秘密の扉 根の深い木 | 気になる映画とドラマノート

気になる映画とドラマノート

厳選名作映画とドラマを中心に、映画、テレビ番組について、思いついたこと、美麗な場面、ちょっと気になる場面に注目していきたいと思います。

g

インド映画が特殊であるように、韓国ドラマもかなり特殊な構造を持っている。

 


 

 韓国ドラマの特殊な構造は、たとえば次のような事だ。

 


 

 韓国のテレビ局は、ドラマ振興に熱心で、国営放送から民放まで、各局が自局の一年に放送したドラマにアカデミー賞ふうに、「作品賞」「主演賞」「助演賞」などの授賞式を行うので、これがちょっとした一大イベントになっている。

 


 

 この主演賞で、興味深いのは、最優秀主演賞の候補者たちが、演じている役柄が、実際は、必ずしも、その作品の中の最も感銘深い役柄とは限らないという事実だ。

 


 

 たとえば、近年の傑作「根の深い木」という作品は、世宗を演じた俳優が主演男優賞を受賞したが、実際は、その作品が傑作であった所以は、役柄の位置づけとしては、二番手どころか、三番手の女官の役の女性像が、もっとも、感銘深く、もしその女官の存在がなければ、この「根の深い木」は、全くの凡作と言っていいものだった。

 


 

 このように、公式には、主演と目されているキャラクターが実際には、その作品の本質には、あまり関係なくて、その作品の見どころは、二番手、三番手の助演的立場の役柄の人物のエピソードが、深い感銘を見るものに与えているという場合が少なくない。

 


 

 そして、見事なまでに、韓国の芸能界の受賞式では、この実質的にすぐれた人物像をうまく演じた役者が受賞することはないと言っていいくらいだ。

 


 

 ウソだと思うなら、「シンデレラのお姉さん」のソウという名の女優の無視のされ方はどうだろう。

 


 

 「コーヒーハウス」では、主役の二人よりも、三番手の役柄の作家の秘書の役柄の女性のほうが、この作品では、重要だとほんとうは見る者には、明らかなのだが、表向きには、まったく無視されている。

 

意味の重みのバランスが図られて、主演のほうが意味が濃くなっているからで、ところが、韓国ドラマでは、いつのまにか、助演のはずの人物のエピソードが、深い感銘を湛えてうたいあげられて、その時、見ている側に、このドラマって、そもそも、誰が主役だったっけ?これって、なんの話だった恋愛?兄弟喧嘩?と分裂感に襲われるのであるが、そういう違和感を持ちつつもなお、場面そのものに強い感銘を受ける場合がある。

 


 

 どうして、韓国ドラマに限ってこういうことが起きるかというと、日本のドラマが、9話か11話くらいの設定になるよう、要請されているのに対して、韓国ドラマは、短いものでも、16話。20話、50話が普通だからだという事情がある。

 


 

 なぜ、話数が多いと、主役のエピソードと助演のエピソードの重みのバランスが狂ってくるのかというと、これは、次のような理由による。

 


 

 韓国の作家たちは、20話、50話という長い枠を課せられているために、スピンオフ作品を作る必要がないどころか、ひとつの作品に幾つものスピンオフを混ぜ込む事なしには、20話。50話が埋める事が出来ないのである。

 


 

 しかも、作品の中盤になって、主役ではなく、助演だからといって、軽いエピソードにすると、その日の放送が、印象の薄いものになるので、一回毎に全力で盛り上げようとする。主役の抱える問題の重みと助演の抱える問題の重みがしばしば平気で逆転してしまうのである。

 


 

 ところが、これを主演と助演の重みのバランスという観点でみると、破綻を来たすことになってしまう。

 


 

 韓国ドラマの名場面集的なスライドショーが非常に情緒豊かでロマンチックなのに、実際の作品はそうでもないというのも、これが関係している。日本のドラマなら、主演者の登場場面に限って、印象的に撮影するが、韓国ドラマでは、助演者も、時にまるで主演のように華麗に描かれる。

 




 

 スピンオフで独立させて成立せるべき重い逸話を、同じ作品中に描きこみ、「感動の多い」作品にしようとすると、テーマの分裂と主役脇役の軽重がめちゃくちゃになるのである。20話、50話というあまりに長い枠を課せられると作者たちは、この罠から逃れられそうにない。

 


 

 だから、あの「善徳女王」も、ミシルが主演なのか、 善徳女王が主演なのか、判断がつかない。善徳女王の恋人が主演なのか補佐役が主演なのかも、判断がつかない。

 

 それぞれ別作品にすることが可能な重い逸話が混在している。よく言えば綺羅、星の如き、神話的人物群でもあり、悪く言えば、いったい誰の物語だったんだとわけがわからなくなるようになっている。

 


 

日本の9話、11話完結モノだと、「それはまた、別の話」としなければならない逸話を、どんどん入れこまなければ成立しないのが、16話、20話、50話の世界なのである。

 


 

いや、むしろ、日本の9話、11話でさえ本当は長すぎる。せいぜい5話でやめて、冗長なシーンは、切って捨てたほうがいいくらいだ。要するに、昔の「東芝日曜劇場」の、あの1話完結くらいでいい。