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言葉の宝石

ティーンエイジの娘と話す時間の無かったお父さんが娘と日常に話したかった事をブログります(2011年9月から3年間限定)

更新が滞っている上に今日は「休憩」の話題です済みません。

私は男三兄弟の長男です。
男の子の様子を見て男の子(だいたい五歳以下)とは激しい生き物だということは皆さんご存知かもしれません。

そういう激しい生き物が三匹もいたらお母さんというのはどんなに苦労があるか、想像に難くないでしょう。ウチのお母さんは大変な子育てだったに違いないと思います。

さて、私がそういう激しい生き物だった頃(今でも激しい?ウルサイ)、母親に連れられて弟と二人、どこかの個人医院に行った時の事です。小さな待合室です。そこに、私たちと同じぐらいの年(五歳か)の男の子を連れたお母さんがいました。

そのお母さんは、息子に食べさせる為にサンドイッチを持っていました。ところが、その子はむずがって食べません。私たちは当然、常に腹が減ってる生き物ですから、そのサンドイッチに釘付けになりました。

するとそのお母さんは、楊枝のささって、耳を切り落としてある、我が家では見た事も無い美しい食べ物を私たちに差し出したのです。

中は、細切れにしたゆで卵でした。ゆで卵を細切れにしてサンドイッチにしたものを、この時生まれて初めて見ました。おいしかった。
もちろんおかわりを要求して、弟と二人で全部食べてしまったのです!

今にして思えば「自分の子どもの為につくった食べ物を見ず知らずの子どもに全部あげてしまう」というこのお母さんは、えらい人だった。楊枝にささった小さなサンドイッチを差し出した時の白い手。顔はまったく覚えていませんが、その白い手はよく覚えています。


その話しを40年くらいたってから家でしたら、弟は「自分もそのことは覚えている」と言ったのです。

あれ以来、私はタマゴサンドを作って、色んな人に食べさせました。
みんな、おいしいと言います。40年経っても、覚えているでしょうか。





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私事の所為で更新が滞っていますが
今年(2014年)の九月で予定通りこのブログは終了しますので
書き残しが無いようにしたいと思っています。

新年にあたって、十代の皆さん、新成人の皆さんに挨拶します。

自分の人生は、自分の思い通りにするものです。

自分のしたい事、好きな事、楽しい事、
それをするために人生はあります。

既にあるシステムに乗って行き先を選ぼうとするな。
有名な大学だから行こう
有名な会社だから目指そう
そういう考えを多くの人がします。
それは正しくない。

その先に自分の本当にしたい事があるのか、
よく自分で考えることです。

何かに乗っかるのではなく
自分で自分の乗り物を創るのです。

それが自分の人生を自分の思い通りにするということです。

自分のしたい事、好きな事、楽しい事、
それをするために人生はあります。

好きな事を見つけなさい。
みつける方法はこのブログに何度も書きました。

好きな事をして生きたなら
たとえ裏切りにあっても
がっかりすることを経験しても
後悔する事はありません。





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物事を理解する方法は説明したので
具体的な事柄についてどのように理解するのか
実践するシリーズです

ブランド物というものがあります

高いです

なぜブランド物に高い値段がついているかというと
価格が自由に設定できる自由経済主義の国では
その理由はただひとつです

それは
「その価格でも買う人がいるから」
です

よく間違える人がたくさんいますが
「品質が良いから」ではありません

※それは「要素」のひとつですが、決定的な理由ではありません
※「良い物なら売れる」とたくさんの技術者が思っていますが、違います


価格=品質ではない

それではなぜ、ブランド物を買うのか

日本人の場合は「他の人が持っているから」です
雑誌で宣伝されてそれにあおられて買う人が増えると
持っている人がたくさん増えて、安心して買う人がまた増える。

自分の目で確かめて買うのではない。
自分の目に不安があるから
他の人が選んでいる物なら安心できるという心理が日本人には多い。

ブランド物、というのは、必ず「宣伝費」がたくさんかかっています。
雑誌に記事にしてもらうのも
地代家賃の高い場所に店舗を構えるのも
みんな「ブランドの宣伝費」です

すると、それは、必ず「商品の値段に反映」されます
そうでないと破産します。

まったく同じ素材で同じ職人が作った物でも
それに「ブランドのロゴ」がつくだけで値段が跳ね上がります。
ポロシャツのポケットにロゴの刺繍をするだけで値段が跳ね上がる。

「ブランド代」というものに余分なお金を払っているのであって
商品の品質の違いにお金を払っているのではない。分かりますか。


「ものの価値を自分自身のモノサシで計ることができる」なら
自分が価値を認めないものに余計なお金を使う事はしないで済みます。

ブランド物に価値が無い、と言っているのではありません。
高い値段をつけられるからには(つまりその値段でも買う人がいるなら=このことを専門用語では「市場があるなら」と言います)材料や手間ひまにもお金をかけることができる。
(よく勘違いしている人がたくさんいますが、「材料や手間ひまがかかってるから値段が高い」のではありません)

その「値段」を構成しているものにそのつけられている「値段」が見合う、そのように評価しているなら、自分のお金をどう使おうと個人の勝手です。
「自分の物差しで判断しているか」
それだけが、重要な事です。みんなが持ってるから、で大切なお金を無駄にしないように気をつけなさい。

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私が高校生のとき、雨が降っているのでガールフレンドが傘を貸してくれました。
暗い茶系統の生地に黄色っぽいアルファベットやら丸い形の模様がたくさんついていました。日本の風呂敷みたいなデザイン。教室に着くと、同級生が一斉に笑いました。

「なんだそのへんな傘」
「フーテンの寅さんか」

それは、まだ日本には売っていなかった「ルイ・ヴィトン」の男性用の傘でした。
それから数年後、私の傘を笑った多くの女の子たちは、あのへんな模様のバッグを持つようになりました。

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同社の全世界売り上げの半分以上は日本。
「みんなが持ってるから」どんどん売れる国は日本だけ。


これを「素敵」とあなたは思いますか?
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「物事を理解する方法」について昨日まで書いたの

それでは今ある様々な問題をどのように理解するか
その話しをしてみようと思う。


まず、私の言う事は「正解ではない」ということを最初に言っておきます。
人の言う事にいちいち左右される必要は無い。
私の言う事を気にしない事。(←リンク)

あなたが人の話しを聞いて、「それはそうだ」と思った事があなたにとっての「答え」です。
それは人から聞いて初めて知った事ではなく
「初めからあなたが知っていた事をその話しによって気がついただけ」
です。
それを「インスパイア」と言います。(←リンク)


さて、「死刑制度」です。

私は「死刑制度に賛成」です。


日本にはいろんな昔話があります。

カチカチ山 因幡の白ウサギ 猿蟹合戦 桃太郎...

全部を引用するのは難儀なのでかちかち山だけ書いてみます。
※詳細はWikipediaでどうぞ

畑を荒らす狸をつかまえたおじいさんは、狸汁にしようと家に連れ帰り、おばあさんに「絶対に縄をほどいてはならぬ」と言いつけて自分は畑仕事に戻った。狸は「おじいさんが長生きする料理を教えてあげるから」と訴えると「おじいさんが長生きするなら」とおばあさんは狸の縄をほどいてしまう。

【教訓】相手に何かをさせたいとき、唯一の有効な方法は「自らそれをしたくなる」提案をすることである。(←リンク)

おばあさんは狸に殺されて「婆汁」にされ、狸はおばあさんに化け、帰って来たおじいさんにそれを食べさせる。おばあさんがいなくなった事実を知ったおじいさんはウサギに相談し、ウサギは狸を山へ芝刈りに連れ出し、帰り道に狸の背負った薪に火をつけて火傷を負わす。ウサギは更に「火傷に効く」と言って狸に唐辛子入りの塗り薬を渡し、それを塗った狸は更に痛みに苦しむが治癒する。それからウサギは狸を釣りに誘い出し、木造の船と泥舟を用意し、泥舟に載った狸は船が沈んで溺れるが、ウサギは櫓で狸を叩いて海に沈めて殺してしまう。メデタシメデタシ。。。


「本当は恐ろしいグリム童話」などという本があったが、童話というのはいずれも理不尽で不条理で恐ろしいからこそ長く語り継がれるものなのである。ここで分かるのは「日本人は復讐を是と考える傾向が見られる」ということである。
因幡の白ウサギ 猿蟹合戦 桃太郎...も、みな同じです。

それは「文化」と呼ばれる、「地域独自の価値観」のことである。

今はどうだか知らないが(テレビを見ないので)
昔は「忠臣蔵」という映画を毎年年末に放送されるのが恒例だった。(討ち入りが12月14日だったため)

あれは「復讐話」であり、日本人は大好きです。
復讐を果たした赤穂浪士を民衆の人気を考慮して打ち首ではなく切腹させたけれど処刑したことによって幕府は人気が凋落し、その後の政策がうまく行かなくなっていったという話しの続きは割愛しますが、そのエピソードからも「当時の日本人に強く支持された」ことが伺えます。

この復讐話を福沢諭吉が「法治国家にあるまじきもの」と批判したと聞いていますが、その批判の根拠は「不法行為だから」に他ならない。「法」というのは明治時代に「西洋」から輸入されたものです。それまでの日本には「法」というものが無かった。(あったのは律と令です)
「法」は守らなければならないものだから「あれは蛮行だ」というのはそれまでの日本には無かった近代的な考えに他ならない。

つまり、日本古来の固有の価値観に従ったものではない、のです。

「復讐は悪」という考えは日本に取っては新しい価値観です。というよりいまだに日本は「法治」ではない、という話しは繰り返し書いてきた事です。

日本が「復讐」を禁じているのは「犯罪は国家が判定する」というものになっているからです。恨みを「個人」が晴らす事を禁じている。「被害者の心情は分かるが法律に書いてない事はできない」のです。

それは、日本人の多くが「そんなのはおかしい」と思っている事です。

日本人の多くは「人を一人殺した者は死刑で当然」「それがバランスというもの」という感覚を持っている。そうでない日本人は「どこかから別の価値観を吹き込まれた」からです。福沢諭吉とて同じ事。キリスト教圏の価値観を盾にして「ドイツでは死刑はとっくに廃止されている」などと主張されても「グローバルに通用するルールなど存在できない」ものなのであり、他国がどう考えようと自国の考え方には何の関係も無いのです。

「えん罪」の存在が否定できないから死刑は廃止しなければならない、という議論がありますが、それは目指す方向が逆です。「死刑が必要だからえん罪を無くさなければならない」のほうが本来の主旨を反映している。

欧州には、子供を何人も性的に虐待してから殺した殺人犯がいますが、(犯罪が明らかなのに)死刑制度が無いために死刑にならず、牢獄で「殺した子供達の最後の姿を毎日思い出して悦楽にひたっている」と発言しました。殺された子供の親は「戻って来ない子供があの男の記憶の中で毎日いたぶられる姿として生き続けている事は堪え難い」と言いました。

私は死刑制度を支持しています。

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「自分でその対象物に直接、触れてみる事」

それが「物事を理解する方法」ですが、
直接触れてみても、分からない、という時はある。

それは、人によって感じるものが違う理由と同じで
自分自身でも、時期によって感じるものが違うからです。

今は分からないものでも、時が経つに連れて分かるようになるものもある。※例えば「親の気持ち」というのは子供には決して分からないものです。

「理解する」というのは、あくまでも個人的な経験であり、本人自身にしかできないことです。
人の話しを聞いて「何かを理解」したときでも、それは「人の話しを刷り込まれたのではなく、自分の中にあったものを発見した」ということなのです。

「理解」できなくても、「人の話し」を元に「センサーを磨く」「理解の助けを得る」事はできます。
それは「人の話しを聞く事」と「自分でその対象物に直接、触れてみる事」の両方を繰り返す事。

「人が良いと言うもの」と「自分が良いと思うもの、自分が好きなもの」は必ず別です。

名演奏・名盤集などを読んで、実際に聴いてみると、ほとんどが自分の趣味とは違います。
例えば「ビルボードチャート一位」だけの曲を集めたCDを聴いてみると良い。
ヒットチャートの一位になったのだから「とっても多くの人が気に入った、売れた」曲に違いありませんが、それを100曲聴いてみると、自分の趣味にあった曲などほとんど無い筈です。
同じように「クラシック名演奏100曲」のほとんどが好きと思えないのは自分の耳が悪いのではないということです。

そうして、「人の言う事と実際自分でその対象物に直接触れて感じる事とは違う」ことを認めるようになれます。

「正解は無い」のです。

それでは、最初の話題に戻って「誰の言う事をどれだけ信用したら良いのか?」ですが、
それを子供に説明するのが「親の役割」です。(私の信念です)
親ほど、子供の成長を願っているものはいない。
(そうでもない親もたくさんいますが)
(また、別のところにも書きましたが、親がいなくても親の役割をしてくれる人がいれば、親の存在は必要条件ではありません)

そういう役割を果たせない人が、たくさんいる。それは日本の経済成長の歴史にも理由があります。昔は大勢の家族や友人が身近に生活していて、両親の他にも子供の面倒をみる人がいました。
それが生活の為に都市部で夫婦だけで生活する様式が増加して、しかも親子が一緒に過ごす時間が少ない。私の知り合いで、会社から海外に赴任を言い渡されて家族を連れて行くお金は出ず、その上日本に一時帰国する事も禁じられていたため、赴任直前に生まれた息子と二度目に会った時は子供は既に四歳になっていたという人もいる。

そういう社会の仕組みの所為もあって、親子の関係が壊れている国になってしまった。
本来、親が(或は親代わりの人が)果たすべき役割を誰もしなくなった。

だから子供達は「誰に聞いたら良いのか分からない」状態を当たり前に経験するようになってしまった。
※学校の先生など論外です。アタマの良い子は多くの子が先生によるイジメを経験している。

今は「塾」というものが隆盛している。子供の社交場は「塾」。
子供と誰よりも親密で多くの時間を過ごすのは「塾の先生」かも知れない。

「塾」が受験のテクニックを教えるだけのものではなく、
「自分で物事を理解する方法」を教える場になれば
この国の子供達とその将来を変えて行く大きな力となるかも知れない。

友人が「塾」を開業したので、そんな事を考えてみました。

大人がもっと、自分の役割を自覚しないといけない、と思います。

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昨日の続きです

「誰に聞いたらいいのか分からない」
「聞いても信じるに足るかどうかが分からない」

という問題にぶつかったとき、どうすればよいか。

まず、
「唯一の正解というものは無い」
ということを思い出す事です。

唯一の正解があるのは『数学』だけです。

他のものには『唯一の正解』というものはない。

だから「誰の言う事が正しいのか」を気にする事は無いのです。
誰の言う事も、それは「その人にとっての真実」であり、
それは間違いではないが(間違ってるものもありますが)あなたにとっても
真実というわけではない。

人の言う事を鵜呑みにするものではありません。

例えば、クラシック音楽の評論というものがあります。
どの曲を誰が演奏したものが良いのか、膨大な量の中から少ないお小遣いで
なにを聴いたら良いのか、分からない、そういう時、
「名盤・名演奏100CD」などという本を読んでみたりします。
(架空の書名です)

しかし、そのCDを実際に自分で聴いてみると、
そこに書いてある事と自分の感じる事はまったく違う事を経験します。

自分が良いと思うものと世間の評価は同じではない。

実は、それは当たり前の事です。
感性が違う。経験が違う。文化が違う。信条が違う。
(例えばゴッドを信じていない日本人が宗教曲を本当に理解する事はできません)
(友達のいない人にベートーベンの『歓喜の歌』の歌詞を理解する事はできない)

同じ音楽を聴いた感想は、100人が100人、全員が違うのです。
今はインターネットがあるから、100人の異なる感想をカンタンに知る事ができるようになった。
しかし、インターネットが無い時代には、評論家という専門職が書いたものしか人の目に触れる事が無くてそれが唯一の基準になり、評論家という人間もその事に胡座をかき(自分と異なる感想の方が数が多いという事を知る事が無いために反省が無い)、自分の感想が唯一正しいかのような態度になったものです。中にはレビューに「点数」まで書き込む人もいる。尊大で下品な事です。自分が学校で点数をつけられてきたから、そうする事に疑問を持たないのでしょう。

古い映画を観ると、舞台人たちが舞台の翌日の新聞のレビューをとっても気にしている姿が映ります。なんと書いてあるかを出演者達が知りたがり、その記事に一喜一憂する。
今の時代にはとっても奇異に見える事です。新聞の記事は、ただの個人の意見でしかないのです。どこに権威があるというのか?今の時代、多くの人の感想を知る事はもっとカンタンです。英語ができれば更に広い世界の事を知る事がカンタンにできる。

世の中に「名演奏」とか「名曲」とか「名演奏家」というものは無いのです。
あるのは「自分の好きな演奏、好きな曲、好きな演奏家」です。
それらの中で、多数の支持を得たものが「名○○」とラベルが貼られるだけで、
その評価が自分の考えと違っていてもそれは当然の事です。
※なぜなら、聴き手はひとりひとりみんな違うからです。

音楽の話しを例にしましたが、
それでは「いくらでも聞く事ができる他人の意見」をどのように扱ったら良いのか?
誰の意見を信じたらいいのか?どう判断したら良いのか?

それは、最初に書いたように
「誰も正解ではない」
だから
「誰の言う事が正しいのか」を気にする事は無い。
ということをまず念頭に置く事です。

そして、
「自分でその対象物に直接、触れてみる事」です。

いきなり直接触れてみても分からないだろうから人の意見を聞いてみようとしている、のでしょうが、それは「単なる不安」です。誰でも、自分の感性というアンテナを持っている。『一度聞いただけで好きになった曲』というのは誰にもあるはず。予備知識無しでたまたま耳にしただけでもとっても忘れられなくなる音楽というものはあります。

実際に自分で触れてみることです。そのとき感じた事が、あなたにとっての「答え」です。
人の言う事と比べたり気にしたりする必要はどこにもありません。


【続きます】








十代から二十代の初めまでは「物事についてのモノサシ」というものがまだありません。
『価値判断の基準』ができていない。

ある物事をどのように評価したら良いのか、それが分からないとき、
まずすることは「人の意見を聞いたり読んだりすること」でしょう。
しかしその「人の言う事」をどのように評価したら良いのか
或は、どの程度信じていいのか、
それがまたモノサシが無いので分からない。

若い時とはそういうものです。

色んな人の言う事を聞いてみるけれど、どれが正しいのか分からない。

しかし、これは日本の学校教育に原因があると思うことですが、
多くの子供が「どこかに必ず正解がある」と思い込んでいます。

昔は、テストの回答は記述式というのがありました。40年くらい前です。
自分で考えた事を文章で回答するのを「記述式」と言います。死語かな。

先生は、回答にはひとりひとり違う事を書いて来るからひとりひとりに
評価を与えました。つまり、全員が違う答えを書いていた訳です。

その後、「点数つけるのが面倒くさいから」と「先生によって評価が異なるのは良くないから」
という二つの理由でテストの回答はマークセンス方式に変わりました。

いくつか回答の選択肢があらかじめ書いてあって、正しいと思うものを黒く塗りつぶす。

そういうテストを受けて来た子供は
「どれかが正解である」
という思考方法になって行きます。

そして、皆が同じ答えを言うようになります。
自分のアタマで考える事がどんどんなくなって行く。

そうすると、「正解というものが必ず、どこかにひとつ、ある」
「それを見つける事が、『理解する』という事の意味だ」
と思い込むようになる。

その原因が、日本の学校教育のやり方にあると私は思うのです。


子供達は分からない事を理解したいという自然の欲求がある。
アタマを使う子供は自分で理解の助けとなるものを探します。
しかし、

「誰に聞いたらいいのか分からない」
「聞いても信じるに足るかどうかが分からない」

という問題にぶつかります。

かならずぶつかります。
時には学校の先生より自分の方が理解が進んでいる事柄もある。
教室で質問したら先生が恥をかくこともある。
大人に聞いてもとんでもない答えが返って来て失望する事もある。

そういうとき、どうしたらよいか?

【続きます】


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ドイツ人というのは、「物事には必ず論理的に説明できる理由がある」と考えています。

なぜドイツ人がそのように考えるかというと、「ドイツ語」が「誤解を許さない非常に厳密な言語だから思考も論理的にならざるを得ない」と私は考えています。
※私は「言語が思考を支配する」と考えています。
それならば「何故ドイツ語が厳密な言語になったか」という理由があるはずですが横道に入り過ぎるのでここでは書きません。


ドイツに限らず、西洋では「何故」と「理由」が常に一対に存在します。
Why? と聞かれたら Because... と言わなければなりません。

日本では違います。
「どうしてそんなことをしたんだ?」
「だって、、、」
「言い訳するな!」

日本には『説明』というものが許されない価値観があります。

そのため日本人は「理由」というものを考えない習慣がある。
「すべてのものに説明できる理由がある」と考える日本人は珍しい。


だから「何故」という言葉自体も、それがどういう意味なのか、はっきり考えた事がある人はなかなかいません。

「愛に理由は無い」と言う日本人もいます。
私も35歳のときはそう言いました。

いまは「愛に理由はある」と思います。
「何故、人を愛するのか」を書いてみようと思います。

=================================


まず最初に「何故?」という言葉の意味を考えます。
「どうして?」と言い換えても良いです。

「何故?」「どうして?」と質問するとき、実はその答えである「理由」には、以下のような分類があります。
(1)行動について質問している時は「動機」と「目的」が求められている。
(2)状態について質問している時は「原因」や「仕組」が求められている。

「なぜ、それをしようと思ったのですか?」と聞かれた時は、質問者自身が自覚しているかどうか分かりませんが、「動機」か「目的」のどちらかを念頭に置いているのです。「動機」と「目的」はまったく別のものです。答えを言う前に、どちらを尋ねているのかを先に質問すると良いです。

「なぜ日本では信号はアオと呼ぶのですか?」と聞かれた時は、「その原因」を求められています。
(外国ではグリーンです。緑です。英語でもドイツ語でもイタリア語でも・・・です)
この質問は、日本で信号をアオと呼ぶ「原因」を聞いている訳です。
その答えは「日本語では色の名前に古来から『緑』というものがなく緑色のものはアオと呼んでいた」のが理由=原因です。
※ しかし、そもそもGreenイコール緑、ではないのです。異なる言語どうして一対一でまったく同じものを表す単語は一つもない、というのが私の考えです。文化人類学者が「青」から「緑」まで徐々に色合いの違う色紙をたくさん用意して色んな国の人を試験者として集めて、何枚目で「blue」と「green」の境界を感じるか、という実験をして、国によってその境界が違ったので「○○国の人はこのあたりが境界だと考えている」という論文を出したという話しを読んだ事がありますが、それは「青と緑の境界が文化によって違う」のではなく、「国によってその色名が示す色が違う」という事であり、この学者の視点が根本的に間違っているのです。つまりアオはBlueとイコールで無い、ということです。


長々と横道に逸れましたが「愛」についても外国語のLoveとかリーベンとかアムールとか、すべて意味するものが違います。

ですので、ここでは「愛」について書きます。(Loveについてではありません)

「愛の定義」は、以前に非常に長い説明を書きました。
ですので、その定義は済んでいます。

では「何故、人を愛するのか?」
以前に定義したように「愛する」というのは動詞です。「すること」です。「状態ではない」のです。

ですから、「何故、人を愛するのか?」という質問が期待している回答は「目的」と「動機」です。
一方、「何故、愛しているのか?」という質問の場合は「愛している状態」の「原因」を聞いているのです。その原因は人によって様々です。「好き」と「愛する」はどう違うかという話しも以前にしましたが「好き」は状態です。その理由は人様々なのは当たり前でしょう。「愛する」は違います。愛する、というのは行動ですから「意志を持ってすること」です。その目的と動機は、人によって様々ではなく、人間に共通のものだと私は考えています。

「何故、人を愛するのか?」の答えは、誰でも同じです。


と私は考えています。

それをこれから書きます。

(1)人を愛する動機

 人間は一人では生きていけない生き物です。それはどういう意味かは以前書きました。
 「人はひとりでは生きられないものなのか」(←リンク)
 「友達は何故必要か」(←リンク)
 自分が「愛する相手」というのは、自分にインスピレーションを与えてくれる人です。
 自分の人生を高めてくれる人です。
 そこには、異性であるかとかの区別はありません。自分の子供を愛するのも、子供というのは自分にインスピレーションを与えて、自分自身を発見させてくれるからです。
 その時の「愛」には、初めから「見返り」というものを期待していません。すでに、たくさん貰っているからです。一方的で良いのです。「愛するからもっと愛して欲しい」という気持ちはまったく無い。「愛する」こと自体がもうそれで完結したものなのです。何も求めません。
 ※これは持論です。エーリッヒ・フロムは「愛するということ」という著書で「愛」を「異性への愛」「家族への愛」「自己愛」「ゴッドへの愛」などと分類していますが、私はそのようには考えられません。
そもそもゴッドなどというものを信じていませんし。

愛を分類している以外は大変参考になり、共感する本です。

愛するということ/紀伊國屋書店

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人を愛する「動機」は、自分に強い影響を与え、生きる力と喜びを与えてくれる謂わば「太陽」のような存在だからです。それが動機であれば、愛するからもっと何かして欲しい、という気持ちが起こる筈がありません。それが動機であれば、「好きじゃないけれど愛する」という事もあるはずです。

この「動機」は、人類に共通のものの筈だと私は思います。


(2)人を愛する目的

そもそも「目的とは何か」が人によって理解が異なりますが、私は何度か「目的の定義」を書いています。
「目的と目標の違いを再度考える-2」(←リンク)
すなわち、「目的」とは「どんな効果を達成したいのか」というものです。
ですので「人を愛する目的」を言うとすると、それは誰でも共通のもののはずで、私ならこう表現します。

人を愛する「目的」は、その愛する人(相手)の人生が更に高みに達すること。

そこには勿論ですが「見返り」を求める期待はありません。
その人がもっと高いところ(具体的には様々ですが)に行くように助けたい。
その人の喜びが自分の喜びです。
その人の幸せが自分の幸せです。

これは「見返りを求めている」こととは違います。
他の人の為に自分が一生懸命、心をこめて行動する、その事自体が喜びなのです。
※ 自分の子供に対しての気持ちを想像すれば分かり易いと思います。
※ ただし自分の子供を愛せない人もいますが、それは親として人間が未熟なのが原因です。
 エーリッヒ・フロムの言うように、人を愛するには自分自身の能力が必須なのです。


目的、というのは、何度も書いていますが「達成する事」が大事なのではありません。
困難にくじけながらも、その事を諦めずに追求すること自体に意味があるのです。
それは人生と同じです。

この「目的」は、人類に共通のものの筈だと私は思います。


人を愛する理由は、対象が異性であろうと家族であろうと、会った事も無い他人であろうと、変わらず普遍的なものだと私は思います。


ご意見あれば、伺います。

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夢が叶うとはどういう事かを前回書きました

今日はその逆の「夢が叶わないとはどういう事か」を書きます

「夢」というのは《目標》のことだと前回定義を書きました。

子供の時の「夢」というのは、だいたい《目標》のことを言っています。
○○になりたい、というのは目標です。
それで「何をどうしたいのか」まで子供はまだ考える事ができません。

※中には「医者になってガン治療法の発見に人生を捧げて沢山の人を救いたい」などと言う子供も居るかも知れません。或は「ピアニストになって多くの人に音楽の素晴らしさを伝えたい」と、《目的》まで語れる子供も居るかも知れません。それは「物事をよく考えている子供」のしるしです。

前に何度も書きましたが、私は『人生に目的は無い』と考える一人です。

生きている間に《目的》はいくつ作ってももちろん良いです。けれども
「人生そのもの」には目的は無い。
詳しくはこのシリーズで(←リンク)


今日の話はその《目的》ではなくて、その手前の《目標》のことです。

目標は、目的のための道しるべです

それが叶わない事があるというのは自分にとってどういう意味か。

目的と目標の関係が理解できれば話はカンタンでしょう。
目的のために別の手段、つまり「別の夢」を持てば良いだけです。
あなたの本当にしたいことは《目的》です。

それを実現する為に様々な「夢」を持つのではないでしょうか?
夢はいくらでも見る事ができます。
別に「大きな夢」である必要は無い。
こうなったらいいな=夢 です。

それは、叶わない事がよくある。
とっても悔しかったり残念だったり落ち込んだり絶望したりする。
それをどう自分の中で処理するか、苦しい事もあります。

けれども、夢は叶える事が大事なのでは有りません。
叶えば嬉しいです。でも叶わなくても死ぬほど大事な事ではない。

夢を持っている、それを追いかけている、
その事が一番大切なことです
それは生きている喜びだからです。

叶わなくても構わない。
次を考えれば出てきます。
夢が叶わないというのは、あなたに「別の夢を持ってもらう機会」なのだと
私は思います。

「夢を持て」と人に言われるのが苦しい、という声を
子供から聞いた事があります。

それは「夢」は『努力して達成しなければならないもの』という
考え方がどこかにあるからではないかと思う。

そうではありません。

「こうなったらいいな」と思うのはすべて「夢」です。
カンタンな事です。

もたなければいけない、と言われると、それは苦しくなる。

叶わなくても良い。
夢はいくらでも見れるものなのですから。


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