日中戦争は戦争ではなかった。 | 気になる映画とドラマノート

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加藤陽子は「満州事変から日中戦争へ」岩波新書という本の「はじめに」に作家の吉田健一の文章を引用して、ヨーロッパ人の戦争観は日本人の戦争観とは違うという。ヨーロッパ人の考える戦争とは、「宣戦布告すればいつ敵が門前に現れるかわからず、又そのことを当然のこととして覚悟しなければならないということであり、同じく当然のこととして自分のこととしてその国が滅びることも覚悟しなければならないとわきまえて行われる。同じく当然のこととして文明が滅びることも覚悟して行なわれる」しかし、日本人はそういう覚悟さえなかった、と加藤陽子は言う。

 


 

 これまた、もっともらしいウソである。

 


 

 アヘン戦争、アメリカスペイン戦争、湾岸戦争、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線、第一次世界大戦など、日本が関わっていない戦争で、ヨーロッパ諸国国民が「宣戦布告すればいつ敵が門前に現れるかわからず、又そのことを当然のこととして覚悟しなければならないということであり、同じく当然のこととして自分のこととしてその国が滅びることも覚悟しなければならないとわきまえて行われる。同じく当然のこととして文明が滅びることも覚悟して行なわれる」などという意識を持っていたなど、まったくそのかけらもない。

 


 

 なぜ、吉田健一や加藤陽子にこういう妄想がうまれるかというと、日本が空襲を受けたり憲法が変更されたからのことで、むしろ、日本人の戦後の戦争観にほかならない。第一次世界大戦まで、敗戦しても、国が滅びた例はなく、ましてや文明がほろびる可能性も頭になかった。核爆弾は日米戦争の途中でさえ存在していなかったからだ。

 


 

 わたしはいつも思うのだが、東大卒業、東大教授といった勉学の俊英たちが、そろいもそろってこういうウソを自分でも信じきって青年に教育している事実の不可解さである。それは、オウム真理教の犯罪者たちが、弁護士、化学者、医師、語学など各分野でも一流のレベルの俊才であったことと馬鹿げたオカルト教義を実践した事実とも共通する不可思議さだ。

 


 

 加藤陽子は、橋川文三の「シンポジウム日本の歴史における言葉」を肯定的に引用して、「日中双方ともに宣戦布告しないで戦闘が続けられ、太平洋戦争末期まで日中和平工作が模索されていた。あれを戦争と思っていたのだろうか。」とは、日本人が戦争の覚悟もやらない覚悟も双方ともなかった、説明する。

 


 

 しかし、これこそ、対日侵略構想があったかどうか、疑わしいことにもなるのだ。侵略意思が確固としてあるならば、和平工作など不要に決まっている。

 


 

 加藤陽子は近衛首相のブレインだった昭和研究会の史料1938年6月7日に

 

「戦闘の性質は、日本と支那の国交回復を阻害する残存勢力との戦いである」という文章を紹介している。つまり、日本は戦争をしている意識がなかった、というのだ。

 


 

 では、同じ頃、軍部はどんなことを考えて戦闘していたのだろうか。

 

1939年1月。中支那派遣軍司令部「揚子江開放に関する意見」

 

「この事変は戦争ではなくて報復である。報復目的の軍事行動は国際慣例上認められている。」と。

 


 

 当時もいまも相手国が条約違反の行為をした場合、その違反行為を中止させるという目的であれば、船舶抑留、領土の一時占領は国際慣行上非難されない。

 


 

 加藤陽子は、これらの「戦争ではない」という見解が、ごまかしではなく、本当に主観的にはそう思っていたと信じる、と書いている。

 


 

 32年3月、国連のリットン調査団が日本に手渡した文書には、以下のような文言がある。

 

 「満州の変乱が起こった原因は、支那(チャイナ)が、条約によって正当に日本が持つ権利を承認しなかったからだ。日本はその正当な権利を守るために、防衛せざるを得なかった。」とこう書いてあった。

 


 

 加藤陽子は、当時の日本政府は主観的には、チャイナの条約違反に対する正当な報復行動と考えていたので、だからこそ、戦争という認識もなかった」と認めている。

 

 

 

 その上で、その主観は間違いだと言う立場が加藤陽子の立場なのだが、およそ、加藤陽子の立論は、少なくとも「東京裁判」の「侵略共同謀議」説を否定してしまうので、「過失開戦」になってしまうのは。たしかなのだ。