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言葉の宝石

ティーンエイジの娘と話す時間の無かったお父さんが娘と日常に話したかった事をブログります(2011年9月から3年間限定)

「夢が叶わないとはどういうことか」の予定を変更して書きます。
■ 作業が詰まってて考える時間が足りないので

小学校に入ったとき、「作文」というものを書かされました。
当時は給食に「脱脂粉乳」という強烈に不味い飲み物がついていて、
地獄でした。

昭和30年代生まれの方はみんな同じ思いをしたと思います。

今では食物アレルギーが知れ渡って無理矢理給食を食べさせる学校は無いようですが
当時は「給食は残さず食べろ」が先生の命令でした。

地獄でした。

脱脂粉乳はおいしくない(というより激不味)ので残しているとどんどん冷める訳です。
もっと不味くて飲めなくなります。


先生が「給食について書きなさい」と言うので
私はさっそく「脱脂粉乳はまずい」という作文を書きました。

先生からしかられました。
こう言われた。
「給食のおばさんが毎日一生懸命僕たちの為に作ってくれる給食はおいしいです」と書きなさい。


大人の世界の仕組みを悟った、六歳のときの思い出です。
たぶん、死ぬまで覚えているでしょう。



することが溜まっていて予定通り進んでいません。

なので休憩の話題にします。

お漬け物を食べるとき、お父さんはおいしそうな音がするのに
自分が食べてもどうしてもそういう音が出なくて
「どうしてかなぁ」
とお父さんに聞いたら
「それは自分の音は自分のアタマの中で響くから外からの音と違って聴こえるからだよ」
と言われてそうなのかぁと思った。

という子供の時の思い出話を聞きました。

私は言いました。

「僕が子供のとき家に始めてテープレコーダーというものが来て、みんなが自分の声を録音して『僕の声って、こんなふうに聴こえるの?!』と全員が思ったけれど、それと同じ事だよね」

「その頃は誰もが自分の声にそういう違和感を持ったけれど、今は留守電に吹き込んだ自分の声を聞いても『自分の声とは思えない』などと全然思わない」

「あれはもしかして、当時のテープレコーダーの性能の所為だったのかな?」

「でも君は小さい時から色んな事に気がつく人だったんだね」

「そういう疑問を口にしたという事は子供のときにお父さんがそういう環境にしてくれていたという事でもあるんだよね」

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ヨーロッパに住んだ事がある人は思い当たると思いますが
フランス、ベルギー、ドイツなどの経験から言うと
あちらでは家の外で親子が対等に意見を言う事は躾として
有り得ない事です。

日本では私の世代では『親に口答えするな』と言われたので
自分の意見を親に言うとか、
何かを相談するとか、
親の考えを聞き出すとか、
「人間として対等の付き合い」というものはまったく、ありません。

今でも、父親と対等に話す事などありません。

ヨーロッパの躾も、いまだに同じようなもので、公共の場で子供が親に意見を言うと
厳しく周囲の人間に見られます
どこの国にも「まったく異なる常識」というものがあるものです

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しかしアメリカでは事情が少し違います
※アメリカと言っても広いですが私の知る限りの話です

アメリカンスクール(どこの国でも)では『人間はみんな対等』と教えられます
先生と生徒は対等。
親と子も対等。
そこには尊敬はあっても遠慮はいらない。
自分の思う事を堂々と話して良い。聞きたい事があれば何でも聞いて良い。
「それは違う」と思ったらそのように言って良い。

人間は平等なのです。
前にも書きましたが、子供は大人と同じように或は時には年齢の上のものより優れた判断をする子供もいます。子供だから分かっていない、子供は黙っていろ、という考えは間違っている。

アメリカという国の「何でもお金の額で計る」という価値観が大嫌いですが、人間はみんな平等だという考え方は、他の文化に無く優れている、しかもそれを実践している、という点は素晴らしい。私も同じ事をしたいと思う。(もちろんそのようにしてきましたが、これからもです)

ヨーロッパ人の家庭の子供と、ヨーロッパ以外で何人にもお付き合いしましたが、現地のアメリカンスクールに通っている子供たちはこのアメリカの文化を身につけていました。自分の親と同じ年代の私とも、平等な人間として付き合った。自分の子供にも、そうした。

自分の親とはそれができなかった事を、残念に思います。


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息子



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「夢」とは「目標」のことだという事を前回書きました。

夢=目標=《実現したい事》《叶うために努力している事》《そうなったらいいなと思っている事》です。

それはいずれ「叶う」かもしれません。

夢は、必ず叶うものではありません。
夢は諦めなければ必ず叶う、と言う人もいますが、そんな事はありません。
ただし、夢は諦めたら絶対に叶わない、というのは正しい。


では、「夢が叶う」とはどういうことか。

叶う人もいます。
いくつも経験する人もいます。

夢=目標ですから、叶ったら「その夢は終了」なのは明らかでしょう。
このとき、「夢は何の為に叶えるのか」を理解しておかないと、夢を叶えた事の意味が分からずに「ああ良かった」で終わってしまう。
夢が終わる。

あと何をしたらいいのか分からなくなる。

それは、「夢が叶うとはどういうことか」を考えていないとそうなるのです。

夢には「目的」があるはずなのです。
目的とは『実現した時の効果』です(私の定義です)

「目標をいくつか通り過ぎて、或はいくつかの目標がまとまって、目的に近づくのだ」と前回書きました。夢はいくつもあるのです。ひとつで終わるのではない。「ああ良かった」で終わるのではないし、「ああ良かった」と思う事が目的なのではありません。夢が叶うと、それは《今までとは違う世界に自分がいる》ことになるのです。その状態が、本当に望んでいたことのはずです。夢が叶った瞬間(それは計測できるものの筈)、あなたは《今までとは違う世界に自分がいる》。

それを楽しむこと。夢の終わりは新しい人生の始まり。夢が叶うということは新しい自分が始まるということです。

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言語が異なるとまったく同じ意味の言葉は一つもないものですが(私の研究による)、
目的と目標の対比も、外国語にはまったく同じものがありません。
【言語が異なると思考も異なるものです(私の研究による)】

英語で似たような言葉を探すと、
【目的】は私はobjective が近いと思います
【目標】はgoal が似ていると思います
(辞書にはどっちも両方の訳語として出てきてしまいますが)

objective という言葉は日本人には馴染みが薄い(ビジネス用語ではよく使うけれど)ので、mission と言った方が分かりやすいだろうと思います。

サッカーで得点するのはゴールです。
試合に勝つのはオブジェクティブです。
選手としては、ひとりひとり違うミッションを持っている筈です。(それはその人の人生観そのもの)

あなたは「ゴール」を決めた瞬間、今までと違う世界に入ります。
ゴールを重ねて、試合に勝ちます。
一生懸命生きているあなたの姿を見て、人々が勇気づけられ、子供に夢を与える事ができます。
それを自分の mission (目的)のひとつと考えるかどうかは、その人が決める事です。

ゴール(目標)を達成したらそれで「ああ良かった。終わり」ではない、という喩えとして書いてみました。

夢が叶う、とは、そういうことなのです。


次は「夢が叶わない」とはどういう事かを書く予定にします。

Enjoy your life!

今まで何回も「目的」と「目標」の違いについて書きました。

この二つはまったく違う性質のものです。

「目的」は、『終わったときの効果』のことです。
これは頭脳を使って自分で考えださないとならないものです。
自然に浮かんでくるとか欲求によって生まれるものではない。
アタマで考えて自分で「設定するもの」です。

「目標」は、あなたのしている事すべてについて存在します。
考えていなくても、あなたのする事には「目標」があるのです。
それは、とても具体的なものです。

この二つのうち、「目的」の方が「目標」よりも遠い所にある、という事が分かるでしょうか。
目標をいくつか通り過ぎて、或はいくつかの目標がまとまって、目的に近づくのです。
目的達成のための手段を実行する事を《仕事》といいます。(私の定義です)
仕事とは「目的を達成する為の諸作業」です。だから仕事はツラくても楽しいのです。


よく、「あなたの夢」を聞く人がいます。
「夢」とは何か?

考えた事がありますか。

《実現したい事》《叶うために努力している事》《そうなったらいいなと思っている事》

「お嫁さんになる」
「コンサートピアニストになる」
「お金持ちになる」
「自分のお店を持つ」
「外国語検定の一級に合格する」
「世界旅行をする」
「新国立劇場の舞台に立つ」
「年間の得点王になる」

そういう事を「夢」として人々は言います。

これはすべて「目標」です。
人間のする事は、意識していなくてもすべてに「目標」があります。
夢というのは、本人がそう意識していなくてもそれは「目標」のことなのです。

あなたの夢=あなたの目標 です。

目標は具体的ですから、叶った瞬間に叶ったかどうかが分かります。
すると、その夢はそこで終わりです。
次どうするのか?

たいてい、燃え尽きます。
お嫁さんになったら、もう次に夢見るものが無い。
そういう人はいずれ夫に見放されます。

達成感を味わったら、「もうこれで良い」と思ってしまいます。
夢の無い人生は楽しくありません。


そうならない為にはどうしたらよいか。
それは「目的」を考える事です。

目的とは『終わったときの効果』のことです。
目的とは「目標を達成して、そのことによって何をどうしたいのか?」という事です。
「何を成し遂げたいのかではなくて何をどうしたいのか?」です。

ピアニストになりたい、という人がいるとします。
そのためには何をどのようにしたらいいのか、私には具体的な事は書けませんが、それを考える方法は分かります。
必要なのはノートと鉛筆です。

ノートに、ピアニストになって、何をどうしたいのか、考えて書きます。
何故、ピアニストになりたいのか?を書きます。
時間をかけて、よく考えましょう。一番大切な事だからです。
『終わったときの効果』=ピアニストになって、何をどうしたいのか。

それが「目的」です。

目的が明確なら、そのために何をしないとならないのか考えるのは、目的が不明のときよりとてもカンタンのはずです。ここは専門知識のある人に意見を聞いてみましょう。「こうしたいけれどその為には何をしたらいいですか?」
人に聞かなくても自分で見つける事もできる人もいるでしょう。それも「目的」がはっきりしていればこそです。

その「何をするか」を書き出します。いくつもある筈です。
それを「どういう順番でするか」に番号をつけます。
次に「それはいつまでにするか」日付や時間を決めます。

番号順に並べ替えて書き直します。
番号のひとつひとつが「いつまでに何をするか」という《目標》になります。
番号の最後が、あなたにとっての「ピアニスト」になるための最後の《目標》です。
最後までやり遂げたとき、あなたにとっての「ピアニスト」という《目的》が達成されます。

その紙を壁に貼って、毎日その通りやれば良いのです。
最初にすべてを決める必要はありません。うまく行かない時はその紙を修正します。


あなたの「夢」はなんですか。
その夢の目的は分かっていますか?
分かっていれば、夢を叶える方法は見つかります。
自分のアタマで考える、と言うけれど
一体何を考えるのか分からない、という人もいるでしょう

今日はそれを書きます

知識、というのは100%、人から聞いたものです
100%です 例外はありません
何故かと言うと
いま説明しているこの言語(日本語)さえ「人から聞いたもの」でできているからです
★その意味がすぐには分からないかも知れません

一方、知恵というのは、自分の力で獲得するものです
「自分が分かった事」が即ち、知恵です

分かる、とはどういう事か、という話をしたことがあります
分かる、というのは、知識を得たこととはまったく違う
人から聞いたり教わったり本で読んだりするのが「分かる」ということではない

分かる、というのは、初めから自分自身の中にあるものを見つける、ということです
詳しく書いたものはこちら(←リンク)


分かるためには、考えないとなりません
考えないと、分からないのです
当たり前のように聞こえますが、
世の中の多くの人は 考えずに人から聞いた事だけで「分かった」気になっている。

分かる為には、まず疑問を持つ事です

人から聞いた事を鵜呑みにしない
Question everything what you are told.
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子供のときは、言語を習得するのと同じように
周りの人間の言う事をそのまま覚える事が生きる為に必要です

けれども、少し大きくなると、まわりの大人が知らない知識を持つようになります
そして大人の言う事に疑問を持つようになります

★大人はなんでも分かっているわけではない

子供の方が分かっている事もたくさんある

幼稚園児が百人一首を暗記しているのが凄いとか言う人もいるけれど
子供は大人と変わらない能力を持っているのだから
何かを集中してさせたらできるようになるのは当たり前です

言語を覚える能力だって、五歳くらいまでが最高に高い
(バイリンガルになる限界はこの年齢です=私の研究による)

大人は子供より賢い訳ではありません
大人は子供が進化したものではないのです

大人にもバカはたくさんいる
ものを考えない大人はなにも分かっていないのと同じ
そういう大人は子供以下なのです

自分のアタマで考えると言っても、何を考えるのかというと、
■ 子供のときに疑問を持った事 です

それは何故なんだろう?という好奇心
それは違うんじゃないか?という疑問

そういう、物事に対するセンサーというのは
子供のときでも十分敏感です

むしろ、大人になるほど物事を気にしなくなる


子供のときの「何故だろう」「どうなっているのだう」という気持ちを忘れず、自分で答えを見つけるまで諦めずに考える事。それが知恵の源になるのです。

考えるのには時間がかかる。知識の補充も必要な事もある。すべての答えは初めから自分の中にあるものですが、それを見つける為、裏付けを取る為には、大学で勉強しなければならないこともあるかも知れません。けれども、「分かる」ということの出発点は、子供のときの「疑問」です。疑問を感じる能力は、子供のときの方が高いように私は思います。疑問はカンタンに捨てたりせずあなたの引き出しに大事に入れて下さい。



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「本当に分かり合う」事とは、どういう事か?

それは、「考えている事をすべて理解してもらう」ことではなく
自分を知ってもらおうと正直に裸になっても
相手はそれを理解できないとき、
それを許容する度量を持つ事も
本当に分かり合える関係になるのに必要な事なのではないかと
思う。

前回結論を書きましたが、
これは「相手に話してしまった事について」の結論で、
その以前の「相手が理解してくれる程度の自分を相手に見せる」について
もう少し書きます。


■ 相手が理解してくれる程度の自分を相手に見せる

このことはつまり、「すべてを話すのではない」ということです。
前回も書きましたが、こういうことです。
・どこまで理解されるかという想像力を持つ
・それ以上求めると相手が傷つくという境界線を知る
・自分を隠すというのではなく、相手を知って自分を知る

これは、まず『話さない事』を取捨選択する、ということです。
※そのうえで話してしまった事について「相手はそれを理解できないとき、それを許容する度量を持つ事」なのです。そして、その話題は相手が理解できるようになるまでしまっておくか、二度としない。


では『話さない事』があるとき、それは「本当に分かり合う」ことなのかどうか?
相手が分からないからだけではなく、敢えて話さない方が良いと判断する話題というのはあっても良いのか?
相手が許容できない負荷を与える話とか、話すときっと傷つく話を、控えるのはいけないことか?



むかし、外国人の恋人がいました。
彼女は「自分の事はいままで生きてきた全ての事柄を含めて知って欲しい」という考えでした。
なんでも話して来るのです。
分かれた恋人とのエピソードも当然話してきます。こんな人と付き合ってこんな経験をして、だから今の私はこう考えている、という話を包み隠さず話してきます。
今だから書けますが、日本に独りぼっちで恋人がいなくて淋しくて恋人でもない人と寝たという話も聴きました。そのとき、「どんな事を話してもこの人には絶対に愛されている」という自信というものを感じて、私はつくづく「この人は日本人とは価値観が全然違う」と思いました。

その人と私は結婚しました。

問題はそのあとです。

同じ事を私に求めてきました。

私の価値観では、分かれた恋人の事は忘れるものなのです。
思い出はすべてゴミ箱に捨てたし、記憶が甦らないようにします。
何故かというと、苦しいだけで何も今の二人の関係にプラスにならないからだし、
自分は今の自分だけが自分であって過去の自分は存在していない存在だから
と考えているからです。

すると、

「話さなかった事」がバレる事が起こります。

すると相手は「隠していた」と考える訳です。

※隠し事は必ずバレます
※しかし、これは隠していたんじゃない
話したくない、話す事に意味が無い、話すと相手に負荷がかかる、
そういう事を話さないのは「隠していた」と言うのだろうか?


私は何度もこのことで彼女に責められました。

「何もかもすべて包み隠さず共有するのが夫婦というものだ」
「あなたの悲しみはワタシの悲しみ」
「私の喜びはアナタの喜び」
「あなたのどんな話を聞いてもワタシはケッシテキズツキマセン」
「ドウシテソノコトヲワタシニイワナカッタノデスカ?」
と真剣に訴えられるのです。



私は隠していたのではなく、その事を相手に話したくなかった。
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なぜ、隠していたのか?
隠していたんじゃない、ただ言わなかっただけ。

そういう台詞を私に言った日本人女性もいました。
その理由は、いまでは知る由もありません。



息子
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(前回の記事)
本当に分かり合う、とはどういうことか(←リンク)






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友達はなぜ必要か、については既に書きました。

それは、自分という存在は、他者の存在があって初めて確認できるものだからです。
詳しい説明は「人はひとりでは生きられないものなのか」に書きました(←リンク)


人間は「理解してもらいたい」生き物なのです
自分のことは「誰かにそう言われた」からそう思うのです

『本当の自分』などというものはいません

よく、こういう事を言う人がいます

『私の事を全くお分かりになっていない』
『あなたは私を誤解している』


そんなことは有り得ません。

『私の事』というのは

「そのように思って欲しいという自分の姿」のことです

それは自分の勝手な願望にすぎない(←リンク)


人間は、誰かに理解してもらって初めて自分でいられる生き物なのです
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今週、この本を読みました。



ブルーの薔薇 -月子の恋-/秋野みか

¥398
Amazon.co.jp


分かり合えない壁というものを女性の手で書かれた小説なのですが(私の会社で出版しました)
「分かり合いたい」というのは上記のような本能なのだと私は考えていますが、
そしてこの小説の主人公の女性【日本人】も繰り返し「分かり合える人がどこかにいて欲しい」という希望を捨てないで生きているところが共感するのですが、

ですが、が多いですが(笑)

ですが、最後の方に、主人公の上司【日本人男性】が強烈なことを言います。

He said,「これは、一つの考え方だと思うんだけど、物事をできるだけシンプルに見せる方が他人には親切なんだよ」
「どういう意味ですか?」
「他人に自分を理解してもらうのに、苦しませないからさ」



インスパイアされました。

人間だれしも「理解してもらいたい」と思って生きていると思っていましたが、こういう事を言える人がいるとは思いもしなかった。この男性は達観している。小説の中では三十代くらいの係長ですが実際にこういう事を言える人はもっと年長の人だと思う。

思い当たる事はたくさんあります。

自分の親が実はどういう人間か、というのは大体25歳を過ぎると分かる、と前にも書いた事があります。それはがっかりする経験でもあり、それで許せる事もある経験です。

友達のような親子【なんでも話せる親子】も見かけますが、私の経験では「親とはなんでも話せない人」の気持ちの方がよく分かる。それは色々な事情があるだろうけれど、理由の一つには「分かり合えないから」があります。

親なんて、自分の考えている事は到底分からない。

そのことを明白にする事がウンザリしたり悲しかったりガッカリしたりさせられるのが苦痛なのです。だから、親とは深い話をしたくない。「なんだ、ちっとも分かっていないじゃないか」という思いをしたくない。

学校の先生に対しても同じです。何も、世の中の事さえも、分かっていない人と話をしたくない。

友達とも、本音の深い話をするのが気が進まないことは誰でもあるでしょう。
分かってもらえない事を怖れるのです。
それは、相手に対する「ガッカリ」でもあり、自分が理解してもらえない事で孤独感が募ることでもあります。どうしても理解し合いたい相手の場合、相手が分からない事を話すと、それが相手を傷つけることにもなる。

そこをこの男性は「物事をできるだけシンプルに見せる方が他人には親切なんだ」と言っているのです。

自分のすべてを見せない。相手が受け入れられる程度のものだけ、相手に見せる、という意味なのだと私は思う。

それは大人の芸当です。

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人間は、誰かに理解してもらって初めて自分でいられる生き物なのです

それでも、その事にこだわらないという態度。
分かってもらいたい、けれども、それをどこまでも追求しないこと。

それは、強い人間だけが持つ事のできる優しさなのだと思いました。

『優しさ』の定義(←リンク)
※「やさしい」とは「想像力のある事」を言うのだと私は考えます



同じ小説の中で、別の男性のこういう台詞も出てきます。

「でもね、人間は愛し合っても別々の体を持っている限り、本当に分かりあうことは難しいのではないですか?」

これも真実ですが、「本当に分かり合う」事とは、どういう事か?

それは、「考えている事をすべて理解してもらう」ことではなく

■ 相手が理解してくれる程度の自分を相手に見せる
・どこまで理解されるかという想像力を持つ
・それ以上求めると相手が傷つくという境界線を知る
・自分を隠すというのではなく、相手を知って自分を知る

そういう事なのではないだろうか。
自分を知ってもらおうと正直に裸になっても
相手はそれを理解できないとき、
それを許容する度量を持つ事も
本当に分かり合える関係になるのに必要な事なのではないかと
思う。


読んでみてください
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素晴らしい言葉を聞いたので引用させて戴きます。
(私の作文ではありません)

困ってる人に優しく手を差し出してあげられる人間、人に感謝の気持ちを伝えられる人間(特に身近な人に対して)、どんな人に対しても「ありがとう」、「御免なさい」と言える人間、人の不安や悲しみを和らげたり取り除いてあげられる人間、誠意をもって人に接し「この人となら一生付き合っていきたい、一緒に頑張っていきたい」と思わせるような人間、自慢をしない人間、陰口悪口をたたかない人間、「あの人なら大丈夫」と信頼される人間、私はそういう人が素晴らしい人間だと思ってます。
(原文のままです)




《陰口悪口をたたかない人間》

私はそういう人間のために苦しみました
信頼を裏切られた
その人の名前ももう忘れましたが、苦しさは消えません

けれども、本人の心がきっと一生
恥ずかしいと言うはずです。


澤村翔子
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澤村翔子




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Kindleの出版を始めたので、Kindleの使い方をメモしておきます。


(1)Kindle端末を買う場合

Kindleにはハードウエアが7,980円~24,800円まで五種類あります(2013.4.18現在)

電子書籍を読むだけならコスパの高いKindle Paperwhite 7,980円をおススメします。
(wi-fiを使用しますから、自宅に無線LANが必要です)

自宅に無線LANが無い人、あるいはwi-fiとは何かが分からない人は、無料で電話回線を使って通信できるKindle Paperwhite 3G 12,980円を買いましょう。

アクセサリは必要ありませんが、充電はパソコンのUSBでするので、USBが何か分からない人、あるいはパソコンを持っていない人だけ、別売りの「充電アダプタ」990円が必要です。


(2)Kindle端末を買わない場合

Kindleを持っていない人はスマートフォンやiPadでも無料アプリをダウンロードすればKindle本を読む事はできます。こちらから無料アプリをダウンロードできます。

★Kindleの良いところは、複数の端末(KindleとiPadとiPhoneを持っている場合など)すべてに同じKindle本がダウンロードできて、端末を取り替えても読んでいた同じページが別の端末でもすぐに表示される事です。iOSと同じ機能です。


(3)Kindle本を買う

Kindle本はアマゾンからダウンロードして購入します。
それ以外の方法はありません。他人からもらう事も買う事もできません。
Kindle本「ブルーの薔薇」をKindleストアから探します。


ブルーの薔薇 -月子の恋-
秋野みか

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画面の右側に「購入の仕組み」という文字があるので、クリックすると説明が出ます。
★買うときに自分のKindle端末あるいは無料読書アプリの入った端末を登録します。
『1-Clickで今すぐ買う』ボタンを押すとその端末に無線でダウンロードされます。スゴイ!(笑)

(4)Kindle本を読む

難しい事は何もありません。Kindle端末を買うとマニュアルが画面に表示されます。
基本はスマホと同じ。タップすると次のページ。スワイプすると前、次のページ。ピンチすると文字サイズ変更。画面の上方をタップするとメニュー。

更にご不明の点があれば遠慮なくお問い合わせ下さい。(2013.4.18記)


$言葉の宝石-ブルーの薔薇
これからどんどん出版します!
楽しい!(笑)




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自分のアタマで考える
人の話を鵜呑みにしない
学習とは記憶する事ではない
書いてある事をそのまま信じてはいけない

これらの事を繰り返し言いましたが
それでは「なぜ自分のアタマで考える」ことが大切なのか?
を書いてみます


私たち人間は言葉を持っているため
自分の経験した事の無いことを知る事ができます
情報を詳しく伝達する事ができます
すべての情報は「誰かから聞いた事」です
※「すべて」では無いと思うかも知れませんが、すべてです
なぜなら「言語」自体が誰かから聞いて覚えたものだからです
あなたの知識はすべて「他人から聞いた事」でできています

■ ここは今日は深く掘り下げません(分かっている大人も少ない話です)


自分の経験した事の無いことを理解するには
相当の想像力が必要です
「聞いただけ」で理解する事はほとんどできない

※例えば、子供のいない人には子供がいる事がどういう事か、理解できません
※空を自由に飛ぶ事がどういう事か、飛んだ事の無い人には分かりません
※国際結婚がどういうものか、していない人には分かりません(結婚を一般化できないからではなく、共感できる経験が無いからです)


人の話を覚えるだけでは「理解」というものはできないのです
(記憶力がアタマの良さと勘違いしている人はたくさんいます)

何かを知っている事とアタマの良い事とはなんの関係もありません
※英語が喋れる事とアタマの良さと何の関係もありません

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何かを「理解」するには、必ず「自分のアタマで考える」作業が必要なのです
それは「想像力」のいる事です
経験していない事を理解するには相当の想像力が必要です
想像できない事は理解する事もできない

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「優しい(やさしい)」という日本語があります

ずいぶん曖昧でいい加減な言葉だと思う
定義が難しい言葉です

「やさしい」とはどういう事か?考えてみた事がありますか

「北風と太陽」の太陽が旅人にしたことがやさしい親切な事と説明する人がいますが間違っています

「やさしい」とは親切なことですか?
英語で kind ですか? 明らかに違います
※何度も言っていますが異なる言語の間に一対一でまったく同じ意味の言葉はありませんがこの場合は「似ても似つかない」という意味です(やさしいはkindではないです)

英語で gentle ですか? 明らかに違う

物腰がやわらかいことか?
性格が柔和な事か?
おとなしい男は「やさしい」か?

車に乗るときドアをあけてくれるガイジンが「やさしい」のか?
※思いやりがあることは優しいとは言えるけれども、西洋の場合はこれはただの作法であって人間の中身とは関係がありません。(中身はまったく思いやりの無い男はたくさんいるということです)

「思いやり」というのもとっても日本的な価値観です
外国にはそういう考えはありません
※異なる言語の間に一対一でまったく同じ意味の言葉はありませんがこの場合はそういう意味です

日本人の思いやりは「相手の都合を勝手に考えて自発的に何かを相手にすること」です
外国ではそういう考えは時に批難されます(するまえに聞け、と言われます=特にドイツ人【低文脈言語の話者】)

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「やさしい」とは「想像力のある事」を言うのだと私は考えます

自分のアタマで考えない人は(人の価値観を真似するだけの人は)
やさしくなることができない
なぜなら自分のアタマで考える事ができないと
自分の経験した事の無い事を想像することができず
想像する事ができないという事は理解しないという事だからです

「やさしい」とはつまり「相手の事を理解できる能力の事」だと私は思います

それは、しっかりと自立した価値観を持つ人間でなければできない
人になんでも頼って生きている人間にはできない
弱い人間は人にやさしくなれない
やさしさは強い意志がなければ生まれない
他人の事を考えることをしない人は決してやさしい人にはならない

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以前、「「思いやり」とはこういう事/ I like your tie.」という記事を書きました
また、「【休憩】素敵なひと (She was nice!)」という記事も書きました
どちらも、相手の事をよく考えて、自分の意思で決断してそのことをした人のエピソードです
なんだかふにゃふにゃした定義の曖昧な日本語の「やさしい」とは違うことのように思いますが、「やさしい」の定義を「相手の事を理解できる能力の事」とすればこの人たちをやさしい人たちと言っても良いかと思う《英語だと nice です》

花束を受け取ったとき「ありがとう」の他に「この花はとっても好きです」と一言付け加えられますか?という話を以前書きました(←リンク)


自分のアタマで考える=想像力を鍛える、です
やさしさの源は想像力なのです


考えてみて下さい。


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