昨日「常識は単なるローカルルール」を書きました。
常識は絶対的なものではなく
常識などに縛られる必要は無い、という主旨を書きましたが
それではそんなものが何の為にあるのか?
それを書いてみます。
常識、というのは、
なんとなく、自分の住んでる(生きてる)周りの人々の間で
なんとなく、存在しているものです
なんとなく、という意味は「はっきりとした説明無しに」という意味です。
みんなが「なぜそれはそうなのか」という理解をしているかどうかに関係なく
つまり、「いつ誰が何故そのように決めたのか」という根拠がはっきりしないまま
そこにいる人々達が共通して参照しているものです。
それは人々が社会的な生活の過程で(要するに近所の他人との接触を経験して)
その人々達の共通の認識として生まれたもの、それが「常識」です。
それは、その社会的集団の中で生きて行くのに必要なルールです。
必要なのです。その社会の中で生きて行くのに。
だから、その集団(国民とか社員とかのグループ名で呼んでも良いです)に所属する人には
「常識」を教える必要が出てきます。これを「教育」と言います。
だから、その集団に属さない人々(他国の人とか他社の社員とか)には、その「常識」は通じない。
それは当たり前の話でしょう?
自分の集団(自分の国とか自分の学校とか)しか知らない人は、自分と違う集団(異なる文化とか他所の国とか)がこの世に存在することを知りません。だから、自分の常識がユニヴァーサルに(すべてのものに共通しているさま。普遍的に)通用するものだと、思い込んでいる。
(「どんな国の人とも話せば分かり合える」などという人は無知です)
自分の常識は、他所では非常識なのです。
自分の言語は、他所の国では全然一言も通じないのとまったく同じ事です。
だから、他所の常識が入り込んできたら、この場所はどうなると思いますか。
今までの常識が、破壊されるのです。
自分たちと異なる「教育」を受けてきた人たちがたくさん増えたら、
あるいは「そもそも教育など受けていない人達=常識というものを知らない人達」が周りに溢れかえったらどうなると思いますか。
アメリカという国はそれです。非常識の集まってできた国です。
だから非常識を一つに纏める強力な物差しが必要だった。
それが「資本主義」です。何でもカネカネ、お金が物差し。(この話は今回は深入りしません)
常識というのはローカルのものだから、どこにも同じものは無い筈です。みんな「ユニーク」なのです。ところが日本人は、中でも「超ユニークな常識」を持っています。
他人を家族のように思う気持ちや公共心の高さや人を信じやすい特徴など、他の国にはどこにも無い。悪い人もいるけれど基本的に日本人同士は信じ合っています。そんな国はどこにも無い。
そういう日本人の常識が通用しない人達がたくさん増えたら、日本人の多くは騙され傷つけられこの国の持っている美風が必ず損なわれます。なぜなら、こんなに素晴らしい、弱々しい、人をすぐ信じてしまう、白黒はっきりさせないという常識を持っている人達は他所にはどこにもいないからです。
日本は外国人の入国を制限しています。それはどこの国でも世界中同じです。
しかし、若者が少なくなって労働力確保の為に外国人労働者を増やそうと考え始めている人もいます。その時に「異なる常識を持った人間が増えるとどうなるか」「教育を受けていない人間が増えるとどうなるか」「自分さえ良ければ他人はどうでもよいと考える人間が増えるとどうなるか」を同時に考える必要があります。
君たちと同じ常識を持っていない人達は、この世に君達全員よりはるかにたくさんいるのです。
「自分たちの常識」の意味を、よく理解しておく事です。