事実はひとつ、真実は無数 | 言葉の宝石

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ティーンエイジの娘と話す時間の無かったお父さんが娘と日常に話したかった事をブログります(2011年9月から3年間限定)

子供の頃、小学校の先生がこう言っていました

「真実はひとつだ」

信じられませんでした。何故かと言うと「何故そう言えるのか」という説明が無いからです。
★経験した人は分かると思いますが、そんなことを先生に質問したら先生からいじめに遭います。


真実は一つではありませんね。

何故かと言うと、人間は一人一人、それぞれ自分の世界に生きているからです。
そこには他人とはまったく同じではない「自分だけのユニークなモノの見方」があり、
誰かとは共有できるかも知れないが誰とでも共有はできない「価値観」があるからです。

人は、それぞれ自分だけの世界を観ているのです。
(過去にもそんな話をしました)
客観などというものは存在しない。すべての物事は誰かの主観です。

ですから、事実はひとつ(ひとつだから事実と呼ぶのです)だけれど
それを「どう解釈するか」というのは個人の自由であり勝手であり
真実がひとつである理由は無いのです。

例えば、分かりやすい例で言えば「歴史」というものがあります。
歴史に「事実」はあっても「真実」はいくつもある。
コロンブスがアメリカ大陸の近くの島に1492年頃たどり着いた、のは事実でしょう。(私は見てきた訳ではないけど)
でも、「アメリカ大陸を発見した」と言う見方は西洋人の目からのものであり、先住民(インディアンのことです)からすればアメリカ大陸は最初からそこにあった訳で、1492年に発見された訳じゃない。

そういう簡単な事を小学校で説明できる先生が私の子供時代にはいなかった。


歴史には「事実」がたくさん書かれます。しかし、それが何を意味するかという「真実」は、ひとつには絶対にならないものなのです。中国と韓国と日本が「歴史認識を同じにする」事など、ゼッタイに有り得ないし、「しなくてはならない事でもない」なぜなら、「真実」はあなたの自由なものだからです。


あなたの真実は私の真実と同じである必要は無い。
真実は一つではない。

真実を一つに固定したい人達がいます。
その目的は何でしょう。
「自分と同じ考えにさせたい」「自分が正しいと思わせたい」「自分に従わせたい」「あなたを好きなようにコントロールしたい」
そういう背景がある可能性も、考えて見なさい。

今の若い日本人は、自分で物事を考える事をしない。
人と違う考え方をしない。
(それは日本の教育がそうなっているからです)

誰かの話に自分を同調させている。
みんながワールドカップに夢中になるから自分も参加して応援する。

もっと他にすることがあるんじゃありませんか?
烏合の衆の一員になって、ゴミ拾いしたから世界から誉められた事が免罪符になって、自分の事を肯定してませんか。


真実は一つではない。<<< だからいつも「私の言う事を鵜呑みにするな。自分のアタマで考えなさい」と書いているのです。

私の言う事は気にするな。信じる必要は無い。

すべての答えはあなたの中に初めからあるのです。
あなたの中にある真実を見つけるのはあなたにしかできないのです。


【参考】

『事実』には判断が含まれざるをえないことについて(「民事尋問技術」135ページ加藤新太郎編著 ぎょうせい2013.2.5 第3版6刷)

中野貞一郎「確認訴訟の対象」判夕876号9ページ(1995年)
「具体的な空間と時間により特定された出来事や状態としての『事実』が、そのままの形で民事訴訟に登場してくることは(いわゆる訴訟内の出来事を別とすれば)全く存在しない。『事実』は、通常、常に、当事者の主張その他の陳述、証言、書証の記載などにおける事実判断として現れてくる。なまの具体的事実についての知覚をなんらかの一般的な上位概念と上級命題にあてはめることによってえられた事実判断が述べられるのであって、述べる者の判断をまじえずに事実を述べることは、論理的に不可能である。ただ、その判断が単純・日常的であるか、複雑・専門的であるかという差異があるにすぎない。不動産を売った・買ったとか、約束手形を振り出した、債務を弁済した、というようないわゆる『法律事実』を述べるのは、当然に、法的な判断をも含むことになる」



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