釘師物語 -9ページ目

産経抄 2013.12.2


釘師物語

写真のお年寄り、御年106歳で黒田節を舞う姿である。


昇地三郎(しょうち さぶろう)さんという。


障害者教育に一生をささげた人だ。


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産経抄 2013.12.2


 兄弟は毎朝、障子の穴から通学する子供達をうらやましそうに眺めていた。

二人はともに、脳性小児麻痺だった。兄の有道さんは学校でひどいいじめに遭い、中学二年で退学を余儀なくされる。弟の照彦さんは、小学校に入学すらできなかった。


 当時、福岡学芸大学(現・福岡教育大学)で心理学を教えていた父親の昇地三郎さんは、二人の姿を見て決意する。

「自分で学校を作るしかない」。

昭和29年、私財を投じて福岡市内に設立したのが、福祉施設「しいのみ学園」だ。


 照彦さんを含めた12人が、最初の入園者となった。有道さんは、職員を志願する。小学校に通っていたとき、有道さんを抱いて鐘をたたかせてくれた、「小使(こづかい)さん」が念頭にあった。開園式で有道さんは、「小使」の肩書きの入った名刺を来賓の県知事らに堂々と差し出していた。妻の露子さんは、わが子の成長ぶりを涙を拭きながら見守っていたという。


 「父ちゃんありがとう」という言葉を残して、有道さんは39歳で亡くなった。平成9年には露子さん、14年には照彦さん、翌年には兄や弟の面倒を見てくれ、いずれ園長を任せるつもりだった長女の邦子さんにも先立たれる。

昇地さんは、96歳で家族のすべてを失った。


 「『なすべきことはすべてした』という気持ちで、彼ら、彼女らを見送ってきた」と著書に書いている。昇地さんは悲しみに浸る間もなく、障害児教育について、講演に力を注ぎ、世界を飛び回った。


 100歳を超えてからは、長寿がテーマになることも多くなった。昇地さんの訃報が先週届いた。107歳の大往生である。3年後に横浜で開かれる「国際心理学会」で、「黒田節」を披露するのを楽しみにしていたそうだ。


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 「96歳で家族のすべてを失った」昇地さん。

その悲しみ、やりきれなさはいかばかりだったろう。

それでも昇地さんは、障害児教育にすべてを捧げる。


私財を投じて捧げる姿も、凡人にはとうてい及びもつかない偉業なのだが、

家族をすべて失っても、世界各国を飛び回った精神力も凄い。


凄い、と簡単には表現できないくらい“尊い”姿だ。



「日本の道徳教育は、偉人伝を教えればいい」

元駐タイ大使・岡崎久彦さんはいう。

私も同じ考えだ。


私欲のない社会貢献は尊い。

抗しようのない行いに感化され、日本人のDNAが活性化する。


日本第一の文化は、精神文化だ。


モノ作りがうまいとか、技術力があるとか、世界最古の伝統があるとかのカタチあるものではない。

カタチそれ自体は、胸を張って誇れるものだけれども、

それらはすべて、日本の精神文化が育んできた、“結果”でしかない、と思う。



偉大なる精神を教えてくれた昇地さんに合掌。



では。(・ω・)/

店休日

仕事終了ー♪


釘師物語

家から持ち込んだ焼酎と


『のだめカンタービレ』があれば


なにもいらない




でも


腹減った




店の冷蔵庫で冬眠してたツマミを叩き起こし


一緒に協奏曲を奏でる




何もかも忘れる至福のひととき

産経抄 2013.12.1

久しぶりの更新となります。


12月1日の産経新聞コラム。


よく、「今の日本人は、戦前の日本人とは違う」という言葉を目にする。

『武士の娘』という本を読んだが、

道徳やモラルにしろ、生きるうえでの覚悟にしろ、

まるで別人種・別民族とも思えるくらいの違いだ。


先般、道徳教育が教科として復活することが決まった

戦前と今の日本人の違いは、果たしてそれだけで埋められるものなのか?


それも最も大事なひとつなのだが、同時に私は、

『正しい歴史観』が必要だと思う。


現在の教科書に記載されている嘘の数々。

これらを正しく修正し、

その『正しい歴史観』を修めた親が子に諭す。

その子が、また『正しい歴史観』を習う孫と共感する。。。


そうやって、少なくとも三代にわたって同じ正しい歴史観を共有して初めて、

日本人が輝いていた、世界から尊敬されていた頃の日本人に戻れるのではないか、と思う。


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産経抄 2013.12.1


 インド代表の東京裁判判事として、日本人被告全員の無罪を主張したことで知られるパール博士は、裁判後の昭和27年にも来日している。

このとき日本の教科書を見て嘆いたという。

「日本は侵略戦争を行った」と書かれていたからである。


 産経新聞社『教科書が教えない歴史』によれば、博士は

「子供達が歪(ゆが)められた罪悪感を背負って卑屈、荒廃に流されていくのを、見過ごすわけには行かない」と訴えた。

こんなに早くから日本の歴史教育の問題点を見抜いていた外国の識者がいたとは、驚くべきことだ。


 パール博士だけではない。恐らく戦前からの日本の歴史を日本人以上に正当に評価し、好意を寄せてくれたのはインドの人々だ。

まだ占領下にあった昭和24年には、東京の子供達の願いを聞いてネール首相がゾウの「インディラ」を上野動物園にプレゼントした。


 昭和35年、皇太子、同妃時代の天皇、皇后両陛下がインドを訪問されたとき、そのネール首相はこう演説した。

「日本の政策には同意できたもの、できなかったものもあったが、常にわれわれは日本を日本国民、その美徳を尊敬してきた。日本は偉大である」


 そのインドを天皇、皇后両陛下が公式訪問されている。長年のインドからの招請に応えたもので、両陛下にとり35年のとき以来53年ぶりのご訪問である。

天皇陛下は訪問にあたり「インドへの理解をさらにさらに深める機会となることを期待しています」というご感想を発表された。


 ご高齢にかかわらず国際親善に尽くされる両陛下に、ただただ頭が下がるばかりである。やったりとご旅行いただきたい。同時に国民としてはこの機に、パール博士をはじめ他に例を見ないインドとの交流の歴史を思い起こしたいものだ。


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 インドのパール博士は、東京裁判に判事として参加。

11人の判事中、唯一の国際法の専門家だった。


そのパール判事が出した無罪判決は、現在、世界各国の国際法研究家からも「当然」との評価を得ている。


『パール判事の日本無罪論』 (小学館文庫)

田中正明 著


をご覧になっていない方は、ぜひ一読を。




ではでは。(・ω・)/