フィリピン史の一側面 | 気になる映画とドラマノート

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フィリピン史の一側面から見える世界史

 


 

1898年、5月、フィリピン独立軍とアメリカの連合軍がスペインを撃破したその時、独立軍のエミリオ・アギナルド将軍は列車の中で、「神の摂理により独立は我が手中にある」と宣言して、アメリカの連合軍の到着を待ちわびた。

 


 

 「アメリカの国旗がたなびくところに集まれ、アメリカはわれらの救世主だ。」

 


 

 フィリピン軍はスペイン駐屯地や修道院を制圧した。

 


 

 エミリオ・アギナルドは共産主義者ではなかったので、スペイン人司祭は追放しなかったし、地主と小作農の関係にも手をつけず、スペインに協力した者と独立を戦った者を和解させて、独立を目指そうと考えた。

 


 

 その半年後、1898年12月。

 

アメリカは、スペインに2000万ドルを支払って、スペインと宥和的にフィリピンを買い取った。

 


 

 翌年2月には、アメリカからすれば「大いなる誤解」をして今度はフィリピン人はアメリカに挑む。

 


 

 マッキンリー大統領は「フィリピン人をキリスト教徒とし、神の恵みによりかれらのそばでわれわれは最善を尽くす」と言った。

 


 

 また1899年のアメリカにおけるフィリピン委員会では、マッキンリーは、「フィリピンはわがままな太平洋の孤児」だと言った。

 


 

 フィリピンはスペインからアメリカに養子に出された孤児だったのである。アメリカ自身にとって、フィリピンに対して「搾取だとか隷属だせようという気持ちはもうとうなかった。(その後、ルーズベルトは日米戦争の目的は、朝鮮の日本よる奴隷状態だと広言した)

 


 

 コーネル大学教授ジェイコブ・シャーマンは、「フィリピン諸島とは、われわれの娘としての共和国であり、アジアのすべての<未開の人々>にとっての希望の星」だと言った。

 


 

 そして、シャーマンが議長を務めるシャーマン委員会は、なにをフィリピンはアメリカに反抗しているのか、といぶかり、困惑して論議した。

 


 

 マッキンリー大統領は言った。「フィリピンは、アメリカ国旗のもとで、フィリピンの人々にキリスト教の神から与えられた良き安定した政府を妨害されないよう、アメリカが保護しなければならない」

 


 

 この時のアメリカ人の善意に満ちた弾圧による死者は、50万とも20万人とも言われる。この説が、日本嫌いの共産主義者の南京虐殺30万人とか、従軍慰安婦20万人とかのように、でっち上げかどうかはわからない。

 


 


 

 しかし、このように、アメリカの政治家たちが言って、服従さる過程で、20万人以上死んだのは確実とされる。

 


 

 1901年アメリカはフィリピン国民を強制移住させる。

 

 1902には、コレラが流行したので、公衆衛生管理を「してあげる。」

 

 1903年から5年には、国勢調査をした。

 

 アメリカ人はイギリス人がマラヤを経営している実態を書物を取り寄せて、件名に研究したが、どうも、フィリピンは違うようだとわかって、四苦八苦した。

 


 

 フィリピンには、タイや日本のような世襲制の首長に似たものがいないことがわかった。つまり、その国を伝統的に支配する資質を備えた人々がいないのだ。

 


 

 (この時のアメリカはまるで育児に困惑する親のようなものだ。)

 

 アメリカ人としてはこれではとりつく島がないということで、誰を通じて民主主義を注入すればよいかわからないのだった。

 


 

 アメリカは、はたと気づいて不思議でしかたなくなった。

 

 伝統的首長がいないのなら、スペインに抵抗した人々はなんで統合されたんだ?と。そこでどうしたかというと、個々ばらばらにそこで暮らす、弁護士、医師、商人、農園主を集めて、スペインへの反抗はどうして集合したのか。共産主義でもなければ、王族の下に集まったのでもないのなら、なんだ?いま、アメリカに抵抗している 人々はどうすればおさまるんだ?と。

 


 

この時、集められ聞かれた比較的裕福で教育もある人々は、華僑であるか、または、現地人とスペイン人の混血だった。

 


 

 シャーマン委員会は結局、こう結論づけた。

 

「フィリピンの革命家たちは、個人的な支配と財を得る欲望を持って動いているのであり、配下の民衆は脅かされて運動をしているのだ」と。

 


 

 そして、フィリピンはその中の比較的裕福な商人も含めて、「主権を持つ国家」をとくに望む意識を持っていない」と結論した。

 


 

 そして、アメリカ人はかれら繁華街の富裕層に、出身の村に帰って、アメリカに従うように、説得して欲しい、と頼んだ。

 


 

 すると、彼らフィリピンの華僑とメスティーソの答えは、山賊どもを制圧してほしいというものだった。そして、彼らは自らを「アメリカニスタ」親米派と自称した。

 


 


 

 アメリカは、国民は主権に対する意識すら持っていない(たとえば、竹島を共同管理するといったような)から、持つようになるまで、保護してあげるべきだ、だから、ゲリラを掃討するのだ、とこう考えた。

 


 

 じつは、フィリピンのマニラ富裕層は、村々とまったく関係がなかったのである。(たとえば、日本の場合、東京、大阪の自治体の職員は実際は、全国の地方に祖父母がいることがめずらしくない。)

 


 

 驚くべきことに、アメリカ人が理解できなかった、フィリピンの人々がなぜ、伝統的首長もいないのに、スペインの教化したキリスト教にも属さないで叛乱集団がうまれるか、という謎は、スペイン統治の及ばない山のなかに別の中心が存在したことが、後にわかる。そこをスペイン人は「山賊、ごろつき、呪術、身分不詳の者のいるところ」と考えていた。

 


 

現在、レイシズム、人種差別といわれるものは、実際のところ、人種、民族への侮蔑ではあっても、本音のところで心底生物学的優劣を信じているとは言えない。

 


 

 ところが、当時、欧米人は心底大真面目に南米人やアフリカの黒人を人間なのか猿の一種なのか考え込むほどだった。また、白人と有色人種の頭蓋骨の構造が根本的にちがうから、知能も違うという説などもあった。

 

 アメリカ人は、フィリピンの富裕層が、メスティーソ(スペインの混血)であるがゆえに、人種的意味で見込みのある人々だと考えた。

 


 

 1901年、平定しがたいゲリラに手を焼いたアメリカ軍フランクリン・ベル・准将は、演説の中で、フィリピン人ゲリラ(その多くはメスティーソ(混血)ではない。)を「横柄、思い上がり、生意気、恩知らず、無節操、狡猾」と呼び、アメリカ軍兵士は公正で信頼でき、礼儀正しく善意に満ち、寛容精神があり、かっこいいと演説した。(なるほど、フィリピンの人に比べてアメリカ人はかっこよく見えたろう。現在でも、アメリカ映画のスターのほうが、世界のどの地域の芸能人よりも、たしかにかっこよさそうなのは確かだ)