パイロットは、みんな、毎日、自信にあふれて生きているのです。
私がそうですから間違いありません。
思い上がっているわけではない。すべての動作、すべての判断を絶対的な自信を持って行なうのが操縦士の仕事です。他の仕事でも同じ部分はあるはず。それが習い、性となっている。


人間、自信があるときの所作は余裕がある。
本当に集中しているときは、気が出たり入ったり自由になる。
自信があるときの動作は、誰もが真似のできないほどその人の能力が全開になる。

日本人は謙虚を美徳としています。
なかなか自分を認めない。
「初めて自分を誉めてあげたい」と言ったスポーツ選手がいました。
「まだまだです」「反省点はいっぱいあります」「これからも上を目指して・・・」
そういうのが日本人のようです。

違う。

「今の自分の最高のものを見せた、出した」

そういう生き方をしている人が、真に輝くのです。


サッカーワールドカップブラジル大会で日本は惨敗しました。
雑誌には「この四年間は間違っていたのか」などという見出しで
またしても「反省」指向です。

そんなだからいつまでも勝てない。
ずっと、勝てない。
体格とか体力の問題では無いと思います。(それもあるでしょうが)

勝てない本当の原因は「自信が無い」からです。
自信に満ちたプレイ、即ち「誰もが真似のできないほどその人の能力が全開になっているプレイ」ができないからです。それは日本人についてまわる理由です。教育、文化が、そうなっているからです。

他国のプレーヤーの動きは全然違う。
今のサッカーは、カウンター攻撃からの得点が非常に多い。
それは目にも留まらぬ動きの連続で実現されるもの。
スピードと技と連携があわさって成し遂げられるものです。
個人技の時代ではない。もう、ペレやマラドーナのサッカーとは時代が違う。
優勝したのがドイツというのが象徴的です。傑出したスタープレイヤーの時代ではない。
自信にあふれた個人の集合が世界を制する、そういう意味だと私は思いました。
決勝で点を入れたドイツのゲッツェ選手をゲームに投入する時、監督はこう言ったそうです。

The Germany manager, Joachim Löw, had urged his substitute Mario Götze to “show the world you are better than Messi” at half-time in extra time, with the Bayern Munich forward going on to conjure the goal which won the nation a fourth World Cup. (The guardian

「お前はメッシより上だ」

誉めてるんです。気合いが入るでしょう。輝くのです。


日本の選手に「自信に溢れているプレー」をする人はいません。
「どうしたらいいのか分からない」というプレーをする人はいます。
※ドイツに大敗した時のブラジルも同じでした。日本はいつもそうでした。



自信に溢れた(本当に誉められて伸び伸び育った)人間が街を闊歩するようにならない限り、日本は世界に負け続けるのです。

教育に携わる人、何かの指導的立場にある人、そういう人は、子供や生徒や部下や仲間をどんどん誉めて戴くよう、希望します。おだてるのとは違うのです。「良かった所、美しかった所、そういうものを気がついたらかならず言葉で相手に伝えること」それが大事だ、ということです。

叱られて伸びる人間はいないのです。



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昨日「常識は単なるローカルルール」を書きました。

常識は絶対的なものではなく
常識などに縛られる必要は無い、という主旨を書きましたが

それではそんなものが何の為にあるのか?

それを書いてみます。


常識、というのは、

なんとなく、自分の住んでる(生きてる)周りの人々の間で
なんとなく、存在しているものです

なんとなく、という意味は「はっきりとした説明無しに」という意味です。


みんなが「なぜそれはそうなのか」という理解をしているかどうかに関係なく
つまり、「いつ誰が何故そのように決めたのか」という根拠がはっきりしないまま
そこにいる人々達が共通して参照しているものです。


それは人々が社会的な生活の過程で(要するに近所の他人との接触を経験して)
その人々達の共通の認識として生まれたもの、それが「常識」です。

それは、その社会的集団の中で生きて行くのに必要なルールです。
必要なのです。その社会の中で生きて行くのに。
だから、その集団(国民とか社員とかのグループ名で呼んでも良いです)に所属する人には
「常識」を教える必要が出てきます。これを「教育」と言います。


だから、その集団に属さない人々(他国の人とか他社の社員とか)には、その「常識」は通じない。
それは当たり前の話でしょう?


自分の集団(自分の国とか自分の学校とか)しか知らない人は、自分と違う集団(異なる文化とか他所の国とか)がこの世に存在することを知りません。だから、自分の常識がユニヴァーサルに(すべてのものに共通しているさま。普遍的に)通用するものだと、思い込んでいる。

(「どんな国の人とも話せば分かり合える」などという人は無知です)


自分の常識は、他所では非常識なのです。
自分の言語は、他所の国では全然一言も通じないのとまったく同じ事です。


だから、他所の常識が入り込んできたら、この場所はどうなると思いますか。
今までの常識が、破壊されるのです。
自分たちと異なる「教育」を受けてきた人たちがたくさん増えたら、
あるいは「そもそも教育など受けていない人達=常識というものを知らない人達」が周りに溢れかえったらどうなると思いますか。


アメリカという国はそれです。非常識の集まってできた国です。
だから非常識を一つに纏める強力な物差しが必要だった。
それが「資本主義」です。何でもカネカネ、お金が物差し。(この話は今回は深入りしません)

常識というのはローカルのものだから、どこにも同じものは無い筈です。みんな「ユニーク」なのです。ところが日本人は、中でも「超ユニークな常識」を持っています。

他人を家族のように思う気持ちや公共心の高さや人を信じやすい特徴など、他の国にはどこにも無い。悪い人もいるけれど基本的に日本人同士は信じ合っています。そんな国はどこにも無い。

そういう日本人の常識が通用しない人達がたくさん増えたら、日本人の多くは騙され傷つけられこの国の持っている美風が必ず損なわれます。なぜなら、こんなに素晴らしい、弱々しい、人をすぐ信じてしまう、白黒はっきりさせないという常識を持っている人達は他所にはどこにもいないからです。


日本は外国人の入国を制限しています。それはどこの国でも世界中同じです。
しかし、若者が少なくなって労働力確保の為に外国人労働者を増やそうと考え始めている人もいます。その時に「異なる常識を持った人間が増えるとどうなるか」「教育を受けていない人間が増えるとどうなるか」「自分さえ良ければ他人はどうでもよいと考える人間が増えるとどうなるか」を同時に考える必要があります。


君たちと同じ常識を持っていない人達は、この世に君達全員よりはるかにたくさんいるのです。
「自分たちの常識」の意味を、よく理解しておく事です。



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子供のとき、(色んな事を覚えていますが)
こう大人に言われて何も言えなくなったことがある。

「そんなことは常識だ!バカモン!」


僕が知らないから、いけないんだ。
と、子供心に思うとともに、
常識が常識であるという事は誰が決めるんだろう
少なくとも僕はそんなことが常識だと認めていないのに
勝手に僕に従わせるのは不合理じゃないのか。

■ 経験のある人には分かると思いますがそんな事を質問したら先生からイジメられます。
(アタマの良い子供はたいがい子供の時にバカな大人からのイジメを経験しているものです)

子供というのは、何でも知っている。何でも分かっている。
子供は大人より何も劣っていない。

子供は大人より物事を知らない、ということの意味は「ただ経験値が低いというだけのこと」「知力や能力が劣っているということではない」という話しを以前にもしましたが、それは「常識」というものについて、とってもよく当て嵌まる事です。

常識、というのは、実はローカルなルールの事なのです。いまその場所でしか通用しない。しかも、その場所にいる人々が何らかの結果として共有して受け容れているというだけのものであって、場所が違えば、また、時が違えば、また、場所と時間が同じでもそこにいる人間が違えば、通用しないもの。

我が家の常識は隣りの家の非常識。

日本の常識は隣国の非常識。
隣国の常識は日本の非常識。

「常識」というのは、生まれたばかりの赤ちゃんにはありません。
必要ないからです。いらない。
ある特定の場所と人々の内側で生きて行く為に共有しなければならない規則、それが「常識」の正体なのです。

そんなものは絶対的なものではない。常識は疑え。

「そんなことは常識だ!」と押し付ける人には「そんな事はこの狭い場所と狭い人間関係の中でだけ通用するものだ!」と告げて、その場所から出なさい。そしてもっと広い世界を見てご覧なさい。

常識に従って生きる事の、無意味さが分かる筈です。そこからは新しい物は何も生まれません。



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子供の頃、小学校の先生がこう言っていました

「真実はひとつだ」

信じられませんでした。何故かと言うと「何故そう言えるのか」という説明が無いからです。
★経験した人は分かると思いますが、そんなことを先生に質問したら先生からいじめに遭います。


真実は一つではありませんね。

何故かと言うと、人間は一人一人、それぞれ自分の世界に生きているからです。
そこには他人とはまったく同じではない「自分だけのユニークなモノの見方」があり、
誰かとは共有できるかも知れないが誰とでも共有はできない「価値観」があるからです。

人は、それぞれ自分だけの世界を観ているのです。
(過去にもそんな話をしました)
客観などというものは存在しない。すべての物事は誰かの主観です。

ですから、事実はひとつ(ひとつだから事実と呼ぶのです)だけれど
それを「どう解釈するか」というのは個人の自由であり勝手であり
真実がひとつである理由は無いのです。

例えば、分かりやすい例で言えば「歴史」というものがあります。
歴史に「事実」はあっても「真実」はいくつもある。
コロンブスがアメリカ大陸の近くの島に1492年頃たどり着いた、のは事実でしょう。(私は見てきた訳ではないけど)
でも、「アメリカ大陸を発見した」と言う見方は西洋人の目からのものであり、先住民(インディアンのことです)からすればアメリカ大陸は最初からそこにあった訳で、1492年に発見された訳じゃない。

そういう簡単な事を小学校で説明できる先生が私の子供時代にはいなかった。


歴史には「事実」がたくさん書かれます。しかし、それが何を意味するかという「真実」は、ひとつには絶対にならないものなのです。中国と韓国と日本が「歴史認識を同じにする」事など、ゼッタイに有り得ないし、「しなくてはならない事でもない」なぜなら、「真実」はあなたの自由なものだからです。


あなたの真実は私の真実と同じである必要は無い。
真実は一つではない。

真実を一つに固定したい人達がいます。
その目的は何でしょう。
「自分と同じ考えにさせたい」「自分が正しいと思わせたい」「自分に従わせたい」「あなたを好きなようにコントロールしたい」
そういう背景がある可能性も、考えて見なさい。

今の若い日本人は、自分で物事を考える事をしない。
人と違う考え方をしない。
(それは日本の教育がそうなっているからです)

誰かの話に自分を同調させている。
みんながワールドカップに夢中になるから自分も参加して応援する。

もっと他にすることがあるんじゃありませんか?
烏合の衆の一員になって、ゴミ拾いしたから世界から誉められた事が免罪符になって、自分の事を肯定してませんか。


真実は一つではない。<<< だからいつも「私の言う事を鵜呑みにするな。自分のアタマで考えなさい」と書いているのです。

私の言う事は気にするな。信じる必要は無い。

すべての答えはあなたの中に初めからあるのです。
あなたの中にある真実を見つけるのはあなたにしかできないのです。


【参考】

『事実』には判断が含まれざるをえないことについて(「民事尋問技術」135ページ加藤新太郎編著 ぎょうせい2013.2.5 第3版6刷)

中野貞一郎「確認訴訟の対象」判夕876号9ページ(1995年)
「具体的な空間と時間により特定された出来事や状態としての『事実』が、そのままの形で民事訴訟に登場してくることは(いわゆる訴訟内の出来事を別とすれば)全く存在しない。『事実』は、通常、常に、当事者の主張その他の陳述、証言、書証の記載などにおける事実判断として現れてくる。なまの具体的事実についての知覚をなんらかの一般的な上位概念と上級命題にあてはめることによってえられた事実判断が述べられるのであって、述べる者の判断をまじえずに事実を述べることは、論理的に不可能である。ただ、その判断が単純・日常的であるか、複雑・専門的であるかという差異があるにすぎない。不動産を売った・買ったとか、約束手形を振り出した、債務を弁済した、というようないわゆる『法律事実』を述べるのは、当然に、法的な判断をも含むことになる」



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