ドイツ人というのは、「物事には必ず論理的に説明できる理由がある」と考えています。
なぜドイツ人がそのように考えるかというと、「ドイツ語」が「誤解を許さない非常に厳密な言語だから思考も論理的にならざるを得ない」と私は考えています。
※私は「言語が思考を支配する」と考えています。
それならば「何故ドイツ語が厳密な言語になったか」という理由があるはずですが横道に入り過ぎるのでここでは書きません。
ドイツに限らず、西洋では「何故」と「理由」が常に一対に存在します。
Why? と聞かれたら Because... と言わなければなりません。
日本では違います。
「どうしてそんなことをしたんだ?」
「だって、、、」
「言い訳するな!」
日本には『説明』というものが許されない価値観があります。
そのため日本人は「理由」というものを考えない習慣がある。
「すべてのものに説明できる理由がある」と考える日本人は珍しい。だから「何故」という言葉自体も、それがどういう意味なのか、はっきり考えた事がある人はなかなかいません。
「愛に理由は無い」と言う日本人もいます。
私も35歳のときはそう言いました。
いまは「愛に理由はある」と思います。
「何故、人を愛するのか」を書いてみようと思います。
=================================まず最初に「何故?」という言葉の意味を考えます。
「どうして?」と言い換えても良いです。
「何故?」「どうして?」と質問するとき、実はその答えである「理由」には、以下のような分類があります。
(1)行動について質問している時は「動機」と「目的」が求められている。
(2)状態について質問している時は「原因」や「仕組」が求められている。
「なぜ、それをしようと思ったのですか?」と聞かれた時は、質問者自身が自覚しているかどうか分かりませんが、「動機」か「目的」のどちらかを念頭に置いているのです。「動機」と「目的」はまったく別のものです。答えを言う前に、どちらを尋ねているのかを先に質問すると良いです。
「なぜ日本では信号はアオと呼ぶのですか?」と聞かれた時は、「その原因」を求められています。
(外国ではグリーンです。緑です。英語でもドイツ語でもイタリア語でも・・・です)
この質問は、日本で信号をアオと呼ぶ「原因」を聞いている訳です。
その答えは「日本語では色の名前に古来から『緑』というものがなく緑色のものはアオと呼んでいた」のが理由=原因です。
※ しかし、そもそもGreenイコール緑、ではないのです。異なる言語どうして一対一でまったく同じものを表す単語は一つもない、というのが私の考えです。文化人類学者が「青」から「緑」まで徐々に色合いの違う色紙をたくさん用意して色んな国の人を試験者として集めて、何枚目で「blue」と「green」の境界を感じるか、という実験をして、国によってその境界が違ったので「○○国の人はこのあたりが境界だと考えている」という論文を出したという話しを読んだ事がありますが、それは「青と緑の境界が文化によって違う」のではなく、「国によってその色名が示す色が違う」という事であり、この学者の視点が根本的に間違っているのです。つまりアオはBlueとイコールで無い、ということです。
長々と横道に逸れましたが「愛」についても外国語のLoveとかリーベンとかアムールとか、
すべて意味するものが違います。ですので、ここでは「愛」について書きます。(Loveについてではありません)
「愛の定義」は、以前に非常に長い説明を書きました。
ですので、その定義は済んでいます。
では「何故、人を愛するのか?」
以前に定義したように「愛する」というのは動詞です。「すること」です。「状態ではない」のです。
ですから、「何故、人を愛するのか?」という質問が期待している回答は「目的」と「動機」です。
一方、「何故、愛しているのか?」という質問の場合は「愛している状態」の「原因」を聞いているのです。その原因は人によって様々です。「好き」と「愛する」はどう違うかという話しも以前にしましたが「好き」は状態です。その理由は人様々なのは当たり前でしょう。「愛する」は違います。愛する、というのは行動ですから「意志を持ってすること」です。その目的と動機は、人によって様々ではなく、人間に共通のものだと私は考えています。
「何故、人を愛するのか?」の答えは、誰でも同じです。と私は考えています。
それをこれから書きます。
(1)人を愛する動機 人間は一人では生きていけない生き物です。それはどういう意味かは以前書きました。
「人はひとりでは生きられないものなのか」(←リンク)
「友達は何故必要か」(←リンク)
自分が「愛する相手」というのは、自分にインスピレーションを与えてくれる人です。
自分の人生を高めてくれる人です。
そこには、異性であるかとかの区別はありません。自分の子供を愛するのも、子供というのは自分にインスピレーションを与えて、自分自身を発見させてくれるからです。
その時の「愛」には、初めから「見返り」というものを期待していません。すでに、たくさん貰っているからです。一方的で良いのです。「愛するからもっと愛して欲しい」という気持ちはまったく無い。「愛する」こと自体がもうそれで完結したものなのです。何も求めません。
※これは持論です。エーリッヒ・フロムは「愛するということ」という著書で「愛」を「異性への愛」「家族への愛」「自己愛」「ゴッドへの愛」などと分類していますが、私はそのようには考えられません。
そもそもゴッドなどというものを信じていませんし。
愛を分類している以外は大変参考になり、共感する本です。
愛するということ/紀伊國屋書店
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Amazon.co.jp人を愛する「動機」は、自分に強い影響を与え、生きる力と喜びを与えてくれる謂わば「太陽」のような存在だからです。それが動機であれば、愛するからもっと何かして欲しい、という気持ちが起こる筈がありません。それが動機であれば、「好きじゃないけれど愛する」という事もあるはずです。
この「動機」は、人類に共通のものの筈だと私は思います。
(2)人を愛する目的そもそも「目的とは何か」が人によって理解が異なりますが、私は何度か「目的の定義」を書いています。
「目的と目標の違いを再度考える-2」(←リンク)
すなわち、「目的」とは「どんな効果を達成したいのか」というものです。
ですので「人を愛する目的」を言うとすると、それは誰でも共通のもののはずで、私ならこう表現します。
人を愛する「目的」は、その愛する人(相手)の人生が更に高みに達すること。
そこには勿論ですが「見返り」を求める期待はありません。
その人がもっと高いところ(具体的には様々ですが)に行くように助けたい。
その人の喜びが自分の喜びです。
その人の幸せが自分の幸せです。
これは「見返りを求めている」こととは違います。
他の人の為に自分が一生懸命、心をこめて行動する、その事自体が喜びなのです。
※ 自分の子供に対しての気持ちを想像すれば分かり易いと思います。
※ ただし自分の子供を愛せない人もいますが、それは親として人間が未熟なのが原因です。
エーリッヒ・フロムの言うように、人を愛するには自分自身の能力が必須なのです。
目的、というのは、何度も書いていますが「達成する事」が大事なのではありません。
困難にくじけながらも、その事を諦めずに追求すること自体に意味があるのです。
それは人生と同じです。
この「目的」は、人類に共通のものの筈だと私は思います。
人を愛する理由は、対象が異性であろうと家族であろうと、会った事も無い他人であろうと、変わらず普遍的なものだと私は思います。
ご意見あれば、伺います。
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